(1) エルサレムと見張り人
60. エルサレムと神の見張り人
【聖書箇所】62章1~12節 (1)
ベレーシート
- イザヤ書62章は多くのシオニストたちにとって、いわばメイン・テキストです。エルサレムは、神がこの地上においてご自身の名を置かれるために選ばれた永遠の都です。「エルサレム」は神の主権によって建てられる都です。そのために用いられる人々の存在があったとしても、決して人間の力によって建てることのできない町なのです。それゆえ、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)と語られているのです。
- ところで、62章6節に次のようなことばが記されています。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書62章6節
エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。【主】に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
- 「エルサレム」とエルサレムの城壁の上に置かれた「見張り人」とに、どのような結びつきがあるのでしょうか。そのことを思い巡らしてみたいと思います。
1. 「エルサレム」という名称に隠された秘密
- 当「牧師の書斎」にある「再臨と終末の教え」の中に、「エルサレム」という名称に隠された秘密というタイトルで書いたものがありますが、ここでは、そこで記した見解とは異なる「エルサレムという名称の秘密」について記したいと思います。
- それは、ユダヤ人にもクリスチャンにも多くの影響を与えたユダヤ人のラビの一人、アブラハム・ヨシュア・ヘシェル(1907~1972)という方の見解です(「イスラエルー永遠のこだまー」、1996年、ミルトス社)。※脚注
- ヘシェル氏の見解は以下の通りです。(上記著書42~43頁)
●町の名エルシャライムには、どんな意味があるのだろうか。この町は初めシャーローム(サレム)-平和(創世記14:18)と呼ばれていたが、後にアブラハムがエレと名づけた。「これにより、人々は今日もなお『山の上にヴィジョンあり』と言う」(創世記22:14)。
●エルシャライムは、この両方の名をつなげたものだ。エルとシャ―ローム、「ヴィジョン」と「平和」。
- ここで私が驚いたのは、創世記22章14節の訳を「山の上にヴィジョンあり」としていることです。「エル」(=イェル)をヴィジョンとしていることです。
- 創世記22章はアブラハムの最大の試練が記されている有名な箇所です。神から「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。・・・そこで、いけにえとしてイサクをわたしにささげよ」と命じられて、アブラハムは神がお告げになった場所、すなわち「モリヤの地」に出かけました。4節に「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた(「ラーアー」רָאָה)」とあります。「モリヤの山」とは「エルサレム」のことです。
- アブラハムと一緒に出掛けた息子のイサクは父に尋ねます。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」その問いに対して父アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えて(「見つけて」רָאָה)くださるのだ」と答えます(8節)」。
- モリヤの山に着いて、アブラハムが息子のイサクをほふろうとしたとき、主の使いが天から彼を呼び、「手を下してはならない。」と止め、アブラハムが神を恐れていることを確認しました。アブラハムが目を上げて「見る」(「ラーアー」רָאָה)と、そこには角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいたのです。そこでアブラハムは、その場所を「アドナイ・イルエ」と名付けました。そこで人々は今日でも「主の山の上には備えがある」(14節)と言っているとあります。直訳的には「主の山において見られる」です。つまり、「主の山」には「ヴィジョンがある」という意味です。これが「エルサレム」の「エル」の意味です。
- そして「エルサレム」の後半の部分である「サレム」は、神の祝福の総称を意味する「シャーローム」(שָׁלוֹם)(その複数形は「シャーライム」)です。
- 「エルサレム」という町(都)の名称に秘められていることは、「神のご計画のヴィジョンとそこにある神のすべての祝福」です。ヘシェル氏の見解は、エルサレム(イェルシャライム)が神の聖なる歴史の満ち溢れた中心的な場であり、神の永遠のマスタープランにおける重要な鍵語であることを示唆しています。
2. 「エルサレム」の漸次的啓示
- 「エルサレム」はその歴史の中で漸次的に啓示されています。
(1) アブラハムを祝福したシャレムの王メルキゼデク(創世記14:18)
- 聖書で最初にエルサレムに関して登場した記事は、王であり、いと高き神の祭司メルキゼデクが突然のように現われて、アブラハムを祝福した場面です。イェシュアの大祭司としての系列は、アロンの流れではなく、このメルキゼデクの流れでつながっています。
(2) ダビデの町としてのエルサレム
- ダビデが全イスラエルの合意のもとで王となった後で、エブス人の住んでいた自然の要害のエルサレムを攻め取ります。そしてそこは「ダビデの町」と呼ばれるようになります(ダビデの出生地ベツレヘムも「ダビデの町」というので注意)。ダビデはそこに主の箱を運び、ダビデの幕屋という新しい礼拝スタイルを導入します。
- ダビデの子ソロモンはエルサレムに神殿を建て、そこに主の契約の箱を運び入れます。
- しかし偶像礼拝の罪のゆえに、エルサレムの神殿と城壁はバビロンによって破壊され、ユダの民たちはエルサレムからバビロンへと捕囚されます。
- 70年の捕囚(実際は50年余り)から解放され、エルサレムへ帰還した後、神殿と城壁は再建されました。
- 神の御子イェシュアはエルサレムで指導者たちによって多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられます。イェシュアの十字架の死と復活です。その後に、再びエルサレムに来られることを約束して天に引き上げられました。
- A.D.70年、エルサレムはローマ軍によって完全に破壊され、ユダヤ人たちは世界中に離散します。
(3) 再臨のメシアが王として治められる中心地はエルサレム
- 天に上げられたイェシュアはエルサレムの東のオリーブ山に王として再び来られ、反キリストと偽預言者は燃える火の中に投げ入れられます。サタンも底知れぬれ所に幽閉されます。そしてメシア王国が千年の間地上に実現します。
- 千年の終りにサタンは幽閉が解かれた後に最後の審判が行われ、主にある者たちはそのまま新しい天に準備されていた「新しいエルサレム」へ移されます。いのちの書に名の記されていなかった者たちはサタンと同様に燃える火の池(ゲヘナ)に投げ込まれます。その前に古い地と天はあとかたもなくなります。
(4) 新しい地における「新しいエルサレム」
- 「新しい天」にあった「新しいエルサレム」が「新しい地」へと降りてきます。「新しいエルサレム」とは神と人とが共に住む神の幕屋であり、永遠に続く御国です。
- 以上のように、神のヴィションは常にエルサレムをめぐって展開しているのです。なぜなら、神がご自身の名をそこに置くことを決められたからです。
3. 「エルサレム」と神の「見張り人」との関係
- さてイザヤ書62章6節で、神はエルサレムの城壁の上に神の見張り人(原文では複数)を置いたとあります。このことは何を意味しているでしょうか。神の「見張り人」とはどのような者たちなのでしょうか。それを一言で言うならば、「見張り人とは、神のご計画のヴィジョンを神と共有することであり、そのヴィジョンを悟り、その実現のために絶えず祈り、またそのことを語り続ける者たち」のことです。
- 「見張り人」と訳されたヘブル語は「守る、見張る、気をつけてる」を意味する動詞「シャーマル」(שָׁמַר)の分詞形「ショムリーム」(שֹׁמְרִים)です。
- 「エルサレム」の中に隠された神のヴィジョンとその祝福の全貌に対する一途な思いを与えられた者たちです。エルサレムを慕い求める者たちです。別名「シオニスト」と言えるかもしれません。
- 「見張り人」の長は、神ご自身です。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」(エレミヤ1:11~12)
- 神ご自身の他に、アブラハムをはじめ、預言者たち、また、シメオンやアンナもそうです。そして、主にある者たちは例外なくみな「見張り人」でなければなりません。そのためには、「御国の福音」を知り、主が必ずご自身のご計画(ヴィジョン)を実現されることを「見張る」者でなければならないのです。
4. 「新しいエルサレム」との関連
- 永遠の都エルサレムのヴィジョンは、実はエデンの園においてすでにあったのです。エデンの園から永遠の都エルサレムに至るまでの歴史を通して、そのヴィジョンは徐々に啓示されていきます。今日、それがかなり明確にされてきていると信じます。
- 注目すべきことに、「新しいエルサレム」、「聖なる都エルサレム」の規模は立方体で、その一辺の長さ、幅、高さはそれぞれ1万2千スタディオンです。これは日本の全域を包み込んでしまうほどの規模ですが、それはエルサレムをほぼ中心とする神が約束された地域となります。
(1) アブラハムに対する主の約束
【新改訳改訂第3版】創世記15章17~18節
17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
(2) アブラハムが旅した範囲
アブラハムは神に召し出されてウルという地からエジプトにまで旅をしています。そこから戻って、やがてモリヤの山(エルサレム)で信仰の試練を与えられます。そこでは神の御子の身代わりの十字架が啓示されていました。ヘブル書によれば、アブラハムは「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」とありますが(ヘブル11:10)、それは黙示録21章によれば、神によって設計され、建設された「新しいエルサレム」のことです。アブラハムは信仰によってそれを見たのです。信仰の父と言われるアブラハムのなんとスケールの大きい信仰でしょうか。
(3) ソロモンが支配した地域
【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌9章26節
彼は大河からペリシテ人の地、さらには、エジプトの国境に至るすべての王を支配していた。
- ソロモンが神殿を建てた後に、主は彼の王国の国境をエジプトから大河ユーフラテスまで拡張されました。
(4) イザヤの預言
【新改訳改訂第3版】イザヤ書19章23~25節
23 その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。
24 その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。
25 万軍の【主】は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」
- イザヤ書19章のこの預言は、中東の扉を開いてエジプトとイスラエルとアッシリヤを結ぶ大路を造るという神の終末的ご計画です。神は中東のアラブ人とユダヤ人を和解させ、地上の祝福とされるということです。なぜなら、アラブの祖先であるイシュマエルを産んだ母ハガルを主は見守っておられるからです(創世記16:10~13)。神の思いは私たちの思いと異なり、神の道は私たちの道と異なるのです(イザヤ54:8)。ハガルは、自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ(私を見守られる神)。」と呼びました。
- ユダヤ人とアラブ人(イスラム)の共通の祖先はアブラハムです。そのアブラハムの本当の息子はだれかをめぐって、「トーラー」ではイサクが真の息子であるとし、「コーラン」ではイシュマエルだとしています。そもそも民族的アイデンティティを異にしているわけです。それゆえに常に「敵対」があるのです。特にこの「敵対」は、イスラエル建国(1948年)以降、より顕著になっています。それを人間的な工作によって両者の和平を作り出すことは、「トーラー」と「コーラン」を混ぜ合わせて一つにするようなもので、不可能です。神こそ見張り人であり、神はメシアなるイェシュアによってのみご自身の御計画を実現しようとしておられるのです。
※脚注
●A・J・ヘシェル氏は、ワルシャワ生まれ。ナチスの迫害を逃れて米国に渡り、生涯ずっと米国で活躍した20世紀最大のユダヤ哲学者で、ユダヤ教神学学者の一人に数えられ、ハシティズム(ユダヤ教敬虔派)の伝統的なユダヤ教の家庭で、幼児よりユダヤ教の徹底的な学習を始め、十歳の頃には旧約聖書を全巻すべて覚え、さらにタルムードやカバラー(神秘主義)をマスターしたと言われています。-訳者(石谷尚子)あとがきよりー
2014.12.2
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