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(2) 主の手にある輝かしい冠なるエルサレム

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61. 主の手にある輝かしい冠なるエルサレム

【聖書箇所】62章1~12節 (2)

ベレーシート

  • イザヤ書62章には、エルサレムに対する主のほとばしる愛が多くの同義的並行法によって表現されています。

(1) 「シオンのために、わたしは黙っていない」=「エルサレムのために、黙りこまない」
(2) 「その義が朝日のように光を放つ(までは)」=「その救いが、たいまつのように燃えるまでは」
(3) 「国々はあなたの義を見(る)」=「すべての王があなたの栄光を見る」
(4) 「主の手にある輝かしい冠となる」=「神の手のひらにある王のかぶり物となる」
(5) 「あなたはもう、『見捨てられている』と言われない」=「あなたの国はもう、『荒れ果てている』とは言われない」
・・・・・

  • (5)の預言の背景には、エルサレムがこれまで「見捨てられた」ことがあったことを物語っています。一度目はバビロンによって、そして二度目はローマによって見捨てられます。なぜなら、エルサレムが完全に汚れたものとなっていたからです。しかし、「あなたはもう、『見捨てられている』と言われない」というこの預言が成就するのはメシアが再臨した後です。また、その存在の究極は「新しい天」から「新しい地」に降りてくる「新しいエルサレム」です。エルサレムはまさに主の永遠の喜びとなるのです。そのとき、エルサレムは「主の口が名づける新しい名で呼ばれよう」(イザヤ62:2)とあります。具体的にはその名が何であるのか記されていませんが、おそらくエゼキエルの言う「アドナイ・シャーマー」(יהוה שָׁמָה)「主はここにおられる」(48:35)と思われます。これは神と人とがともに住む意味であり、イザヤの「インマヌエル」に相応しています。
  • それゆえに、私たちはエルサレムに対する神のみこころを尋ね求めなければなりません。なぜなら、「新しいエルサレム」と「エデンの園」とは深いところでつながっているからです。

1. 神の永遠のご計画にある「エルサレム」

  • 私たちは、神の永遠のみこころにある(ご計画に基づく)「エルサレム」の城壁の上に置かれた「見張り人」として、「エルサレム」の召しとその意味を理解しなければなりません。そして昼も夜も、絶え間なく、ひとときもそのことを黙っていてはならないのです。主がエルサレムを堅く立て、この地(地上)でエルサレムを栄誉とされる時まで、私たちは語り続けなければならないのです。
  • イェシュアは弟子たちに「主の祈り」を教えられましたが、果たして、どのような意味で私たちが「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますようにあるように」と祈っているのかが問われます。私たちの祈りが、神の「見張り人」としてふさわしいものであるかどうか、神のマスタープランに沿った祈りとなっているかどうか吟味する必要があるのです。

2. エルサレムが主の手にある輝かしい冠となるために

  • 「エルサレム」について、「主の手にある輝かしい冠」「神の手のひらにある王のかぶり物」(3節)という表現で、その外観の美しさがたたえられていると同時に、「わたしの喜びは、彼女にある。」(4節)、「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」(5節)とあることから、内面的にも神の喜びの対象としてのすばらしい都となるのです。しかも神は「右の手と、力強い腕によって誓われた」とあります。神が誓われたならば、その誓いは必ずや成就するのです。
  • この約束が成就されるときまで、神ご自身が1節にあるように「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。」とその見張り人となることを語っていますが、同時に、神の心とヴィジョンをもって、寝ずの番をして主の再臨を待ち望む「見張り人」(6節)を置かれるのです。
  • さらに「エルサレム」が、文字通り、神のヴィジョンとすべての祝福を成就する聖なる都となるために、以下の事が命じられています。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書62章10節

通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。


●「通れ、通れ」、「盛り上げ、土を盛り上げ」のように、同じ言葉を繰り返すことで強調しています。

  • この命令は何を意味しているのでしょうか。「道を整え」、「大路を造る」ために、取り除くべき「石」があることを教えています。この取り除くべき「石」とは何でしょうか。おそらくそれは神のみこころに対する無知や偏見、そして無関心という石であるかもしれません。あるいは、キリスト教会が犯した過ちとしての「置換神学」も含まれます。
  • イザヤ書57章14節にも「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。」とありますが、そこでは神の民の道から「つまずき」となっている障害を取り除くという意味ですが、総論的にはそれは「偶像」です。「偶像」はすべて「自分のために」造られるものですから、人間的な思い、考え、計画などを意味しています。いずれにしても、神のエルサレムに対するみこころをもっと深く知るためには、的を射た視点が不可欠なのです。その視点を与えられたいものです。




2014.12.3


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