****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「(目を)開かせる」

詩119篇(3)「(目を)開かせる」גָּלָה ガーラー


18節「私の目を開いてください。私があなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」 (新改訳)

18節「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力に、わたしは目を注ぎます。」(新共同訳)

Keyword;「開く、覆いを払う」 to uncover, reveal, open, 18:15/98:2/119:18, 22/

  • 目を「開いて」と訳された「ガーラー」(גָּלָה)は旧約で189回も使われながら、詩篇ではわずか4回です。「覆いを取り払う、明らかにする、啓示する、隠れていたものが現われる、裸になる」という意味ですが、同時に「移す、捕囚に行く、捕囚に連れて行く」という意味もあります。捕囚という経験によって視点が移されることで初めて明らかにされるとということです。イスラエルの民はまさに捕囚の経験を通して、神によって賦与されていた「律法」(神の教え)の中に隠されているすばらしい神の祝福、その驚くべき素晴らしさに目が開かれたのでした。
  • そのすばらしさを、作者は「私の喜び」(シャアシュイームשַׁעֲשׁועִים、動詞は「シャーア」(שָׁעַע)と表現しています。この表現は旧約においては5回、しかもその5回はすべて詩119篇にあります(23, 77, 92, 143, 174)。このことは何を意味するのでしょうか。おそらく、この喜びはイスラエルの民をリセットすべく捕囚を許された神によって、彼らの霊の目が開かれて、その教え(トーラー)のすばらしさに目が開かれたことによるものです。しかもヘブル語では、普通、「喜び」を表わす語彙が「サーマハ」(שָׂמָח―joy, rejoice)であるのに対して、ここでの「喜び」は「シャーア」(שָׁעַע―delight)です。前者の「喜び」は、ある特別な事柄、経験によるものであるのに対して、後者の「喜び」は日常的な喜び、楽しみを意味します。
  • トーラーが日常的な「喜び」「楽しみ」であるということは、そのすばらしさにいつも心が開かれ、それに目を留め、それを慕い求めるというトーラー・ライフスタイルが築かれていたことを物語っています。「楽しみ」というのは、時間を忘れさせるだけでなく、創造性を引き出す力で、疲れることを知りません。むしろより豊かな発想や着想が生まれる源です。
  • ところで、目を「開いて」と訳された「ガーラー」の使用例として、民数記22章21~35節をあげたいと思います。バラムに忠実に仕えて来たろばがバラムの足を石垣に押しつけたり、うずくまったりしたことで、バラムは怒ってろばを杖で打ちました。「そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。」とあります。「目のおおいを取り除かれ」なければ、バラムはモアブの王バラクの指示によってイスラエルの民を呪うところでした。ところが神は、ろばを通してバラムの行こうとする道をふさいで阻止させようとしたのです。バラムの目が開かれたことによって、彼は神のみこころから外れることを免れたのでした。

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