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「ああ、不信仰な曲がった時代だ」

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76. ああ、不信仰な曲がった時代だ」

【聖書箇所】マタイの福音書17章14~23節

ベレーシート

●今回の箇所は、「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と言われたイェシュアの嘆きのことばを中心に、イェシュアがどんな思いでこのことばを発せられたのかということを考えてみたいと思います。そのために、これまでのコンテキスト(文脈)の流れを踏まえてみましょう。以下の図は、福音書の分水嶺とも言われるペテロの信仰告白からエルサレムでの受難と死と復活の予告(第二回目)までの流れとなっています。

画像の説明

●「あなたは生ける神の子キリストです」というペテロの信仰告白がなにを意味するのかが記され、メシアとなるために、イェシュアがエルサレムにおいて多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことが弟子たちに予告されてから、再び第二回目の予告がなされるまでの一連の流れがここにあります。

●弟子たちはイェシュアの受難と死と復活の予告を理解できませんでした。ですから、そのことに基づく弟子たちの生き方、すなわち「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」ということばの意味も理解できませんでした。そこでイェシュアは弟子たちの中から三人の者を連れて、山に登り、そこで変貌するという出来事を見せます。ここで最も重要なことは、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という天の父の声です。なぜなら、イェシュアの言うことは御父の声そのものであり、そこに神のご計画とみこころ、み旨と目的のすべてがあるからです。イェシュアの変貌の時にモーセとエリヤが現れます。旧約を代表する二人の登場は、イェシュアこそイスラエルに対する約束の実現者であることを証しむするものでした。エリヤの姿を見た弟子たちは、「まずエリヤが来るはずだ」と律法学者たちが言っていることを思い出して、エリヤの到来について質問します。その質問に答えて、イェシュアは「エリヤが来て、すべてを立て直します。」と答えます。ここでの「来て」の時制は現在形です。そして「立て直します」と未来形で答えながらも、イェシュアの先駆者として「来た」(過去形)バプテスマのヨハネをもエリヤと見なしつつ、ヨハネの運命を同一のものとして、「人の子も、人々から苦しみを受けることになる」ということを理解させようとしています。この問答で大切なフレーズは真のエリヤは「すべてを立て直します」ということです。

●この「立て直す」と訳された「アポカシステーミ」(ἀποκαθίστημι)はとても重要なことばです。これはイェシュアが死んで復活するという出来事なしにはあり得ないことだからです。この「アポカシステーミ」(ἀποκαθίστημι)は以下、共観福音書(マタイ12:13、マルコ3:5、ルカ6:10)がこぞって記している「片手の萎えた人のいやし」の記事に出て来ます。

【新改訳2017】マタイの福音書 12章13節
それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。

●この奇蹟は単に「片手の萎えた人」の話ではなく、イスラエルの民が「元の状態にすっかり回復される」ことを象徴する出来事、イスラエルのために御国を再興してくださるという話なのです(使徒1:6)。イェシュアの奇蹟はすべてメシア王国(御国)のデモンストレーションです。今回のマタイ17章14~18節にある「てんかんの息子のいやし」の話も、真のエリヤこそ「すべてを立て直す」という文脈の流れの中に置かれているのです。しかしそれが実現するために、イェシュアの「受難と死、そして復活」が不可欠であるという予告(第二回目)で全体が締められているのです。このように見ることで、「てんかんの息子のいやし」(悪霊に憑かれた子のいやし)の話をどういう視点から読むべきかが示唆されます。前置きが長くなりましたが、今回のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書17章14~23節
14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、
15 こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。
16 そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」
17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった(διαστρέφω)時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
18 そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。
19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」
20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」 
※「信仰が薄い」=「不信仰」(UBS4)=「アピスティス」 (ἄπιστος)。
「わずかな信仰」(N27)=「オリゴピスティア」(ὀλιγοπιστία)
21 ☆
22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。
23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。


1. 「てんかんの息子」が意味すること

●山を下りて来たイェシュアの前に、てんかんで苦しむ息子を持つ一人の人が登場して、「主よ、私の息子をあわれんでください」と懇願します。その息子は「何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れる」という大変な苦しみをかかえていることを述べています。「何度も、また何度も倒れる」ということばに、イスラエルの失敗の歴史がたとえられているのです。エゼキエル書24章の預言を見てみましょう。その中に出て来る語彙を、以下のように理解して読むと分かりやすいです(「新改訳チェーン式引照付き聖書」による)。

3節の「反逆の家」=ユダ王国、「」=「エルサレム」、「火にかける、水を注ぎ入れる」=「神のさばきを受ける」、
4節の「肉片、骨」=「エルサレムの住民」、
5節の「選り抜きの羊」=「エルサレムの指導者階級」、「よく沸騰させる」=「神のさばきの激しさを示す」、
6節の「流血の町」=「エルサレム」、11節の「さび」=「罪悪、不信仰」


【新改訳2017】エゼキエル書24章1~14節
1 第九年の第十の月の十日、私に次のような【主】のことばがあった。
2 「人の子よ。この日、ちょうどこの日の日付を書き記せ。ちょうどこの日に、バビロンの王がエルサレムに攻め寄せ
たからだ。
3 あなたは、反逆の家に一つのたとえを語って言え。『【神】である主はこう言われる。鍋を火にかけよ。これを据え、水をこれに注ぎ入れよ。 ※ここに「火」と「水」が出て来ます。
4 これに肉片、ももと肩の良い肉片をみな一緒に入れ、選り抜きの骨でこれを満たせ。
5 選り抜きの羊を取れ。鍋の下には薪を積み、よく沸騰させて、その中の骨も煮よ。
6 それゆえ、【神】である主はこう言う。ああ、流血の都、さびついている鍋。そのさびは落とせない。一切れずつそれを取り出せ。くじで決めてはならない。
7 彼女の血は、まだそこにある。彼女はそれを裸岩の上に流し、地面に流して、土をかぶせようとはしなかった。
8 わたしが、憤りを募らせ、復讐するために、その血を裸岩の上に流して、おおわれないようにしたのだ。
9 それゆえ、【神】である主はこう言う。ああ、流血の都。わたしもこれに薪を積み上げよう。
10 薪を増やし、火を燃え立たせ、肉をよく煮、香料を混ぜ、骨を焦がせ。
11 鍋を空にして炭火にかけ、その銅を熱くして、その中の汚れを溶かし、さびがなくなるようにせよ
12 しかし、 その骨折りは無駄であった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお火の中にあった
13 あなたの汚れは淫らな行いだ。それでわたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。あなたは、わたしがあなたに対する憤りを収めるまで、自分の汚れから決してきよくならない。
14 【主】であるわたしは言った。それは必ず起こる。わたしはそれを行ってなおざりにせず、惜しまず、思い直しもしない。あなたの生き方と行いにしたがって、あなたはさばかれる──【神】である主のことば。』」

●このエゼキエルのたとえは何を意味しているのでしょうか。ユダ王国において、王が主に対して不忠実になると決まって外国の侵略を受けました。その外国とはエジプト、クシュ、モアブ、アモン、ペリシテ、アラム、アッシリア、バビロンなどです。その都度、神はユダの民に対して悔い改めの機会を与えられましたが、神によるこれらの懲らしめは生かされることはなく、ユダは神への反抗の度を増して行きました。そしてB.C.587年、バビロン軍によるエルサレムの崩壊の悲劇が起こるのです。3~11節までの聖句は、ユダ王国の最初の王であるレハブアム王以来のユダの民の不信の罪を、神が取り去ろうとしているのですが、それは無駄であったことが、12節に記されています。「鍋を空にして炭火にかけ、その銅を熱くして、その中の汚れを溶かし、さびがなくなるようにせよ。しかし、その骨折りは無駄であった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお火の中にあった」という預言は、現実となったのです。また同じことが、A.D.70年のローマ軍によるエルサレム陥落、そしてやがて反キリストによる大患難時代のヤコブの苦難として起こります。エゼキエル書24章の反逆の家であるユダの「ひどいさびの鍋のたとえ」こそ、今回の「悪霊につかれたてんかんの息子」に言い表されているのです。

2. 「ああ」と訳されたイェシュアの嘆き

●マタイの福音書17章17節のイェシュアの「ああ、不信仰な曲がった時代だ」の「ああ」(「ホーイ」הוֹי)は、「災いの預言」が語り出されるときの「悲嘆」を表わす定型表現で、神の悲嘆と怒りが込められた感嘆詞です。神の悲しみと痛みを表わす語彙です。このことばはだれに向かって語られたのでしょうか。「不信仰な曲がった時代」、そして、「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と言っていますから、ここでは特定の人たちではなく、弟子たちのみならず、ユダヤのすべての人々に対して語っています。しかも「時代」はイスラエルの不信仰な時代を意味しますから、イェシュアの初臨から再臨までを含むものと言えます。イェシュアがこの世を後にして天に帰らなければならない時が迫っているのに、いつまであなたがたの不信仰に我慢していなければならないのかとイェシュアは嘆かれたのです。

●ユダの人々にこびリついている不信仰と曲がった反抗心という「ひどいさび」は、やがて訪れる大患難時代における獣と呼ばれる反キリストによる未曽有の迫害を通して取り去ることができるのです。このデモンストレーションこそ、てんかんの息子の悪霊追い出しの奇蹟なのです。これは、エゼキエル書の24章13節の「あなたの汚れは淫らな行いだ。わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。あなたは、わたしがあなたに対する憤りを収めるまで、自分の汚れから決してきよくならない。」ということばに表わされています。すなわち、未曽有の苦難の後、「曲がった手を元どおりにする」ように、キリストの再臨によって悪霊たちに象徴される偽預言者と反キリストとサタンの束縛から解放して、彼ら(イスラエルの民)を「元の状態にすっかり回復する」ことを暗に示しているのです。それが「その子をわたしのところに連れて来なさい」というイェシュアのことばに言い表されています。イェシュアが「その子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒された」(17節)とあります。ユダの人々にこびりついている不信仰と曲がった反抗心という「ひどいさび」が、メシアの再臨時には即座にきよめられるという、そのデモンストレーションがこの「てんかんの息子をいやす」出来事です。

3. イェシュアの言われる「信仰」とは

●マタイの福音書17章19節以降には「信仰」ということばが目立ちます。

【新改訳2017】マタイの福音書17章19~20節
19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」
20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」

●イェシュアの言われる「信仰」とは何でしょうか。それは「メシアであるイェシュアが多くの苦しみを受け、殺され、よみがえらなければならないという信仰」です。そしてそれが神のご計画における「御国についての信仰」です。その信仰があるなら、「この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります」とイェシュアは言われました。実際、メシアの再臨時には山が移動することが預言されています(ゼカリヤ14:4)。また、「山が移る」とは、不可能と思えることが可能となるたとえです。聖書で「山を動かすほどの完全な信仰」について、以下の箇所に言及されています。

【新改訳2017】Ⅰコリント書 13章2節
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

●ここでは完全な「信仰」と「愛」が対比されています。なぜ愛は信仰よりも偉大なのかと言えば、信仰は完全なものが現れれば必要なくなるからです。永遠の御国において必要なのは「愛」なのです。しかし、その永遠の御国が現れる前には、信仰はとても重要です。信仰だけでなく、希望もそうです。しかしそれらが必要なのは、神のご計画における御国の究極的完成がなされる時までです。弟子たちも含めて、当時の宗教指導者たち、および民衆の中でそのことについて悟る者はだれひとりいなかったのです。例外がいるとすれば、それは福音書に登場するベタニアのマリアだけです。

●彼女はイェシュアの足もとに座って、主のことばに聞き入っていた女性でした(ルカ10:38~42)。彼女はイェシュアが多くの苦しみを受け、死ななければならないこと、そして三日目によみがえらなければならないことを悟った人でした。ですから、過越の祭りでイェシュアがエルサレムに来た際に、純粋で非常に高価な香油を取って、イェシュアの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのです。イェシュアは「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」(ヨハネ12:7)と述べています。

●マリアは、イェシュアが十字架につけられる現場にも、また安息日が明けた復活の朝にも墓に行ってはいません。なぜなら、彼女は「メシアであるイェシュアの受難と死と復活」の話を聞いて、信じていたからです。他の弟子たちはイェシュアの復活をすべて見て信じたのですが、ベタニアのマリアだけは見ないで信じた幸いな人だったのです。これは現代の私たちの模範です。これがイェシュアの言われる信仰です。マルコの福音書には、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人(マリア)がしたことも、この人の記念として語られます。」(14:9)と記されています。

●弟子の筆頭であるペテロは、イェシュアのことを「あなたは生ける神の子キリストです」と告白をしたにもかかわらず、そのキリストがいかにしてキリストとなり得るのかを全く理解していませんでした。この告白後に、イェシュアが「ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」とき、ペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」といさめようとしたのに対し、イェシュアは「下がれ、サタン。あなたは、私をつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責しています。

●サタンは自分の姿をあらわすことなく、いろいろな場面で、いろいろな者に変装し、神の働きを妨害しようと働きます。ここの場合は、サタンがペテロに変装しているのです。それを見破ることができたのはイェシュアだけでした。聖書には、創世記2章にある「二つの木」、すなわち、「いのちの木」と「善悪の知識の木」の二つの系列を見ることができます。「善悪の知識の木」を食べることは、人間的な善悪によってすべてのものごとを判断しようとします。イェシュアの時代の宗教指導者たちがそうでした。律法に熱心だったタルソのサウロもそうでした。彼らはトーラーを扱いながら、いのちのトーラーではなく、文字(もんじ)のトーラーに熱心に仕えていたのです。つまり、いのちのない文字に束縛されていたのです。そして自分たちだけでなく、人々にもそれを強要していました。これを「律法主義」と言いますが、パウロはこれを「罪と死の律法」(ローマ8:2)と表現しています。これから解放してくれるのは「いのちの御霊の律法」、すなわち、「いのちの木」であるイェシュアを食べることによってです。「食べる」とは「信じる」ことと同義であり、一体となることを意味します。

●当時の宗教指導者たちは、「善悪の知識の木」から食べるなら「必ず死ぬことになる」という神のさばきの中で、神の律法の知識を得、それを熱心に学び、しかも人々に教えていたのです。同様に今日のキリスト教会もその系列に陥ることがあります。それをさせている正体がサタンなのです。逆に、「いのちの木」は神の基準によってものごとを判断します。これはイェシュアの他にはだれにもできませんでしたが、イェシュアの語ることばに聞き入っていたベタニアのマリアだけは、「いのちの系列」にある人でした。イェシュアの12人の弟子たちはみな、御霊が遣わされるまでは、「善悪の知識の木」の系列にいたのです。ですから、彼らは二度目の受難と死と復活の予告を聞かされても、悲しむばかりだったのです。聖書は「たいへん悲しんだ」と記しています。これは彼らが神の思いではなく、人の思いで考えていたことを指し示しています。イェシュアが「よみがえります」と言っているにもかかわらず、信仰によって結びつかなかったのです。とすれば、イェシュアの復活を受け止める信仰があるならば、たとえそれが「からし種」のようなものであったとしても、そこには神のいのちが隠されているのです。

ベアハリート

●幸いにも、私たち信仰者には「山をも移すほど」の復活の信仰が与えられています。たとえその信仰が完全でなくても、その信仰が与えられていることがどんなに感謝なことであるかを知らなければなりません。信仰は神からの賜物だからです。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙1章8~9節
8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

●ひとたび享受した復活の信仰を働かせて、神が実現しようとしておられる究極的ないのちを待ち望みながら、神の「いのち」(「ハッイーム」חַיִּים)の世界にさらに目が開かれるよう、祈り求めていきましょう。  

2020.4.26
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