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「あえぐ」

詩119篇(14) 「あえぐ」יָאַב ヤーアヴ

(カテゴリー: 渇望)

131節「私は口を大きく開けてあえぎました。あなたの仰せを愛したからです。」(新改訳)
「わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。」(新共同訳)

Keyword; 「慕う」 longing for 119:131 (旧約聖書中、ここ1回のみ)

  • 詩119篇には詩119篇特有の語彙(動詞)がいつくか見られます。たとえば、

①「学ぶ」と訳されたラーマドלָמַד(lamad)。詩篇では27回使われています。その多くは「教える」(teach)と訳されていますが、119篇では7節と71節の2回が「学ぶ」(learn)と訳されています。「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(119:71)は有名です。

②「喜ぶ」と訳されたシャーア(שָׁעַע)、詩篇119篇16, 70, 47節。英語ではdelightと訳されています。名詞形では「私の喜び」(My delight) שַׁעֲשׁוּעִיםとして使われています。119:24, 77, 92, 143, 173参照。シャーアשָׁעַע(sha`a)の「喜び」は、特別な「喜び」(rejoice)ではなく、日常的なこととしての「喜び」―オランダの歴史学者ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」でいうところの<遊び>の世界に近い感覚-、しかも高価で、尊い、大切な楽しみを表わしています。LB訳では「無上の喜び」と訳されています。神のトーラー(教え)を幾千の金銀にも勝るものとして高めたのです。

③「甘い」と訳されたマーラツמָלַץ(malats)も(119:103)。サウル王の息子ヨナタンが戦場で少しばかりの蜂蜜でも目が輝いたとあるように、まさに、昔は甘いものが貴重でした。「あなたのみことばは、私の上あごに名と甘いことでしょう。密よりも甘いのです」という表現は119篇の中のまさに白眉です。

④「目を留める」と訳されたシャーアーשָׁעָה。目も心も注ぎ込む、しかも好意をもってじっと凝視する、注目するという意味です。英語ではregardと訳されています。新約聖書のヘブル人への手紙12章2節にある「アフォラオー」(αφοραω)というギリシア語も新約聖書ではここ1回しか使われていませんが、へブル人への手紙のキーワードです。まなざしをイエスに固定して、イエスから目を離さないでいること、イエスだけを見つめながら、イエスを仰ぎ見るという言葉です。שָׁעָה(sha`ah)もそれに近い意味合いではないかと思います。

  • そして、今回の「あえぐ」(渇望する、慕う)と訳されたヤーアヴיָאַב(ya’av)も詩119篇にしか登場しない動詞です。なぜ「あえぐ」のでしょうか。それは129節にあるように、「あなたのさとしは奇しい(wonderful)」からです。死海写本では「奇しい」を「蜜蜂の流れ」と訳しているようです。
  • バビロン捕囚の経験によって新しく生み出された言葉を通して見えてくるものは、「みことばの戸が開かれて」、神とその教えに対する新しいいのちのかかわりなのです。

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