「からし種」と「パン種」のたとえ
56. 「からし種」と「パン種」のたとえ
【聖書箇所】マタイの福音書13章31~35節
ベレーシート
- 今回はマタイの福音書における第三の説教である「天の御国の奥義」、その第三回目です。今回は「からし種」と「パン種」のたとえを取り上げます。このたとえは群衆に対して語られたものです。当然、弟子たちも聞いていたと思われますが、天の御国の奥義のたとえの後半(44節以降)に語られる弟子たち向けの話ではないということ、このことが重要な点です。なぜなら、イェシュアが群集にたとえで話すのは、「彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです」(13:13)と述べているように、群衆には天の御国の奥義を知ることが許されていないからなのです。つまり、たとえでイェシュアが語るのは、悟ろうとしない者に対するさばきの一面があるということでもあるのです。その視点から「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」を理解するとどのような解釈になるのか、それが今回のポイントです。
- まず、テキストを読んでみたいと思います。
【新改訳2017】マタイの福音書13章31~33節
31 イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。
32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」
33 イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」
1. 真逆の解釈
- 文脈を無視して「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」だけを取り出して読むならば、このたとえは、天の御国が確実に成長して世界中に大きく広がっていくということを明らかにするための話だと思ってしまいます。つまり、「からし種のたとえ」も「パン種のたとえ」も、いずれも天の御国そのものを指していると理解します。「からし種のたとえ」は、小さなからし種がどんな野菜よりも大きくなるように、御国はたとえ今どんなに小さくあったとしても、やがては巨大なものになっていくということ。また、「パン種のたとえ」も同様に、パン種の力が全体に大きな影響を与え、外形を膨らませていくと解釈します。「からし種」が外面的・量的な成長に強調点が置かれているのに対し、「パン種」は内面的・質的な成長に焦点が当てられると考え、特にパン種の場合は、「女」がパン種を取って入れていることから、イェシュアの群衆には女性たちもいるので、彼女たちのことを配慮されて語られたものだという解釈をします。
- しかし、イェシュアが群集にたとえで話されたのは、彼らに天の御国の奥義を知られないためであったはずです(マタイ13:11)。御国の秘密を理解されないためであったはずなのです。だとすれば、「からし種」と「パン種」のたとえが御国の成長に関するものだとすれば、決して奥義とは言えないと思われます。「毒麦のたとえ」、および「からし種、およびパン種のたとえ」とはいずれも群衆たちに対して語られたものです。その後にイェシュアの弟子たちは「毒麦のたとえ」の意味について尋ねています。毒麦のたとえでは、自分の畑に良い種を蒔いた人の敵(「エクスロス」ἐχθρὸς)の存在が強調され、その敵が毒麦を蒔いて行ったことが語られています。文脈としてはその話に続いて「からし種とパン種のたとえ」が語られているのです。そのことを考えるとき、「からし種」と「パン種」のたとえは、群衆が思いもつかないことが語られていると考えるのが自然なのではないでしょうか。
- 今回取り上げる「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」は、単純に、天の御国の完全な姿を描いているのではなく、むしろその反対です。毒麦のたとえが語られた後に付け加えられたたとえなのです。つまり、毒麦を蒔いたのは神の敵である悪魔(「ディアボロス」διάβολος)のしわざであり、神の民イスラエルはこの敵の支配に完全にはまってしまうということを教えようとしているのです。
- ギリシア語原文で13章のたとえを見てみると、以下のことが分かります。
前半の「種蒔く人のたとえ」⇒「毒麦のたとえ」⇒「からし種のたとえ」⇒「パン種のたとえ」にある矢印(⇒)の部分には、いずれも、「別のたとえ」(「アッロス・パラボレー」Ἄλλος παραβολὴ)をイェシュアは語ったとあります。しかし後半の (⇒※)「宝のたとえ」⇒「真珠のたとえ」⇒「地引網のたとえ」にある矢印(⇒)の部分には、いずれも、「また」(「パリン」Πάλιν)とあり、イェシュアは「天の御国は~のようなものです」と語ったとあります(※印のところはビザンチン・テキストではそうなっていますが、ネストレ27版にはありません)。これは偶然ではなく、13章のイェシュアが語られた前半の四つのたとえと後半の三つのたとえは、明らかに分けられていると考えられます。それは前半のたとえが群集に対して、悪の国が神の国に対してどのように反抗し滅ぼそうとしているかを示すものであるのに対して、後半のたとえは弟子たちに対して、完全な御国が到来するときの決定的な勝利を示すものとなっているのです。
2. からし種のたとえ
- パレスチナのからし種の木は、普通1mくらいの高さに育ちますが、ある状況下では4mぐらいの高さまで育つことがあるそうです。ですから、鳥がその枝に巣を作ることがあるようです。聖書では、オリーブ、ぶどう、イチジクの木は祝福の木で、地上で神のあかしをするイスラエルを比喩的に表しています。しかし、からし種は、食欲増進のためにだけ用いられるものです。このからし種が成長した木には三つの不思議なことがあります。
①最も小さい種から最も大きい木になるという驚くべき生長。
②庭園の草木(野菜)が大きな木になるという不自然な生長。
③木の枝は空の鳥の安息所となる
- 特に13章4節の道端に落ちた種を「鳥が来て食べてしまった」たとえの「鳥」は、「ペテイノン」(πετεινόν)の複数形となっており、悪魔の手下どものことです。13章32節の「空の鳥」も同じく「ペテイノン」の複数形で同じ意味と言えます。
- このたとえの意味は、神の働きを攻撃するサタンは、不自然な驚くべき支配をもたらすことを教えています。使徒パウロは「不法の者」(滅びの子)が定められた時に現れること、常に存在する「不法の秘密」について述べています(Ⅱテサロニケ2:3~12)。
【新改訳2017】Ⅱテサロニケ書2章3~12節
3 どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。
4 不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。
5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。
6 不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。
7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。
8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。
9 不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、
10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。
11 それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。
12 それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。
- 3節に「まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです」とあります。「主の日」とはキリストの再臨のことです。つまり、主の日が来る前に、「不法の者」が現れなければならないのです。「不法の者」とは、サタンの働きによって到来し、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになる反キリストのことです。「不法の秘密はすでに働いています」とあるように、神に敵対する勢力はいつの時代にも働いているのですが、「今はその者(不法の者の現われ)を引き止めているものがある」のです。その「引き止めているもの」とは教会のことです。しかしそれが「取り除かれる時」、すなわち、教会が携挙されるとき、不法の者はその姿を現し、全世界を支配するようになります。それは、神が「不法の者」を通して惑わす力を送られ、イスラエルの民が反キリストの偽りを完全に信じるようになるので、それが七年間の大患難の時代です。そのときにはサタンの手下である空の鳥たちは安心して、生長を遂げた木に宿るのです。しかし、結局は反キリストの支配する大バビロンは滅びることになるのですが、そのときの様子を、ヨハネの黙示録18章2節は次のように記しています。
【新改訳2017】ヨハネの黙示録 18章2節
彼は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンは倒れた(へブル的完了形)。それは、悪霊の住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥(ὄρνεον)の巣窟、あらゆる汚れた憎むべき獣の巣窟となった。」
- 大バビロンは、「あらゆる汚れた鳥の巣窟」となっていたことが分かります。マタイ13章の鳥は「ペテイノン」(πετεινόν)で、黙示録の「鳥」は「オルネオン」(ὄρνεον)と異なる語彙が使われていますが、ヘブル語訳ではいずれも「オーフ」(עוֹף)という語彙が使われています。いずれにしても、驚くべき、不自然な生長を遂げた木で安息していた鳥たちの巣窟が倒れるときが来ることを示しています。
3. パン種のたとえ
- 「パン種」(マタイ13:33~35)のたとえも、御国の成長についての話だと考えられて解釈されています。しかし聖書でパン種は、いつも悪い教え、または暗闇で働く悪の影響を意味します。パン種は過越の祭りと、それに続く七日間の祭りから排除されました。また、救い主であるイェシュアの完全さと栄光を語る穀物のささげもの、すなわち小麦粉と油と塩と乳香とに、パン種を混ぜてはなりませんでした(レビ記2章)。イェシュアは弟子たちに「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われました(マタイ16:6、マルコ8:15)。パウロも、道徳的な悪というパン種について書き(Ⅰコリント5:6~8)、さらに悪い教義のパン種についても述べています(ガラテヤ書5:9)。したがって、マタイの福音書13章のパン種も、聖書の他の箇所の解釈と同じ意味で理解しなければなりません。
- 私たちの世界では、パン種(イースト菌)の入ったパンはやわらかく、そして食べておいしく感じるものですが、神の世界は違います。神の世界のことは、私たちにとっては堅い食物となってしまうのです。パン種の入ったパンは、たとえおいしくても、日持ちが悪く、やがてはだめになってしまうのです。
【新改訳2017】Ⅰコリント5章6~8節
6 あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。
7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。【新改訳2017】ガラテヤ書5章9~10節
9 わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。
10 あなたがたが別の考えを持つことは決してないと、私は主にあって確信しています。しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、さばきを受けます。
- パン種のたとえは、キリストに関する教えの中に誤った異端の教えがずるがしこく浸み込んでくることを教えています。そして、「終わりの日」には、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうとして、真理から耳を背けていく時代になるのです。
- 以上のことを要約するなら、天の御国は常にサタンによって攻撃されていることを教えています。完全に天の御国が到来するまで、神の働きをくつがえし、破壊しようとするサタンの活動も存在し、それが頂点に達する時が来るのです。しかしサタンの働きが頂点に達したとき、御国の王であるキリストが再臨され、この地に御国を完成させてくださるのです。この攻防も「天の御国の奥義」の一つなのです。
4. 預言者を通して語られたことが成就するため
- なぜイェシュアはたとえで話されるのか、マタイの福音書13章34~35節のことばから理解したいと思います。
【新改訳2017】マタイの福音書13章34~35節
34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。
35 それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」
- 群衆に対してイェシュアはたとえを使わずに何も話されなかったとあります。すでに13章10節で、弟子たちが近寄って来て、「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」とイェシュアに質問したことで、イェシュアはイザヤの預言が彼らにおいて実現するためと答えています(11~15節)。しかし今回は、その理由が35節に記されています。それによれば、「預言者を通して語られたことが、成就するためであった」とあり、詩篇78篇2節のことばが引用されています。これはダビデ王国時代の賛美リーダーの一人、アサフという人の預言なのです。彼はⅡ歴代誌29章30節によれば、「先見者(「ホーゼ」חוֹזֶה=預言者の類)」と記されています。そのアサフが「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう」と言っていることが成就するためであったとあります。そのことがどういうことなのかを考えてみたいと思います。
- 引用されている箇所が詩篇78篇2節なのですが、マタイの福音書は七十人訳聖書から引用されているため、本来の詩篇78篇2節とは異なります。そういう場合には、旧約聖書の本文と見比べてみることが重要です。そしてその次に、コンテキストをしっかり理解する必要があります。つまり、たとえ話を語るのは何のためかということです。
(LXX訳)
「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」
(詩 篇)
「私は口を開いて、たとえ話を、昔からの謎を語ろう。」
- イェシュアは「昔からの謎」を教える(伝える)ためにたとえを語っているのです。「語る」と訳されたヘブル語は「ナーアル」(נָעַר)で、これは口を開けば「昔からの謎」が、「世界の基が据えられたときから隠されていること」が「溢れ出てくる」という意味です。ここの「謎」とは「ヒーラー」(חִירָה)で複数形です。不可解、神秘、私たちの理性では納得できない事柄であり、あり得ないことという意味です。その内実は、神と人、あるいは神によって選ばれた民との関係についてのものであり、神がなしてくださった驚くべき恵みを忘れて、繰り返し神に背き、幾度も神を無視しようとしてきたイスラエルの民にもかかわらず、神はその民に見切りをつけてしまうことなく、見捨てることもなく、歴史を貫いて、忍耐とあわれみをもって関わってくださったということ、これがこの詩篇のいう「昔からの謎」に他なりません。その「謎」の舞台はイスラエルの「歴史」です。作者は神とイスラエルというかかわりの歴史の「たとえ」を用いて、「昔からの謎」を語ろうとしているのです。
- そこで、この詩篇の中の二つの「詩的な表現」を通して、「昔からの謎」を考えてみたいと思います。二つの詩的な表現とは、ひとつは57節の「たるんだ弓の矢のように」、もうひとつは65節の「ぶどう酒の酔いから覚めた勇士のように」です。
(1)「たるんだ弓の矢のように」
- 「たるんだ弓の(たるんだ弓で放った)矢のように」とあります。矢が問題なのか、それとも弓が問題なのか、その重点の置き方で解釈、受け取り方の違いが出てきます。もし、矢のほうに重点を置くとするならば、人間が神を忘れ、神に背くのは、弓矢が的を外してしまうからだという考え方が成り立ちます。つまり、弓そのものが問題ではなく、人間が的を狙ったときに、狙い方がまずかったとか、呼吸がうまくいかなかったとか、矢の放し方が早すぎたとか、ひとつの過ちのために矢が的を外してしまったという考え方です。そういう場合には、たとえ一回失敗しても、その次に頑張れば、矢は的を外すことなく当てることができるという考え方です。もっともこの場合は、弓に狂いがないという前提に立っています。ですから努力次第でなんとかなる、と考えます。ところが、この詩篇が言おうとしているのは違います。弓そのものに狂いが生じているのです。ですから、努力次第でなせるというふうには考えていません。努力しても矢は的を外すという考え方に立っています。
- 人間は罪を犯すから罪人になるのではなく、もともと罪人なので罪を犯すのです。つまり必然なのです。繰り返し、繰り返し、幾度も幾度も人は神に対して罪を犯してしまう存在です。この詩篇には、人間が神を「欺き」「試み」「拒み」「忘れ」「逆らい」「裏切った」ということばが頻繁に出てきます。もともと弓がたるんでいるわけで、神がどんなに良いことをしてくださっても、ねじれた者の応答は、神が悲しむような態度しか取れません。神の民として選ばれたイスラエルはすべての人間の代表です。したがって、彼らの現実はすべての人間の現実です。人間の世界では、役に立たないものは投げ捨てられて当たり前です。ところが、「昔からの謎」はこれが当然ではないのです。このことを教えようとして語るのがたとえだということです。
(2) 「ぶどう酒の酔いから覚めた勇士のように」
- 人とかかわる神のあり方が、まさに「謎」なのです。人間の世界ではあり得ない、アブノーマルな事柄なのです。「そのとき主は、眠りから目を覚まされた。ぶどう酒の酔いから覚めた勇士のように」(65節)。この表現は神の積極的な働きかけの再開を描く絵画的、詩的表現です。
- 私の父は酒がとても好きでした。飲んで酔っ払うと寝てしまう姿を思い出します。しかし翌朝、起きると、酔いも全く覚めて、昨晩飲んで酔っていた姿は跡形もなく、新鮮な気持ちで仕事に出かけていく姿を見ていました。酔っ払った姿は嫌いでしたが、酔いから覚めた本来の父の姿を見ると、子どもながらにとても頼もしく感じたものです。神は、まさに酒の酔いから覚めた勇士のように、人の失敗など忘れたかのように、新しい行動を開始していくのです。
- 38節に驚くべきことばがあります。
「しかし、神はあわれみ深く、彼らの咎を赦して、滅ぼされなかった。怒りを何度も抑えて、憤りのすべてをかき立てられることはなかった」。使徒パウロも神のこの「謎」について次のように述べています。「兄弟たち。・・この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。・・(彼らに対する)神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。・・・ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。・・・すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11章25~36節)
- キリスト教の歴史において、長い間、ユダヤ人がイェシュアを十字架につけた張本人であるとして、神はイスラエルに代えて教会を選ばれたと考えて、ユダヤ人を蔑視し、迫害し続けてきました。しかし神の御子イェシュアを十字架につけたユダヤ人たちが、やがて民族的に救われるときが来るのです。神は決して彼らを捨てることはなく、やがて民族的な救いをなされるのです。これこそが「昔からの謎」なのです。なんという神の愛、神の真実なのでしょう。イェシュアの十字架と復活のみわざも、この宇宙で最も「謎」に満ちた出来事だと言えます。
- 今回の「からし種」と「パン種」のたとえは、サタンの策略に欺かれ、翻弄されてしまった状態のイスラエルの姿が預言されています。しかしそれで終わることは決してないのです。聖書の歴史を顧みるなら、神の国(天の御国)は常にサタンの国との戦いを余儀なくされます。最終的には、御国の民は「御国で太陽のように輝く」(マタイ13:43)のですが、世界の基が据えられたときから隠されている神とサタンとの戦いのドラマの妙を、イェシュアは多くのたとえで教え示しているのです。
- 私たちも、この神の変わることのない愛と真実によって生かされている者であることを忘れないようにしましょう。そしてこの詩篇のアサフやイェシュアと同様に、神の「昔からの謎」をいつも語り告げる者となりたいものです。
2019.6.23
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