****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

「わたしに聞け。」

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38. 「わたしに聞け。」

【聖書箇所】46章1~13節

ベレーシート

  • イザヤ書44章で「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(44:22)とイスラエルの民に命じた主は、45章では異邦人も含めた地の果てのすべての者に対して「わたしを仰ぎ見て救われよ。」(45:22)と語りました。直訳では「わたしに顔を向け、そして救われよ」です。そして46章では、再び強情なイスラエルの民に対して「わたしに聞け。」と命じます(46:3, 12)。その内容が46章の内容となっており、その中に46章を特徴づける鍵語があります。

44章「わたしに帰れ」ー「シューヴァー・エーライ」
45章「わたしに顔を向けよ」ー「ペヌー・エーライ」
46章「わたしに聞け」ー「シムウー・エーライ」

画像の説明

  • 46章の重要な鍵語とは神がイスラエルの民を「負う」「背負う」という語彙です。それは二つの語彙で現わされています。ひとつは「アーマス」(עָמַס)で1節と3節にあります。もうひとつは「サーヴァル」(סָבַל)で4節(2回)、7節で使われています。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書46章1~7節
    1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる(עָמַס)。
    2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。
    3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており(עָמַס)、生まれる前から運ばれた者よ。
    4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う(סָבַל)。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って(סָבַל)、救い出そう。
    5 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。
    6 袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。
    7 彼らはこれを肩にかついで(סָבַל)運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。

  • 「アーマス」(עָמַס)の特徴はどちらかと言えば継続的です。「サーヴァル」の特徴はある状況からの担ぎ出しを意味します。イザヤ書53章4節では受難のしもべが民の身代わりとして彼らの病を負い、同11節では彼らの「咎」(「アーヴォーン」עָוֹן)をになったというところで使われています。哀歌5章7節でも「私たちの先祖は罪を犯しました。彼らはもういません。彼らの咎を私たちが背負いました。」とあります。
  • ところで、46章1節の「ベル」(בֵּל)と「ネボ」(נְבוֹ)について、「新聖書辞典」(いのちのことば社)では以下のように説明されています。

    「ベル」はバビロンの主神マルドゥクのヘブル名。マルドゥクはバビロンの崩壊と運命を共にした神です。このマルドゥクはダニエルたちが礼拝するのを拒んだ神であり、「ネボ」は「ベル」の息子と解されています。

  • 「ベル」(בֵּל)はヘブル語の「バアル」(בַּעַל)に対応する語彙です。

1. 人間の重荷となってしまう運命にある偶像の神々

46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる(עָמַס)。
46:2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。

  • 「ベル」も「ネボ」も、バビロンの神であり、偶像の神です。バビロンは強大な帝国を築きましたが、自分たちの神々こそ他の国の神々に勝っているという自負を持っていました。ところが、そのバビロンがペルシャの王クロスによって滅ぼされます。そのときには「ベル」も「ネボ」も彼らの足手まといとなってしまいます。国外に散らされる時には、それまで拝んできた神々を家畜の背に載せて、他の所に逃げ行きますが、そのためにかえって偶像が彼らの重荷となるとイザヤが預言しているのです(1~2節)。
  • そもそも偶像は金属、木、石で造られているため、かなりの重さがあったはずです。ましてや「ベル」や「ネボ」はバビロンの最高神であったわけですから、かなり重い像であったことと推察します。バビロンの敗北は偶像の敗北を意味するにもかかわらず、それらを荷車で運び去らなければならないとしたら、それは大変な重荷となったはずです。国家が隆盛であった時には人々はその偶像に平伏していましたが、もはやそれが何の助けにもならなくなったのです。このように偶像に頼ることは、まさに大変な恥を見ることになるです。

2. 人間を背負われるまことの神

  • そこで、主はイスラエルの家のすべての残りの者に呼びかけます。彼らは「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者」(3節)です。まさに彼らは存在の初めから、その存在の歴史の全過程において、主なる神によって「になわれている」(עָמַס)者なのです。
  • 人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。しかし、神はイスラエルの民に対して、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う(סָבַל)。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って(סָבַל)、救い出そう。」(4節)と約束しています。
  • 4節を注意深く見ると、そこには「わたし」という人称代名詞「アニー」(אֲנִי)がなんと5回も使われて強調されています。それは、この「わたし」こそ無比無類の存在、唯一のまことの神であることを強調するために他なりません。それゆえ、主はイスラエルの歴史に働かれた神を思い起こすように命じています。

3. 神のマスタープランは必ず成就するということ

  • ここで注目すべきことは、8節の「思い出せ」(「ズィフルー」זִכְרוּ)、「思い返せ」(「ハーシーヴー」הָשִׁיבוּ)です。前者の「ズィフルー」は9節でも繰り返され、「遠い大昔の事を思い出せ」と命じています。「遠い大昔の事」とは、イスラエルの歴史における初期の出来事で、出エジプトからの脱出、紅海徒渉、荒野での水やマナの供給、ヨルダン徒河、カナンへの侵入と占領等、イスラエルが経験した出来事です。そこに働かれた神のみわざを思い出すように求めています。そして、神のマスタープランは確実に成就することを語っています。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書 46章10節

    わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。

  • 「終わりの事」(「アハリート」אַחֲרִית)とは、神のマスタープランの最終ステージです。ここで驚かされるのは、神のマスタープランの最後に起こる出来事が、「初め(「ベレーシート」רֵאשׁית)から告げられている」ということです。つまり、将来に起こることは、すでに最初から啓示されているという神の宣言です。将来に起こる事を悟るためには、それがすでに起こったことの中に隠された形で啓示されているとすれば、私たちは聖書をさらに詳しく調べ直さなければなりません。注意深く読み直さなければなりません。そして神のご計画の全貌を悟らなければならないのです。この危機感が今日のキリスト教会に欠落しているように思われます。
  • 使徒パウロはエペソの教会を手塩にかけて建て上げる三年半の中で、多くの人々に自分の身において起こった神の恵みの福音をいつもあかししていました。と同時に、神のご計画の全体を、余すところなく教えていたのです(使徒20:27)。その神のご計画の全体こそ、イェシュアの語った「御国の福音」なのです。神の御子イェシュアが語り、そして行なった多くの奇蹟のすべては、まさにこの御国のデモンストレーションでした。
  • 神の語られたご計画は必ず成就するという視点から、それがどんな内容なのかを、私たちはありのままに知る必要があるのです。自分のために、あるいは、自分の興味や関心のあるみことばだけを拾うようにして読むのではなく、神ご自身が関心をもっておられることに関心を持つべきです。そのためには、神のご計画の全貌を把握できるような読み方が求められます。今日のキリスト教会において、これは緊急の課題であると信じます。しかもこの課題の取り組みは決して容易ではありません。なぜなら、神ご自身のみこころを熱心に尋ね求める者にのみ、神はその全貌を示して下さるからです。ですから、イェシュアは「求めなさい(原語は「求め続けなさい」)。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と語り、「神の国とその義とを第一に求め続けなさい。」(同6:33)と命じています。この取り組みには多くの集中した時間と瞑想が求められます。的外れなことをしている暇がないほどに緊急性のある今日的課題です。みことばを回復するこの課題にチャレンジすることなしに、どんなに多くの活動がなされていたとしても、教会は確実にいのちを失い、衰退する運命にあると言えます。


2014.10.15


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