****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「わたしのため、わたしのために、わたしは」

文字サイズ:

40. 「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う」

【聖書箇所】48章1~22節

ベレーシート

  • ヨハネの福音書3章には「神がお遣わしになった方(イェシュア)は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」(3:34)と記されています。御子イェシュアの語ることばは御父のことばそのものであり、そのことが実現するためにイェシュアの傍らにはいつも御霊が寄り添っておられます。
  • 同様に、イザヤ書48章も、預言者イザヤが語っている部分と主ご自身が語っている部分とがほとんど区別できないほどに一体となっています。朗読で聞く限りではわかりません。翻訳では「 」の括弧の記号があるので分かるのですが、原文にはそのような括弧に当たる記号はありません。いずれにしても、この章で目についたことは預言者と主が一体となっているということです。さらに16節で、イザヤが「今、神であるを、その御霊とともに遣わされた。」として、自分の働きが三位一体的であることを示唆しています。

1. 「これを聞け。ヤコブの家よ。」

  • 「聞け」という命令は、48章の中に2回登場します。
    (1) 「これを聞け」(「シメウー・ゾット」שִׁמְעוּ־ זֹאת)
    (2) 「わたしに聞け」(「シェマ・エーライ」שְׁמַע אֵלַי)
  • 1節の「これ」とは、3~16節で語られている主のことばのことですが、そのことばは「ヤコブの家」に向かって語られています。そして原文では、ヤコブにかかる「分詞」によって「ヤコブの家」の実体が記されています。つまり「ヤコブの家」が、「呼ばれている者たち」と「誓う者たち」という言葉で詳しく説明されているのです。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書48章1~2節
    1 これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、【主】の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。
    2 確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神──その名は万軍の【主】──に寄りかかっている。


    【新共同訳】イザヤ書48章1~2節
    1 ヤコブの家よ、これを聞け。ユダの水に源を発し/イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。まこともなく、恵みの業をすることもないのに/主の名をもって誓い/イスラエルの神の名を唱える者よ。
    2 聖なる都に属する者と称され/その御名を万軍の主と呼ぶイスラエルの神に/依りすがる者よ。

  • 「ヤコブ」とはユダヤ人の肉的な面を強調する呼称ですが、「イスラエル」は神の民という名誉ある呼称です。その中で「ユダ」はヤコブの第四子ですが、神の民イスラエルの家系を継承する特権が与えられていました(創世記49:8~10参照)。にもかかわらず、彼らは主に対して誠実をもって、正義をもってかかわることをしなかったことが語られています。それゆえに、バビロンの捕囚の民となってしまったのです。
  • 「誠実」と訳された原語「エメット」(אֶמֶת)は人の神に対する偽りのない真実を意味します。「正義」と訳された原語「ツェダーカー」(צְדָקָה)は神との正しいかかわりとそこから出て来る行為を含んだ言葉です。しかし、それらが見られないにもかかわらず、平気で主の御名によって誓ったり、イスラエルの神の名を唱えているような者たちでした。それが「ヤコブの家」の実体なのです。4節にも「ヤコブの家」の実体が「かたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅」と表現されています。「首筋は鉄の腱」とは「うなじがこわい」と同義。「額は青銅」とは「厚顔無恥」の意です。なんとも厳しい辛辣なことばです。そうした「ヤコブの家」の者(バビロンで捕囚となっている民)に、「これを聞け」と主のことばが語られたのです。

2. 新しい事、あなたの知らない秘め事とその目的

  • 「ヤコブの家」に対する主のことばは、人の目には想像することもできないような「新しい事」(複数)であり、すばらしい神の「秘め事」(複数)であり、それは「今、創造された」神のみわざなのだとしています(6~7節)。具体的には、それは捕囚からの解放です。
  • 3~5節には「預言と成就」について語られています。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書48章3~5節
    3 「先に起こった事は、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した。
    4 あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、
    5 わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とかあなたが言わないためだ。

  • ここには、なぜ神が実際に起こる事を予め預言するのかその理由が語られています。つまり、イスラエルの民の心がかたくなであること(不信の民であること)を示すため。また、預言したことを成就することによって「私の偶像がこれをした」と言わせないためです。鍋谷氏は「こうして、預言と成就の関係は、単なる事件の予告の正確さの問題ではなく、人の心のかたくなさと不信と、そこから生じる神観の問題であることが明らかにされる。」(鍋谷堯爾著「イザヤ書注解 下」184頁)と述べています。
  • 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1~2)。にもかかわらず、それらの預言が成就するプロセスにおいて、神に対する人間の根強い不信がより明らかとなっていきます。イェシュアの初臨の時もそうであったように、キリストの再臨の時もそうなるのです。預言は少しでも人々が救われるために神が語っているというのではなく、神に対する人間のかたくなさを明らかにするためです。イザヤの預言者としての使命はそのためであったことを忘れてはなりません(イザヤ6:9~13)。
  • 神が予め預言したことは捕囚からの解放です。それを成就する目的が以下に記されています。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書48章9~11節
9  わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった。
10 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。
11 わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。

  • 10節に、「 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」とあります。「銀の場合とは違う」とは、銀は価値あるものであるために精錬する価値はあっても、イスラエルの民それ自体に精錬するほどの価値はないという意味です。イスラエルの民はその罪のゆえに、罰せられ、滅ぼされて当然のものでしたが、「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった。」(19節)とあります。つまり、ここで強調されていることは、イスラエルの民のために新しい事をするのではなく、あくまでも、以下のためです。

    ●9節/ 「わたしの名のため」「わたしの栄誉のため」「・・をしなかった。」
    ●11節/「わたしのため」「わたしのために」「わたしはこれを行う。」

画像の説明
脚注

  • これはどういうことを意味しているのでしょうか。明白なのは、イスラエルのためではなく、神のためだということです。
  • 結論的に言うならば、これは神の統治(支配)において、そのマスター・プランを実現する神の力と神性を示すことであり、それを歴史という舞台で実証することを意味しています。
  • 「わたしのため、わたしのために、わたしは(これを)行う」という神の宣言は、人本主義に立つ人々にとってはつまずきのことばです。しかし聖書を貫く神本主義から言うならば、また神の統治(支配)の概念からすれば、余りに当然のことなのです。本来、この世界は神によって造られたにもかかわらず、人の罪によって神の目的から逸れてしまいました。しかし神は、再びみこころにかなった世界を再創造されようとしています。それは永遠に神と人が共に住む世界です。これが神の不変のマスタープランです。私たちが認めようと認めまいと、信じようと信じまいと、必ず神のこのご計画は成就します。それは神ご自身のためです。神ご自身の栄誉のために行われる中に、実は、私たち人間の永遠の幸いが約束されているのです。
  • キリスト教会が大切にしている祈りに「主の祈り」があります。その祈りには、私たちの願いや希望が入り込む隙間は有りません。なぜなら、その祈りは完全に主の統治がこの地に実現するための祈りだからです。そしてその祈りはイェシュアの再臨によって必ず実現します。ここに「御国の福音」があるのです。このことを認めない人本主義(ヒューマニズム)は、この地上における神の統治とその栄光を決して受け入れることはありません。やがてそのことが明白になる時が来ることを、神のことばは語っているのです。つまり、歴史に登場するすべての者たちは、この神のマスタープランを実現させるための器にすぎないからです。私たちの関心が私たち自身の領域ではなく、「私のため、私たちの教会のため」から「向きを変え」て、ますます神ご自身の関心の領域へと私たちの関心を向けることが、今の教会に求められていることなのです。


脚注
「レマアニー」(לְמַעֲנִי)は、「マアン」(מַעַן)に接頭辞「ㇾ」(לְ)がついたもの、そして1人称の接尾辞がついたものです。語尾の人称接尾辞は変化しますが、接頭辞「レ」(לְ)を常につけることで、「〜のために」となります。


2014.10.18


a:7526 t:3 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional