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「わたしは知恵」(アニー・ホフマー)

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

17. 「わたしは知恵」(アニー・ホフマー)

【聖書箇所】8章1〜21節

ベレーシート

  • 8章は箴言の中で最高峰と言われる箇所です。特に、22~36節がそのクライマックスですが、今回はそのクライマックスの前の部分(1~21節)を扱います。「知恵が声を上げて、呼んでいる」のです。すでに、1章でも「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ・・叫び、・・語りかけて言う」(20~21節)とありました。にもかかわらず、それを「拒み、顧みず、無視し、受け入れなかった」(24~25節)とあります。そこでも「知恵」が擬人化されて「わたし」と表現されていますが、8章では本格的に「知恵であるわたし」(原文では「わたしは知恵」)と明言されているのです。
  • 8章で、「わが」でもなく、「私」でもなく、「わたし」と記述されている箇所は25回にも及びます。ただしこれは新改訳の場合で、新共同訳ではすべて一律に「わたし」と訳され、区別されてはいません。新改訳聖書の8章にある25回の「わたし」という人称代名詞の中で、主格(主語)として用いられている独立人称代名詞の「アニー」(אֲנִי)が使われているのはわずか4回(12, 14, 17, 27節)です。今回の範囲では12節、14節、17節の三つがそれです。それらの一つ一つを取り上げて瞑想したいと思います。

1. 「アニー・ホフマー」(わたしは知恵)

【新改訳改訂第3版】箴言 8章12節
知恵であるわたしは分別を住みかとする。
そこには知識と思慮とがある。


●「知恵であるわたし」の部分が「アニー・ホフマー」(אֲנִי חָכְמָה)です。「わたしは知恵(である)」とも言えます。英語ならば I am Wisdom です。

●「分別」(新共同訳では「熟慮」)は「オルマー」(עָרְמָה)、「知識」は「ダアット」(דַעַת)、「思慮」(新共同訳は「分別」)は「メズィッマー」(מְזִמָּה)の複数形「メズィッモート」(מְזִמּוֹת)です。

●使徒パウロは箴言8章の「わたし」を「キリスト」と解釈して、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となった。」(Ⅰコリント1:30)としました。神の知恵は「この世の知恵」とは全く異なります。神の知恵とは、神を知ることと同義です。「この世の知恵」、すなわち、人間の知恵によっては神を知ることはできません。同じ「知恵」(「ソフイア」)ということばを使ったとしても、「神の知恵」と「この世の知恵」は全く異質であり、区別すべきものです。それらを混ぜ合わせることなどできません。

●「神の知恵」は「光」の概念と同様に、目に見えない、知り得ない神の永遠のご計画、神のみこころ、神の御旨、神の目的を含んでいます。使徒パウロはそれを「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者のために神の備えてくださったもの」(Ⅰコリント2:9)だと表現しています。しかも、この世にある何物にもまして、不変の価値を有したものなのです。まさに箴言の「知恵」(ホフマー)は、「わたし」と称するイェシュアを予表しているのです。


2. 「アニー・ヴィーナー」(わたしは分別)

【新改訳改訂第3版】箴言 8章14節
摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。
わたしは分別であって、わたしには力がある。


●「わたしは分別(であって)」という部分が「アニー・ヴィーナー」(אֲנִי בִינָה)です。英語だと I am Understanding です。「ヴィーナー」は「悟り」「見分ける力」とも訳されます。「ホフマー」と「ヴィーナー」がワンセットで使われている初出箇所は申命記4章6節です。そこには「これ(トーラー)を守り行いなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、『この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ』と言うであろう。」とあります。「分別」「悟り」と訳された「ヴィーナー」は、神の秘密である知恵を悟り、神が喜ぶこととそうでないこととを識別する力を意味します。神の時とそうではない時を見分ける力です。「わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)、「父よ。時が来ました。」(同、17:1)と言われたイェシュアを思い起こします。

●神の「知恵」は人の目には隠された秘密であり、奥義です。しかしそれを悟り、理解して識別することのできる力が「悟り」「分別」です。「アニー・ホフマー」は、同時に「アニー・ヴィーナー」です。「アニー」であるイェシュアはイスラエルの民にそれを伝えるために来られた方です。ところが、神に選ばれたイスラエルの民はこれを耳にしながら、目にしながら、受け入れることなく、拒絶したのでした。


3. 「アニー・エーハーヴ」(わたしは愛する)

【新改訳改訂第3版】箴言 8章17節
わたしを愛する者を、わたしは愛する
わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。


●「わたしは愛する」という部分が「アニー・エーハーヴ」(אֲנִי אֵהָב)です。その対象は「わたしを愛する者」(複数)であり、それは次行で「わたしを熱心に捜す者」(複数)と言い換えられています。

●「熱心に捜す」と訳された動詞の「シャーハル」(שָׁחַר)は、旧約で13回使われています。詩篇では「切に求めます、切に求めた」(63:1, 78:34)とあります。この動詞は、神をひたすらに、真剣に尋ね求めることを意味します。「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして」神を求めることこそが、神を愛することと同義なのです。そのようにしてはじめて神を見出すことができるのです。つまり、神を見出すとは神の隠された知恵を悟ることを意味するのです。

●「わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。」(箴言8:21)と約束されています。「財産」と訳されたヘブル語は「イーシュ」(יֵשׁ)で、新約的には「天にある資産」を示唆しています。

●「財宝」(複数)と訳された「オーツロート」(אֹצְרֹת)は、「貯える」という動詞「アーツァル」(אָצַר)から派生した名詞で「倉」とも訳せます。したがって「財宝を満たす」とは「倉を満たす」ということです。イェシュアは「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。・・自分の宝は、天にたくわえなさい。」(マタイ6:19~20)と言われました。なぜなら、地上にたくわえるなら、宝は虫とさびで、きず物となり、また盗人が穴をあけて盗みますが、天にたくわえるなら、虫もさびもつかず、盗人に盗まれることもないからです。それは「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」(Ⅰペテロ1:4)であり、新しく生まれた者のために、天にある倉にたくわえられているのです。

●「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられない」(箴言8:11)とあります。そんな高価な比類なき宝である神の「知恵」を愛して、それを切に求めるなら、必ず見出すことができるとは何とうれしいことでしょうか。イェシュアは「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。」(マタイ7:6)と言われたあとで、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(同、7:7)と言われました。求めるべきものは、聖なるもの、真珠のように価値のある神の知恵です。それはまさに神のマスタープランのことです。そのような永遠につながる価値ある求めを、日々、主に向かってしていきたいと思います。


4.付記ー箴言8:14〜15とイザヤ9:6〜7の類似性

  • 鍋谷堯爾師は、知恵者の「わたし」の箴言8章14〜15節とメシア預言のイザヤ書9章6〜7節に類似性を指摘しています。

箴言テキストー「知恵
(1)「摂理」
(2)「力」
(3)「王たちは治め」
(4)「正義」
(5)「支配者たち」
(6)「さばきつかさ」

イザヤ書テキストー「メシア
(1)「助言者」
(2)「力(ある神)」
(3)「王国」
(4)「正義」
(5)「君」
(6)「さばき」

(1)「エーツァー」(עֵצָה)・・計画、助言
(2)「ゲヴォーラー」(גְּבוֹרָה)・・力
(3)「メレフ」(מֶלֶךְ)/「マルフート」(מַלְכוּת)・・王、王国
(4)「ツェデク」(צֶדֶק)・・正義
(5)「サーリーム」(שָׂרִים)・・君主、支配者たち、単数は「サル」(שַׂר)
(6)「ショーフテー」(שֹׁפְטֵי)・・さばきつかさ、さばく者


●箴言8章14〜15節とイザヤ書9章6〜7節には、共通する語幹が見られます。


2015.11.28


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