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「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」

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アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神


神の民はアブラハム、イサク、ヤコブの上に建てられている

はじめに 

  • 聖書の中ではじめて、「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われる方に出会った人物はだれでしょうか。それはモーセです。彼はホレブの山で不思議な光景を見たのです。柴が燃えているのに燃え尽きない光景でした。彼はもつとよく見ようとしてそこに近づこうとしたとき、神は「ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と言って、続いてこう言われたのです。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と(出3:6)。モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠しました。神はモーセにエジプトにいるわたしの民の叫びを聞いた。彼らをエジプトから救い出して、父と蜜の流れる約束の地へ上らせる。だから、「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わす。」と言われたのです。
  • このときのモーセは80歳になっていました。しかも一介の羊飼いです。当時の最も権力を持つエジプトの王パロのもとからイスラエル人を連れ出すとは、「私はいったい何者なのでしょう」とモーセはいいました。40年前、モーセはエジプトにいました。40歳になるまで彼はエジプトの王子として育てられ、学び、成長しました。ところが彼が40歳になったころ、自分はエジプト人ではなく、エジプトで奴隷となっているイスラエルの人であることを知るのです。そして、エジプトで奴隷となっている同胞を苦しめているエジプト人の一人を殺してしまいます。なんとかして自分の力で同胞を救いたかったからです。そのころのモーセは自分の力を確信していましたが、何も出来ないことをと悟ったのです。彼はエジプトから逃げて、ミディアンの地に行き、そこで40年間、羊飼いとして訓練されて生きるようになりました。そして80歳になった時、ホレブの山で「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」に出会い、召されたのです。
    画像の説明
  • モーセもまた、自分の神が「アブラハムの神であること、イサクの神であること、そしてヤコブの神であること」をこれから経験していくのです。私たちもアブラハムが経験した神、イサクが経験した神、ヤコブが経験した神を知ることを通して(知るとは単に知識として知るという意味ではなく、自分の経験として知るという意味ですが)、神の民として神に仕えていくことが求められているのです。つまり、神の民として生きるということは、自分が信じる神を、アブラハム、イサク、ヤコブの神として経験することなのです。
画像の説明
  • アブラハム、イサク、ヤコブは、その三者でひとつという面もあれば、それぞれ固有の特別な地位があります。神の民であるイスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブの上に建てられています。同時に、アブラハムを通して、イサクを通して、ヤゴブを通して、それぞれ固有のメツセージ、霊的教訓があります。この三者は別個であると同時に、また一つです。アブラハムの中にイサクの要素があり、またヤコブの要素があります。イサクの中にもアブラハムの要素があり、ヤコブの要素があります。ヤコブの中にもアブラハムの要素があり、かつイサクの要素があります。それぞれが密接な関係を持ちながら、神がどのようなお方であるかを啓示しているのです。

1. アブラハムを通して啓示されている神―それは「父としての神」
2. イサクを通して啓示されている神―それは「子としての神」
3. ヤコブを通して啓示されている神―それは「御霊なる神」

  • アブラハム、イサク、ヤコブを通してあかしされた神、その神が彼らを通してご自身がいかなる方であるかを教えようとされているのです。また、神に対して私たちはどうあるべきかが、神はアフブラハム、イサク、ヤコブを通して教えようとされているのです。ですから、神の民である私たちは、アブラハムの要素を持ち、イサクの要素を持ち、またヤコブの要素を持っているのです。それゆえ、私たちの先祖はアブラハムであり、イサクであり、ヤコブだということができます。自分たちの先祖はアブラハムであるというだけでは不十分です。なぜなら、イシュマエルと彼の子孫もそのように言うことができるからです。
  • また、自分たちの先祖はアブラハム、イサクであるということも不十分です。なぜなら、エサウとその子孫もそのように言うことができるからです。神の民は、自分たちの先祖は、アブラハム、イサク、ヤコブだと言うべきです。ヤコブも加えられてはじめて神の民としての資格があるからです。アブラハム、イサク、ヤコブの神によって、私たちは完全な神の民であり得るのです。

1. アブラハムを通して啓示された神

  • アブラハムに啓示された神は「全能の神」でした。それは、神が父であるということを教えています。「全能の神」はヘブル語で「エル・シャダイ」と言いますが、「エル」は神を表しますが、「シャダイ」の「シャド」(שַׁד)には乳房という意味があります。つまり、すべての必要を満たすことのできる方という意味です。神が父であるということは、神がすべての必要を満たすことのできる方であるということです。アブラハムはもともとはアブラムでしたが、その名前自体が「父を高める」という意味であり、「アブラハム」は「多くの国民の父」として訳されています。神が父として、つまり、すべての必要を満たすことのできる神として高められる、そのような神として経験したのがアブラハムです。
  • アブラハムに対して神が約束されたことは、アブラハムの力を一切必要とすることなく、すべて神によってなされていくことを経験させられたのがアブラハムでした。私たちも神の民として、あるいは神の子どもとして生きるためには、同じくアブラハムの神を経験する必要があるのです。
  • 神が父であるということは、すべてのことが神からはじまっているということです。一切が神から出ているということです。「はじめに私が」ではなく、「はじめに神が」です。神からすべてが始まっているということを神はアブラハムとその生涯を通して私たちに教えようとされています。
  • アブラハムは自分が神の民になろうと思ったでしょうか。いいえ。アブラハムが神の民の土台となるために選ばれ召されたのは神です。神がはじめられたのです。神はウルの地からアブラハムを連れ出されました。神がアブラハムを必要として召されたのです。また、アブラハムは自分からカナンの地―つまり「乳と蜜の流れる地」へ行きたいと思ったでしょうか。いいえ。アブラハムは、神から「わたしの示す地へ行きなさい」と言われた時、「行き先を知らないで出ていった」のです。つまり、アブラハムは神に呼ばれて故郷を離れましたが、どこへ行くのか、行き先を知りませんでした。なんという従順さでしょうか。それはイサクの経験とかぶっています。アブラハムがカナンの地に行き、その地を与えると言われたのも、すべて神がしようとされたことなのです。神のみこころを私たちははじめから知りません。それが啓示されて初めて知ることが出来るのです。アブラハムから多くの子孫が出ると言われましたが、最初の子どもでさえ、自分の力で生むことができませんでした。
  • 神の約束が与えられてから11年間待っても子どもは与えられませんでした。そのためにアブラムとサライは自分たちの考えで女奴隷の胎を借りて男の子イシュマエルを産んでしまいます。ところがその子が生まれる前から家庭が大変なことになってしまいます。このあたりのアブラハムの経験はヤコブが経験した事柄とかぶってきます。
  • 13年間の沈黙の後に、再び、神はアブラハムに現れて、こう言います。
    「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

神は90歳になるアブラハムの妻サラによって、あなたにひとりの男の子を与えようと約束されたのです。アブラハムはひれ伏しながらも、心の中で笑いました。「百歳の者に子が生まれようか。九十歳の女が子を産むことができるだろうか。」と。そして、アブラハムはなんとかイシュマエルが神に受け入れられるように懇願します。このあたりもヤコブが経験する要素とかぶります。しかし神ははっきりとアブラハムに言われました。「あなたの妻サラがあなたに男の子をうむのだ。その子をイサクと名づけよ」と。

  • アブラハムが経験した神は、神が全能の神であること、そして神が父であることです。すべては神から出たものでなければならないということをアブラハムは経験したのです。すべては神からはじめられ、神からくる力によって導かれ、神の目的を実現するのです。特に、アブラハムが私たちに教えている神は、神が全能の神であり、父であるということです。私たちの力で神のためになにかをしたり、働いたりすることはできないということです。すべては神から与えられ、神から来るのです。このことを私たちはアブラハムから学ばなければなりません。

2. イサクを通して啓示された神

  • イサクは父のすべてを受け継いでいます。物質的・霊的な財産のすべてを受け取っています。アブラハムのもう一人の息子イシュマエルも神からの祝福をもらっていますが、それは子孫繁栄という部分だけで、イサクの場合にはアブラハムに与えられた子孫繁栄、国土獲得、そして万民祝福のすべてを受け継いでいます。そこがアプラハムの他の息子たちと異なる点です。イサクは父アブラハムのゆえに祝福されているのです。つまり、イサクを通して啓示された神とは、神は死から子をよみがえらせるということを教えています。

(1) イサクの父に対する従順さ

  • 22章ではイサクは父アブラハムにしたがってモリヤの山に「ふたりはいっしょに歩いていった」という姿に象徴されるように、父に対する絶対的な信頼と従順さがイサクを特徴づけています。イサクの生涯の中で何度か、神から直接、語られることばがありますが、そのことばには必ず、「あなたの父アブラハムのゆえに」するのだという意味のフレーズがついています。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。わたしは・・のことをしよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに」、なのです(26:24)。
  • しかもイサクは神から「ひとり子」と呼ばれています。「ひとり子」とは特別な存在であり、父のすべてを受け継ぐ存在です。イサクに与えられている祝福はすべて「アブラハム」のゆえです。
  • しかしながら、父アブラハムの神への従順もさることながら、子イサクの父アプラハムに対する信頼にも驚かされます。祭壇の上にささげものとして置かれたイサクはすでに死んだも同然でした。しかし神は二人の従順と信頼によって、イサクを死からよみがえらせたと理解する(受け止める)ことができます。いけにえとなる身代わりの羊は神によって備えられていたにもかかわらず・・。
  • イサクの神に対する従順をみてみましょう。飢饉が襲った時、イサクはその地にとどまれという主のことばに従いました。父アブラハムや息子のヤコブは飢饉時にはエジプトに行って住むというようなことがありましたが、イサクはエジプトに一度も行っていません。イサクは一度もカナンの地から出たことがなかったのです。カナンで生まれ、カナンで育ち、一度もカナンを離れることをせず、カナンで死んだのです。まさに、御子イエスがひとときも御父のふところから離れたことがなかった姿とかぶります。
  • イサクの結婚についても、イサクは自分で何一つ決定していません。父アブラハムにゆだねています。父がイサクの妻となる娘を探し出し、めとったのです。
  • また、生活に必要な井戸もアブラハムが掘ったものを使い、アブラハムの死後に塞がれた井戸は再度掘り返しています。墓地でさえもアブラハムが準備したものでした。自分もやがてそこに入ることになりました。イサクに啓示された神は、「アブラハムのゆえに」祝福を受けたことです。そしてその父に絶対的な信頼をおいて生きることを通して、すべてのものを受けたのです。信頼と従順によってすべてのものを受け継ぐこと、これこそ私たちがイサクから学ばなければならないことです。

(2) イサクの柔和さ

  • 信頼と従順という面では、父アブラハムともかぶります。父アブラハムもそうした面をもっていたからです。しかし、イサクの場合はそれが徹底していました。
  • また、イサクの特徴は決して争ってなにかを自分のものとして手に入れるということもありませんでした。飢饉の時にもその地にとどまることを通して百倍の収穫を神から与えられました。そのように祝福されたことで、周囲の人々から妬まれて嫌がらせをされてもそれに対しては向かうことは一切ありませんでした。
  • 柔和さ、それはイサクを見れば分かるほどにイサクを特徴づけていました。しかしそれがある意味では弱さとなり、晩年、祝福の相続・継承の問題については消極的でした。家庭に争いが起こることを懸念したが故に、年功序列的な考えで長子のエサウを祝福しようとしたのです。ここはヤコブともかぶるところです。神の不思議な介入によって(直接的には妻リベカによる計らいによって)、エサウに対する祝福は阻止され、ヤコブに祝福が渡されます。
  • そのあとのイサクは晴れ晴れとヤコブを祝福して、新たな使命として自分の妻を母リベカの兄の娘から選ぶように送り出します。イサクの場合とヤコブの違いはー結婚の問題においてー、イサクがすべての父任せであったのに対して、ヤコブの場合は自分で自分の妻を見つけたことでした。ヤコブの性格は自分の力(知恵)で自分が欲しいもの得るという強さがありました。しかし、その強さが彼が最も扱われなければならないかった弱点なのです。

3. ヤコブを通して啓示された神

  • ヤコブは自分が騙して得た祝福のゆえに、自分の家から離れなければならなくなります。兄を騙し、父を騙して祝福を自分のものとしたヤコブでしたが、そのヤコブに神は現われて(夢の中ですが)、なんらヤコブをとがめることなく、彼を祝福します。そのときに主がヤコブの傍らに立たれてこう言われたのです。

    「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫はちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

  • 一切のお咎め無し。無条件の祝福でした。しかし上の主のことばの中に、「見よ。」ではじまめ箇所の後を見てください。そこには、「あなたをこの地に連れ戻そう」とあります。この「連れ戻す」というヘブル語は「シューヴ」と言って、本来、「帰る」という意味です。その使役形が使われています。ここにヤコブを通して啓示されている神の恩寵があります。それは神がきよめる神であるということを教えています。神が「連れ戻す」までの期間、その期間こそ神がヤコブを取扱われる大切な期間なのです。
  • ヤコブはいつも自分の利益を考えて行動する人物です。すべて自分の力で自分のためにするような人でした。しかしこのような方法では神の目的は達成されません。主である神はヤコブを20年という年月をかけて砕かれます。砕く時は瞬間的な出来事なのですが、それまでの長いプロセスを踏んでからなのです。ヤコブは叔父のラバンのところに行ってから、そこでもラバンを騙して富を手にします。ラバンに騙されて自分が結婚したいと思っていたラケルが与えられず、姉のレアと結婚させられます。自分たちの地では上の者を越えて結婚はできないのだと言われて、仕方なく、ヤコブは妹のラケル欲しさにそこで結果的にラバンのもとで14年間働きます。そしてラケルを自分の妻とするのです。多くの子どもが生まれ、また財産もそれなりに増えていましたが、騙して築いた財産ですから、安心してそこに住むことができなくなってきます。表面的には子どもにも恵まれ、経済的にも富んでいましたが、本当の心の満足、平安はありませんでした。いよいよ、彼の本当の取り扱いの時が近づきつつありました。
  • ラバンから逃げるようにして、元の地に帰るときも、ヤコブの心には平安がありませんでした。それはエサウが怖かったのです。いろいろな方法で自分で自分をなんとかしようと思うのですが、不安は増すばかりでした。そして追い詰められます。心の平安という祝福を勝ち取るために神の使いと相撲を取り勝ってしまうのです。しかしその勝ちはヤコブの祝福を求める力が勝ったという意味で、実際には、ヤコブが本当の神の祝福を受けるためには、彼の腰が打たれなければなりませんでした。心の平安を勝ち取るために、自分の肉の最も強い象徴的な部分である腰の筋肉が打たれるという代償を払ったのです。
  • ペニエル経験と言われる箇所ですが、私たちもヤコブが経験したように、真の祝福、心の平安、恐れることのない心を得るためには、自分の肉が打たれなければならないのです。ヤコブの自分でどうすることもできない不安と恐れに勝つためには、自分の肉的な力が神によって打たれることが必要でした。自分の力でなにごともしようとするときには、常に、恐れと不安の中に生きることになるのです。ヤコブは自分の肉の力で生きることがここで終止符を打つという経験をするのです。
  • もものつがい、腰の筋肉が打たれだことでヤコブはそれ以後、びっこを引いて歩く者となりました。これは神に打ち砕かれた姿をいつも自覚することになります。この経験は神によって肉的な部分がそがれて、神のきよい性質を与えられる契機になります。ヤコブの場合はそのことを経験するまでに20年間かかりました。神によってきよめられる経験をするまでに、人によってその期間は異なります。モーセの場合は40年を要しましたし、ある人はもっと早くに訪れるかもしれません。ある人の場合はほとんどきよめられずにその生涯を終えてしまうかもしれません。
  • 神がヤコブに対して、「あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」というアブラハムにもイサクにも語られなかったこの約束は、ヤコブが神がきよめる神であることを、殊の外、認識させるためでした。私たちもきよめられることなくして、神のために働くことも、また、用いられることもありません。神の手の中に陥ること、神によって自分の肉が打ち砕かれることを通して、はじめて、神の民として、神の子どもとして祝福された歩みをすることができるのです。

最後に

  • 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主である」という神の自己宣言をもういちど深く受け止めたいと思います。アブラハムの信仰だけではダメなのです。イサクだけでも不十分です。ヤコブの経験がなければ、すべてが崩れるのです。アブラハム、イサク、ヤコブの経験が密接にかかわりあうことを通して、はじめて力を持つのです。また、これら三者は、それぞれ御父、御子、御霊を指し示しています。三位一体なる神が私たちにかかわることを通して救いが実現するように、アブラハムの経験、イサクの経験、ヤコブの経験を通して、私たちは神の民として、神の子どもとしてはじめて確立されるのです。
  • これからもアブラハム、イサク、ヤコブの経験を通して啓示された神を深く知る者とされたいと思います。

2011.10.11


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