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「インマヌエル預言」の背景にあるもの

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6. 「インマヌエル預言」の背景にあるもの (1)

【聖書箇所】7章1~25節

ベレーシート

  • イザヤ書7章はこれまでにも折に触れて何度も扱った聖書箇所です。当HP「牧師の書斎」の【単語検索】で「イザヤ書7章」を入力して検索すると、6件ヒットします。今日の瞑想も加わりますから、7件ということになります。今回はこれまでとは異なる視点から瞑想を試みたいと思います。
  • イザヤは召命を受けた時(6章)から6年後に、自分の息子である「シェアル・ヤシュヴ」を伴い、「布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端」でユダの王アハズに会い、直接、主のことばを伝えています。自分の息子を連れて行くことも、主のことばを告げた場所も、すべては隠された預言的な意味を持っています。息子の「シェアル・ヤシュヴ」(שְׁאָר יָשוּב)という名前は、「残された者は帰ってくる」という意味で、イザヤ書における重要な思想の一つです。また、イザヤがアハズに語った場所である「布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端」とは、エルサレム郊外にあるギホンの泉のことであり、この泉からエルサレム城内に水を引いていたようです。水の少ないエルサレムにとって、籠城のための水源確保は絶対に不可欠です。国家存亡の危機にあたって、アハズ王がなによりもそこへ赴いたことが当然なことのように見えます。しかし彼はそこでイザヤを通して神のことばを聞いたのでした。
  • いみじくも、アハズ王の息子ヒゼキヤの時代に、アハズが立った同じ場所(布さらしの野への大路にある上の池の水道のそば)にアッシリヤの王セナケリブが立ちます(イザヤ36:2)。この水源を手中にしたセナケリブはエルサレムを陥落できると思ったに違いありません。ところが、アッシリヤの18万5千人の軍勢は御使いによって一夜にして死にます。エルサレム攻略に失敗したセナケリブは撤退を余儀なくされたのです。
  • イザヤ書7章は大きく二つの部分に分けられます。一つは1~9節の部分、もう一つは10~25節の部分です。前者は、差し迫る国家的危機に対して、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。・・・に心を弱らせてはなりません。」というメッセ―ジです。後者は、危機的な状況の中で、神による生存と防衛の保障としての「しるしを求めなさい」というメッセージです。いずれも、すべて命令形です。

1. イザヤ書7章のキーワードは「シャーアル」(שָׁאַל)

  • 先ずは、イザヤ書7章において特徴的な言葉を取り上げたいと思います。それは「シャーアル」(שָׁאַל)という動詞です。11節に2回(うち1回は「シャーアル」の名詞「よみ」で使われています)、そして12節に1回です。

    ①11節
    【新改訳改訂第3版】
    「あなたの神、【主】から、しるしを求めよよみの深み、あるいは、上の高いところから。」
    ちなみに、「シャーアル」(שָׁאַל)の命令形は「シェアル」(שְׁאַל)です。


    ②12節
    するとアハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」
    ちなみに、「私は求めません」のフレーズの後には「エット・アドナイ」、つまり「主を」が省略されています。主によって立つべきユダの王が、「私は主を求めない」とはなんという大胆な発言でしょうか。それは神を冒涜することばであり、本来、あり得ない発言です。アハズは、主にではなく、アッシリヤの王に防衛の保障を求めていたのです。事実、Ⅱ列王記16章7節にはこう記されています。「アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。『私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。』アハズが主の宮と宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物として、アッシリヤの王に送ったので、アッシリヤの王は彼の願いを聞き入れた。」(7~9節)とあります。

  • 「シャーアル」(שָׁאַל)は「主を尋ね求める」「主に伺う」「主に願い求める」ことを意味します。イスラエルの王制の理念は他の国とは異なり、王自身が主を尋ね求めることが第一に求められました。ところが初代のサウルはこの点においてあまりにもお粗末であったため、主は彼を王位から退くことを決意され、ダビデにその王位を与えられました。ダビデも王として必ずしも完璧ではありませんでしたが、主を尋ね求めることにおいては秀でた王でした。サウルという名前それ自体が「尋ねる、伺う」という意味であるにもかかわらず、サウルはその名前にふさわしく自ら歩もうとはしなかったのです。ちなみに、使徒パウロはサウルと同族(ベニヤミン)の出身です。パウロ(ヘブル名は「サウル」)は、彼が初代の王サウルの名誉を挽回したと言えます。パウロほど主を求めた者はおりません。彼は主に捕らえられたゆえに、主を捕えようとして求めたのです。それはまさに狩猟感覚に近いものでした。
  • さて、「あなたの神、【主】から、しるしを求めよ。」と語るイザヤの言葉に対して、アハズが「私は求めません」と「シャーアル」を否定することは、神の国(支配)においては大問題なのです。イスラエルの歴史において(特に王制の時代になってから)、各王の評価が「ダビデのように歩んだ」か、あるいは「ヤロブアムの道を歩んだ」か、それが評価の分かれ目です。「ダビデのように歩む」とは「主を尋ね求める」ことを意味し、「ヤロブアムの道を歩んだ」とは「主を尋ね求めなかった」ことを意味するのです。それは自分の考え方、自分の能力、自分の情熱によって歩むことにつながり、これが偶像礼拝であり、悪なのです。
  • 主にのみ頼るということは、他国と同盟を結ぶことなく、ただ黙って静かにしていることを意味します。北のアッシリヤと南のエジプトの強二大国の間に挟まれたマイノリティーな小国イスラエルにとって、「静かにしていなさい。恐れてはなりません。」というメッセージは、常識的に考えるならば、不安この上ないメッセ―ジだったのです。
  • ダビデは「主を信頼する者」「主を尋ね求める者」の象徴的存在です。ダビデは「いのちの日の限り、主の家に住み、一つのことを主に願い(「シャーアル」שָׁאַל)、それを求めました(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)。」(詩篇27:4)と述べていますが、このことがダビデの霊性を特徴づけるものです。ダビデの霊性の系譜は、やがて神の御子イェシュアにつながります。そのイェシュアが来臨して語ったことは「神の国(支配)とその義(主を信頼するという正しいかかわり)を第一にするならば、私たちの必要とする生存と防衛の保障が与えられ続けるというメッセージでした。このメッセージは、イザヤの時代だけでなく、いつの時代にあっても、神の国に生きる者たちに与えられている変わることのない神のトーラー(教え)なのです。その教えの「一つのしるし」が「インマヌエル」(עִמָּנוּ אֵל)預言と言われるものです(14節)。神の民に対する生存と防衛の保障を与える「一つのしるし」こそ、神と人が一つとなっている(インマヌエル)存在としてのイェシュアです。

2. 静かにして主を求めないならば、荒廃を招く(17~25節)

【新改訳改訂第3版】イザヤ書7章17~21節

17【主】は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。

18 その日になると、【主】はエジプトの川々の果てにいるあのはえ、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。
19 すると、彼らはやって来て、みな、険しい谷、岩の割れ目、すべてのいばらの茂み、すべての牧場に巣くう。
20 その日、主はユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、すなわち、アッシリヤの王を使って、頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。
21 その日になると、ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う。

  • 主に信頼しないならば、【主】は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させるとイザヤは預言しています。今まで経験したことのない未曾有の「日」です。「その日(「ヨーム・ハフー」יּוֹם הַהוּא)」が繰り返し強調されています(7:18, 20, 21, 23)。但し、ここでの「その日」とは、終末論的な「終わりの日」ではなく、やがて明らかになる「エルサレム陥落の日」、あるいは「バビロンへの捕囚」を意味しています。
  • このために主に雇われるのが「アッシリヤの王」です。この王が「かみそり」にたとえられています。つまりその「かみそり」によって、ユダの男たちは全身、つまり、頭の毛から足の毛まですべて剃られ、さらに、あごのひげまでも剃り落されるのです。ひげは男にとって誇りを象徴するものであり、それが剃り落されることはこの上ない恥辱を意味しているのです。
  • また、エジプトの軍勢が「はえ」にたとえられ、アッシリヤの軍勢は「蜂」にたとえられています。双方とも飛びまわる「昆虫」で、ありとあらゆる所に巣くうのですが、「その日になると」、主はエジプトにいる「はえ」と、アッシリヤの地にいる「蜂」に合図されるとあります。
  • 「その日になると」、「かみそり」と「はえ」「蜂」によって、イスラエル全土は荒廃します。地の全土は人々の住めない「いばらとおどろの」の状態となり、残された者たちは「凝乳と蜂蜜」を食べて生きるようになると預言されています。これはとても貧しい生活を象徴する表現なのです。


2014.8.8


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