****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「ミドゥバール・ミニストリー」の概要

2. 「ミドゥバール・ミニストリー」の概要

  • 「ミドゥバール・ミニストリー」の概要は、以下の図が示すように、いくつかの働きを総括するミニストリーとして位置づけています。

画像の説明

(1) 「サムエル・ミニストリー」

  • 「サムエル・ミニストリー」は、これまで空知太栄光キリスト教会が最も重視してきたミニストリーです。毎日(月曜日を除く)、主にある者たちが一つ所に集まって神のみことばを瞑想するものです。以前は「詩篇の瞑想」をしていましたが、現在は、「聖書を横に読む」ということで、月、火、金、土曜は、創世記から始まって、現在(2013年)は「預言書」を学び、瞑想しています。これは聖書の歴史の流れを掴むとともに、聖書の知識を身に着けるためでもあります。これはやがてイェシュアの福音を理解する上で欠かすことのできない大切な素地となります。
  • 木曜日は「突っ込み聖書研究」と称して、現在、ルカの福音書をテキストにしてみことばの深みに与ろうとする試みをしていま。さらには、福音書を「ユダヤ的視点から読み取る」ことを訓練しています。

(2) 「ヒナヤーヴ・ミニストリー」

  • 「ヒナヤーヴ・ミニストリー」は、最近(2012.5.3)、立ち上げられたミニストリーです。モーセが40年間の「荒野の経験」を踏まえて、第二世代の者たちに神の律法を再度語ったように(これが「申命記」です)、私たちも次の世代に、正しい神の福音を伝える必要があります。特に、主にある信仰をもって結婚した夫婦にその「報酬」として与えられた「子ども」を「主の賜物」として受けとめ、自覚的、主体的に主にある家庭を継承するという召命を果たしていくミニストリーです。
画像の説明
  • 始まったばかりで、まだまだ試行錯誤の段階ですが、このミ二ストリーのひとつの実として、金ウヒョン監督を招いての「荒野の学校」のセミナー(2012.10.19~21)が実現しました。これからもこのセミナーは、ヒナヤーヴ・ミニストリーを通して開かれた主の導きとして今後も継続していく予定です。
  • 2013.6.25より、「ヒナヤーヴ・ミニストリー」と「荒野の学校」とが合体した「ヒナヤーヴ聖書塾」へと導かれています。この聖書塾の構想の柱は二つあります。

    (1)ひとつは、次の世代のために、聖書をユダヤ的視点(ユダヤ的ルーツ)から聖書を読み解くことを訓練し(これまでのキリスト教の歴史における「置換神学」と「個人的救いの強調」の弊害を教えつつ)、終わりの時代の「見張り人」を育成するものです。
    (2)もう一つは、教えの風に吹き回されることがないように、ベレヤの教会のように、原語(ヘブル語&ギリシア語)でみことばの教えを検証する力を養うことです。

(3) イスラエルの回復

  • 「イスラエルの回復」というのは使徒パウロが「奥義」として聖書で語っていたのですが、「置換神学」によって、長い間「イスラエルの回復」という大切な事柄がキリスト教会の歴史において覆いがかけられてきました。しかし、近年、イスラエル建国後、その覆いが徐々に取り除かれつつあります。しかし残念なことに、多くのキリスト教会においてそのことに未だ気づいてはおりません。
  • 「イスラエルの回復」というキーワードがなければ、聖書を正しく解くことができません。またキリストの花嫁としての教会の完成もあり得ません。このことについてキリスト教会は聖霊によってもっと目が開かれる必要があります。聖霊の上位にある賜物は、「知恵と知識の賜物」です。求め続けるならば、「イスラエルの回復」について必ず目が開かれるのです。
    置換神学」について、BFPの編集部がまとめたものがあります。
    PDFファイル(パート1&パート2)をご覧ください。
  • 最近、この「イスラエルの回復」についてよくまとめられた本が出版されました。一つはドッド・モアヘッド著「聖書で学ぶ『約束の国』」という冊子で、これ以上の入門書はないのではと思われるほどわかりやすくまとめられています(定価300円)。もう一つは、メシアニック・ジューのラビで毎年のように来日されているヨセフ・シュラム師の「神・イスラエル・教会」(石井田直二訳)という本で、最近出版されました。

(4) イェシュアの語った福音

  • 「イエスの福音」ということばを聞いて、このことばに驚かれるクリスチャンもいれば、ほとんど抵抗を感じない方もおられるのではないかと思います。このことばは、実は、これまでのキリスト教会の福音の理解を再検証する含みで言われていることばなのです。つまり「十字架の福音」と言うだけでは、「イエスが語ろうとした福音」には届いていないという警鐘的標語なのです。※脚注
  • 「十字架の福音」は赦しの福音であり、和解の福音です。それなしに私たちはだれひとりのとして神の前に立つことはできません。しかしこのすばらしい十字架の福音も「イェシュアが語った福音」の一部であるということです。たとい救われていたとしても、福音に生きるには「イェシュアの愛の戒め(トーラー)に従う」(マタイ18:35/ヨハネ13:34/ガラテヤ6:2/ローマ12章/等)ことが必要です。十字架を信じるだけでなく、十字架を誇りとすることです。愛の戒め(トーラー)とは「日々、十字架を負う」ことを意味し、イェシュアの歩んだ道を歩くことを意味します。具体的には、人を赦し、互いに重荷を担うことです。それによって「キリストの(愛の)律法(教え)」を全うするのです。これが「律法の回復」が意味することです。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネ14:21)

「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:14)

これがイェシュアの語った福音です。主の友とされることで、神の秘密が開かれ、神のいのちがより豊かに注がれ続けていくためには、イェシュアの語った愛の戒めを行う者とならなければなりません。「わたしが来たのは律法や預言書を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)というイェシュアのことばを正しく理解する必要があるのです。

  • キリストの教会は「十字架の福音」のみならず、そこを出発点として、イェシュアの語った福音がいかなるものであるか、再検証を迫られているのです。「イェシュアの語った福音」を再検証するならば、教会(個人も含めて)は愛のうちにリバイブされるはずです。しかしながら残念なことに、「その道は狭く、それを見いだす者はまれです」とイェシュアは語っているのです。
  • キリスト教会の将来を考える時、そこには複数の選択肢があります。聖書は、歴史に学び、主(神)のことばに聞くことを通して、正しい道を選ぶようにと勧告しています。

新改訳改訂第3版 
エレミヤ書 6章16節
【主】はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。

マタイの福音書7章13, 14節
13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

  • 私たちは正しい未来を選び取ることができます。その際、正しい選択の秘訣はみことばの聴従によってもたらされる、とイェシュアは教えています(マタイ7:24~27)。これこそイェシュアの語った福音なのです。しかも、それは決して使徒たちの語った福音と矛盾しません。
  • 「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」(ローマ1:1)-その彼がローマにいる聖徒たちに手紙を書いています。その手紙の目的は「御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすため」(1:5)だと述べています。ここで「信仰」と「従順」がワンセットで語られていることに注目する必要があります。使徒パウロはローマ書6~8章にそのことを説いています。
  • 「信仰の従順」とは、「信仰による従順(服従、聞き従うこと、イエスを主と告白して従うこと)」を意味します。それは神のしもべ(奴隷)として生きることを選び取ることです。福音とは「罪を赦されるだけでなく、神の奴隷となることへの召しであり、それは決して束縛ではなく、むしろ召された者が喜びに満たされる現実」を意味します。奴隷でありながら、輝かしい自由を持って生きることのできる、そのような新しい主人との出会いこそ、イエスの語っている「神の国の福音」=「御国の福音」と言えます。

2012.10.23


a:6783 t:2 y:2

※脚注

画像の説明

2013.5に、スコット・マクナイト師の「福音の再発見」という本がキリスト新聞社から翻訳出版されました。現在用いられている「福音」という言葉は、イエスや使徒たちが意味していた本来の福音をもはや指すものではなくなってしまったと警鐘をならして、イエスの語った「福音」に焦点を当てています。彼によれば、「福音とはイスラエルの物語を完成させるイエスの救いの物語であり、イエスは明らかに、イスラエルを救う神のご計画の中心に自分を据えていた。」と述べています。別の表現をするならば、「福音とは、イスラエルのメシアであり、すべてのものの主であり、ダビデの裔(すえ)である救い主イエスの、その救いの物語によって完結するイスラエルの物語である」としています。アーメンです。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional