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「モーセのごとく最善の死を迎えよう」

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22. 「モーセのごとく、最善の死を迎えよう」

聖書箇所 34:1~12

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1. 最善としてのモーセの死

  • 「終わり良ければすべて良し」ということわざがあります。その意味するところは、最後のしめくくりが大切であるということです。これは人の人生においても言えることです。特に、主のしもべたちのためには、私たちのなしうるかぎりの祈り、願い、考え、望みを無限に越えて、つまり、私たちが大胆に願い求め、夢見ることもはるかにおよばないことを、神はその偉大な力でなされる方であることを信じます。
  • モーセの死を見る時、まさに、神に導かれてきた神のしもべとしてのモーセの生涯の最後は最善であるということです。しかも、そのような人生がモーセのみならず、主にある私たち一人一人にも約束されているということです。
  • モーセが自分の思いとしては約束の地に入って行きたかったと思います。しかし、彼がそこへ入ることは許されずに、モアブの地で死んだことは神のご計画の中で最善であったことを信じます。なぜなら、その死は、新しい始まりを意味していたからです。ということは、モーセの死は「意味のある死」であったということです。
  • 私の牧会する空知太栄光キリスト教会が、北海道の砂川市に開拓されたその契機となったのが三人の方の死でした。一見、何の関係もないように見える三人の個別の死が、神のご計画と導きの中でひとつにつながったのです。その結実が「空知太栄光キリスト教会」の誕生です。三人のうちの一人でも欠けていたならば、神のご計画は実現されなかったと思っています。当人たちの意識を超えたところにある「意味のある死」というものは、神が主権的になしてくださることなのです。
  • ビスガの頂に立ったモーセは、神が約束された地の全貌を見ることが許されはしましたが、「あなたはそこへ渡って行くことはできない。」と神から言われました。しかし、モーセの生涯を考える時、その誕生とその奇蹟、また、幼時から少年、青年時代をエジプトの王子として育てられたこと、その後で、自分の出生の秘密を知り、同胞を救おうとして彼らから拒絶されたこと、ミデアンでの40年間の羊飼い、そして80歳の時の預言者としての召命、そしてそれからイスラエルの民をエジプトから救い出し、約束の地目前まで来た40年間旅路のすべてが、今、この終わりの時に向かって流れて来たのです。自分の後継者としてヨシュアが神によって立てられました。これからの新しい始まりの準備はすでに整っていました。

2. 型としてのモーセの死

  • モーセは、訣別説教として、イスラエルの新しい世代に、過去の神の恵みを思い起こさせ、自分が神から与えられたトーラーのすべてを繰り返して語り、約束の地で生きるすべての指針を語り終えました。モーセの神のしもべとしての働きはそこまでだったのです。そしてそこがモーセにとって最善の時でした。彼の生涯の神の召しは果たされたのです。
  • モーセが約束の地に入れなかったのは、直接的にはメリバでの事件がありましたが、より大きな視点から見れば、つまり神の救いのご計画という視点から見るならば、律法を与えられた者としての限界がありました。モーセの後継者はヨシュアですが、そのヨシュアは、やがて来られるメシア、イエス・キリストの型です。イエスはヘブル語では「イェシュア」です。
モーセヨシュア(イェシュア)
モーセイエス(イェシュア)
律法福音
律法はモーセによって与えられた恵みとまことはイエス・キリストによって実現した
旧約新約


3. 教訓としてのモーセの死

  • モーセは120歳になっても、「彼の目はかすまず、気力が衰えていなかった」(34:7)とあるのは驚きです。しかし、「主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。」(34:5)のでした。「主の命令によって」モーセは死んだのです。ここの「命令」とは直接には「口」であって、ユダヤ人の伝説によれば、モーセは主の口、すなわち、主の接吻によって死んだと教えられているそうです。実に、厳粛で、幸いな表現です。
  • そのようなモーセの死を通して、自分の生き方をもう一度見直す機会が与えられました。自分が死を迎える最後の時がいつかはわかりません。しかしその時が自分の生涯の最善となるような生き方をしたいと強く思わせられました。
  • 使徒パウロが述べているように、「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」という現実があるのです。多くの人は老いを拒絶し、それに抵抗しようと試みますが、そのような無駄な戦いを捨てて、老いを受け入れながらも、「内なる人は日々新たにされる」という霊的現実を信じて生きたいと思います。また、モーセの「目はかすまず、気力が衰えていなかった」という現実があることを信じたい。肉体の目はかすむことはあっても、霊的な目はますます開かれて、生きる気力に満ちあふれながら、死を迎えられるならば最高です。たとえ、そうでなくても、自分の時を主の御手にゆだねるとき、主は最善をしてくださると信じます。
  • 私自身も含めて、主にある者ひとりひとりが、モーセのごとく、最善の良き死を迎えられますように。そしてそのために、今を最善に輝いて生きることができますように。

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