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「不正な富で、自分のために友をつくれ」とは

50. 「不正な富で、自分のために友をつくれ」とは

【聖書箇所】 16章1節~13節

はじめに

  • この聖書箇所はとても理解が難しい箇所と言われていますが、コンテキストを重視するならば、決して難しい箇所ではありません。この箇所の前半(1~8節)はたとえ話であり、後半(9~13節)はそのたとえ話に基づいて語った弟子たちへの勧めです。
  • イエスの語られたたとえ話の要点は「一つ」であるという大前提を崩してはなりません。いかようにも受け取れる解釈はどこかピントがずれてしまっているのです。イエスのたとえは話は常に天の御国について教えています。ですから。この世の基準からすればどこかがおかしいのです。しかし、異常と思われる部分、頭をかしげる非常識な部分にこそ大切な真理が隠されていることが多いのです。
  • 前半のたとえ話は、一般に「不正な管理人」というタイトルが付けられています。この不正な管理人がしたことをほめている主人の非常識さが目立ちますが、それ以上に、イエスが「不正な管理人がしたように、不正な富で、自分のために友をつくりなさい」と勧めている点はより非常識です。この部分こそ正しく理解しなければならない点です。

1. コンテキストの流れを把握する

  • 16章のたとえ話にはコンテキストの流れの中に置かれています。その点を無視すると話が見えなくなります。16:1~8のたとえ話は、誰に向かって語られたのかと言えば、それはイエスの弟子たちに対してでした。「イエスは、弟子たちにも、こう話された」(1)とありますから、それまでにイエスの話を聞いていた者たちがいたのです。その者たちとはイエスの話を聞こうとしてみもとに近寄ってきた「取税人」や「罪人たち」です。そして彼らを受け入れるイエスに対してつぶやきつづけている「パリサイ人」や「律法学者たち」もいたのです。15章にある三つのたとえ話は後者の「バリサイ人」や「律法学者たち」に対して語られたものでした。
  • 三つのたとえ話は以下のとおりです。
    (1) いなくなった一匹の羊を見つけるまで捜そうとする羊飼い
    (2) なくなった一枚の銀貨を見つけるまで捜そうとする女の人
    (3) いなくなった弟息子の帰りをいつまでも待ち続ける父
    ここでの三つのたとえ話しのビューポイントは、「羊飼い」「女の人」、そして「父」です。この前者の二人は見つけるまで捜そうとする異常さをもち、後者の一人は帰ってくるまで待ち続けるという異常さです。そして、いずれも見つかったとき、帰ってきたとき、異常な喜びをもって祝宴をするという点で共通性をもっています。そこにも尋常ではない異常さがあります。この異常性こそがたとえ話の焦点です。そしてこれら三者はすべて神を示唆しているのです。
  • 「取税人」や「罪人たち」を受け入れているイエスに対してつぶやいているパリサイ人と律法学者に対して、天の神はいかなる方であるかを教えようとしています。そうした流れのあとに、こんどは弟子たちに対して大切なことを教えようとしていることは明らかです。

2. 不正な管理人の抜けめなさを称賛した主人

  • 16章1~8節のたとえ話において、注目すべきビューポイントは8節の「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」という箇所です。常日頃から主人の財産を乱費しているのですから、それだけでも不正な管理人です。その管理人の不正がバレて、追い出される前にさらなる不正をして、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで証文を書き換えさせて、負債(借金の利子分)を免除したのですから、主人からみるならばさらなる不正(不義)を重ねたことになります。ところが、そうした抜けめなさに主人はすっかり感心してしまったというのです。あり得ない話ですが、実はここが重要な点です。

3. 「不正な富で友をつくる」とは

  • イエスは不正することをここで勧めているわけではないことは常識で判断できますが、「不正な富で友をつくる」という意味が理解しにくいのです。たとえの中にある不正な管理人は主人のものを不正に取り扱って、自分がやがて管理の仕事をやめさせられても、自分を迎えてくれる友をつくろうとしました。その抜けめなさに主人は感心したのです。
  • 「不正」ということばをみると、すぐに「悪いこと」と判断し、そういうことをしてはいけないと私たちは思ってしまいます。それはパリサイ人と律法学者たちもそうでした。取税人たちや罪人たちを招いて共に食卓を囲むということは、彼らの罪を不当に赦して、受け入れているとみなされたのです。そんなことは決して受け入れられることではないとみなしたのです。確かに、取税人や罪人たちは、律法によれば、神に対して罪があり(負債があり)、その負債を取り消したりすれば不正なことをしたことになります。しかし、負債を取り除いてもらった取税人や罪人たちからは感謝されて、友として迎え入れてくれるはずです。
  • この不正な管理人のしていることは、イエスがこの地上に来られてしていることと同じなのです。律法によるのろい(負債、重荷)を取り除くことは、律法の要求する側から見るならば不正なことをしていわけで、公正ではないのです。しかもイエスはその不正な行為(態度)で取税人や罪人たちとかかわりを持とうとしていたのです。
  • イエスは弟子たちに対して、あなたがたも同じように(律法によれば)不正と見られることをしなさい。それは具体的には「罪を赦して受け入れること」を意味します。つまり律法が要求する負債(責任)を無視してかかわることを、ここでは「不正な富」と表現し、その「不正な富で、自分のために友をつくりなさい」と勧めているのです。

4. 「不正な富」に忠実であれとの勧め

  • 上記のように理解するならば、10節~12節にあるイエスのことばも理解できるようになります。

    10
    小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、
    小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
    11
    ですから、あなたがたが不正な富に忠実でなかったら、
    だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
    12
    また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、
    だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

  • ここでは、小さな事であっても、大きな事であっても、「不正な富」に忠実であることが勧められています。「不正な富」とは相手の負債を赦してかかわることです。その富を忠実に用いることで友を得ることができます。そのことができるならば、「まことの富」が任せられるです。「まことの富」とは、主人である神の天的なすべての栄光の富のことと理解できます。赦すことで得られるかかわりを「不正な富」と理解するならば、それは神から見るなら「小さな事」でしかありません。しかしその「小さな事」に対して忠実であるならば、より多くの神の霊的資産を管理するという「大きな事」を任せられると理解します。

5. 付記(「富」の意味すること)

  • この箇所の理解を難しくしているのは「富」という言葉ではないかと思います。「不正の富」の「富」と、神に仕えることを得させなくしてしまう「富」とは意味合いが異なっています。そのことを誤解しないために13節があるのかもしれません。

    「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を愛したりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(13節)

  • 13節で使われている『富』と、9節に使われている「不正の富」で使われている『富』は、語彙としては同じ「マモーナス」μαμωνας(アラム語では「マーモーン」מָמוֹן)ということばが使われています。「この世の富」を意味することばです。しかしイエスは(あるいは著者のルカが)、この二つの箇所の『富』を異なる意味で使っていることを示すために、13節のことばを語る必要があったと考えられます。そしてまたこの13節のことばは、14節以降に展開される「金の好きなパリサイ人」について語られる伏線ともなっているのです。
  • 今回の箇所においては、「お金」を上手に管理して、神のために、あるいは自分のために使うということは全く教えられてはいません。
  • 今回の聖書箇所を理解するためには、13節のことばを入れずに、1~8節をたとえ話として、9~12節をイエスの弟子たちに対して語られた励ましのことばとすれば、すっきりと理解できるのではないかと思います。

2012.4.26


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