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「主の食卓」と「主の晩餐」

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No.1 「主の食卓」と「主の晩餐」

ベレーシート

  • ここでは、「主の食卓」と「主の晩餐」の二つがどのような関係にあるのか、どこが共通で、どこが違っているのかについて取り扱いたいと思います。「主の食卓」―英語ではThe Lord’s Tableと言い、「主の晩餐」(=聖餐とも呼ばれます)―英語ではThe Lord’s Supper と言います。その関係を図で表すと下記のような図になります。

    主の食卓と主の晩餐

  • また、「主の食卓」と「主の晩餐」の相違点は以下の通りです。

画像の説明

  • まずは、今回扱う内容のアウトラインを提示しておきたいと思います。

(1) 私たちはすでに「主の食卓」に与っている。
(2) 「主の食卓」に与った者は「主を覚える」よう命じられている。


1. 私たちはすでに主の食卓に与っている

  • 私たち(キリスト者)は、すでに「主の食卓」に与っています。それはどういうことでしょうか。「主の食卓」は「主の食事」と言い換えることもできます。食事も食卓も聖書においては同義です。ヨハネの黙示録3章20節に、ラオデキヤの教会に対してイェシュアが語ったとされる有名なことばがあります。

【新改訳改訂第3版】黙示録3章20節
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする

  • 聖書においては食事をする場面が多く出てきます。それは神と人との交わりを、「食事」、あるいは「食卓」によって象徴的に表現しているのです。つまり、聖書は「神の国」(天の御国、天国)を、神と人が共に祝宴のごとく食事をする、食卓を共にすることとして表現しているのです。ユダヤ人は、心ゆるせない者とは一緒に食事をしない民族と言われていますが、特に、異邦人とは決して食事をしませんでした。さまざまな食物規定があったからです。ですから、使徒ペテロが神の導きによって、ローマ人の百人隊長のコルネリオのところに行き、異邦人もユダヤ人と同様に神の祝福に与ったのを知って、異邦人と共に食事をするようになったのですが、いつしか、割礼派の人々(ユダヤ人)を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行きました。ところが、そのことを「間違っている」と使徒パウロから指摘され、非難されています。ユダヤ人にとって一緒に食事をするということは、相手を受け入れ、交わりをする行為として考えられていたことを忘れてはなりません。その意味で、黙示録の3章20節を読むと、よく理解できるのです。
  • さて、福音書を読むと、イェシュアがしばしば罪人と呼ばれていた者たちと食事をされたことが記されています。ルカの福音書15章1~2節ではこう記されています。
    「さて、取税人、罪人たちがみな、イェシュアの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちはつぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』」と。そこで、イェシュアは「失ったもの」シリーズで立て続けに三つのたとえ話を話されます。最初は99匹を残して迷子になった1匹の羊を見つけるまで捜すという話、次は10枚の銀貨のうち無くなった1枚の銀貨を捜すという話。そして三つ目は、放蕩息子がすべてを失って父親のもとに帰って来たときに、父親が彼を迎え入れた話。父親は息子に最上の着物を着せ、指輪をはめさせ、足に靴をはかせました。それだけでなく、肥えた子牛をほふって、祝宴を開いたのです。それは、父親にとっては、死んでいた息子が生き返ったことに等しい喜びだったからです。その「祝宴」「食卓」は、単に息子を受け入れただけでなく、最上の喜びとしての表現だったのです。
  • やがて、「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。」(ルカ13:29)が、その食卓の様子はこの世のものとは逆です。イェシュアはこうも言われました。「まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。…」(12:37)―これは普通とは逆です。イェシュアはまた続けてこうも言いました。「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」(22:27)と。このように、神の国の食卓では、偉い者が食卓の準備をして、招かれ食卓に着く者に対して給仕するというのです。それは何のためでしょうか。それは、それほどに「交わり」を大切にしているからなのです。この交わりは、神が主権をもって行なっているのです。給仕するかのように、招く者たちに良いものを備え、準備し、与えて下さるのです。その食卓に着く者たちにとって大切なことは、その食卓をただ受け取り、そこに出されるごちそうを食べ、楽しむことなのです。
  • ダビデは、詩篇23篇5節で次のように歌っています。

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」それゆえ、ダビデはこう結論付けているのです。
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

  • ダビデはいつまでも主の家に住むことを誓っていますが、それは自分のために整えられている「食事」が永遠にわたるものだからです。食事は交わりであり、神と人との永遠の交わりを意味しているのです。
  • 私たちーつまり新約時代に生きる私たちは、キリストを通して、この永遠の食卓に招かれ、神との永遠の交わりを保障されているのです。キリストを通してと言いましたが、それはまずキリストの十字架上で流された尊い血潮によって私たちは罪赦され、神と和解し、神の子とされ、子としてのあらゆる特権を与えられています。それはキリストのからだなる教会に属しているからです。そのキリストのからだなる教会には、世にいのちを与える天からのパンが豊かにあります。キリストを信じた者は、すべてそのキリストのからだに属する者となり、そのからだはかしらなるキリストによって豊かないのちを与えられているのです。この状況を聖書では、「主の食卓」に与るという言い方をしているのです。それは目では見ることはできません。神との霊的な交わりだからです。
御国の福音と神の恵みの福音.JPG
  • そもそも「主の食卓」と「主の晩餐」という用語ですが、これらは、コリントへの手紙の10章と11章に記されています。使徒パウロはこの二つの語彙を微妙に使い分けています。このことは、パウロがエペソの教会の長老たちに語った訣別説教の中で、「神の恵みの福音」と「御国の福音」を使い分けていることと同様です。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント10章21節
あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。


【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント 11章20節
しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。


  • 「主の食卓」について、以下のことが語られています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント10章16~17節
16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

  • ここには主の食卓における交わりーキリストの血潮に与って罪を赦された者たちが、キリストのからだにおいて、一つのパンを食べることでひとつになるという交わりがすでにあることが強調されています。この一つのパンは神のパンです。この神のパンは私たちが「豊かないのち」を得るために必要な糧です。この糧はイェシュアご自身です。イェシュアは私たちに贈られた神のパンなのです。
  • 神のパンはすでに与えられていますが、私たちがそのパンの豊かさを掘り起こすことにおいて欠乏しているということなのです。忙しくて、他の事柄に関心が行って、聖書を読むことが少ない、聖書のことばに耳を傾けるゆとりのない心が蔓延しているのです。神が唯一、この世にいのちを与えるパンを与えたにも関わらず、多くのキリスト者はそのパンの食卓を豊かにするどころか、より貧しくしているのです。それは「みことばの瞑想」の貧弱さが物語っています。
  • 分かち合う喜びーキリスト者同士でそれができればすばらしいことです。ところが、そのすばらしいことがなかなかできないのです。温度差があるというか、互いに分かち合える霊的なパートナーシップを築こうとしても、真に分かち合えるパートナーがなかなかいないということも、これまたひとつの「みことばを聞く飢饉」のひとつの現われのような気がします。
  • 永遠の交わりを象徴する「主の食卓」に与ることのすばらしさ、それを分かち合えることは自分の霊性をさらに豊かにしていきます。これは決して個人的な取り組みの世界ではなく、共同体的な取り組みの世界なのです。このことにおいて、教会は目が開かれる必要があります。そしてこの世にいのちを与えるものとして贈られた神のパンのすばらしさ、その豊かさをもっと堪能できるように求めたいものです。

2. 主の食卓に与った者は、「主の晩餐」において「主を覚える」よう命じられている

  • さて、第一のポイントとして、「私たちは、すでに神の食卓に与っている」ことをお話ししましたが、第二のポイントは、主の食卓に与った者が、「主の晩餐」において「主を覚える」よう命じられているということをお話したいと思います。

  • そこで、「主の晩餐」について記されている聖書の箇所を開いてみましょう。

    【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント11章23~26節
    23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
    24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
    25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
    26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。


  • ここでは、「わたしを覚える」ということが強調されています。「わたしを覚える」とは、キリストが何をされたかを忘れないように、心にしっかりと留めなさいということです。キリストが私のために、ご自身の肉体を与えて、罪を赦すための血を流してくださったことを心に留めることが強調されているのです。しかしこのことは、キリストが再臨されるまでという期限付きです。それまで、主が死ななければならなかった意味を思い起こしーつまり私の罪による死であったことを思い起こし、さらにそれを告げ知らせることが強調されています。祝宴としての「主の食卓」、交わりとしての「主の食卓」に与ることとはだいぶ違っています。「主の晩餐」はとても厳粛です。なぜなら、キリスト者が、それぞれ自分の罪のためになされた主の苦しみと死を思い返すからです。
  • 主が私の罪のために十字架において苦しみを受け、いのちを捨てられたことを「思い起こす」こと、それが主の言われる「わたしを覚える」という意味ですが、同時に、「私の罪のため」という面においても「思い起こす」必要があります。つまり、自分と神との出会いの場を思い起こすのです。
  • 詩篇の中に「都上りの歌」というタイトルのついた詩篇が15篇あります。その中に、神とイスラエルとの出会いの場について記した130篇があります。その1節に「深い淵から、私はあなたを呼び求めます。」とあります。「深い淵」とは、足がかりのない底なしの穴、当然それは「苦しみのなか」です。120篇1節にも「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると」とあります。ここでの「苦しみのうち」とか、「深い淵」とは、具体的にはバビロン捕囚のことだろうと思います。イスラエルの歴史の中でエジプトにいた時の苦しみ、バビロンにいた時の苦しみは、神との新しいかかわりを経験する神の恩寵のときでした。神の民イスラエルはその「苦しみ」、「深い淵」から神を呼び求め、そこから解放されたことを決して忘れてはなりませんでした。その苦しみを忘れる時、神の民は巡礼の道から外れて行く危険性がありました。ですから、神の贖いの出来事を思い起こすことで、神の愛にしっかりととどまることができるのです。そのためにイスラエルの民たちは、年に三度、エルサレム(シオン)に巡礼しなければなりませんでした。ユダヤ人たちは今でもそのことをしているのです。
  • しかし、主の死を思い起こすための「主の晩餐」は年に三度ではありません。どの程度思い起こすべきでしょうか。ある教会では年に3回、クリスマス、イースター、ペンテコステの三大祝日という教会もあるでしょうし、毎月1回という所もあります。あるいは、毎週行なっている教会もあります。このように、ある周期に従って記念しているのは、マンネリ化を防ぐためと思われます。しかしどんなにマンネリ化しないようにと思っても、私たちはその弱さから免れることはできません。
  • カトリック教会では毎週「主の晩餐」に与ること、それはイコール「ミサに与る」ことです。つまり「ミサに与る」ことが主を礼拝することなのです。それほどに「主の晩餐」は、礼拝の要(かなめ)だということです。ただし、「主の晩餐」はキリストの再臨までのいわば期間限定(主の再臨まで)です。

2016.10.13


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