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「今日的課題としての第一戒の回復」

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19. 「今日的課題としての第一戒の回復」

聖書箇所 30:1~20

はじめに

  • 申命記には、「きょう」という言葉が多く見られます。特に、多いのが11章の7回と、30章の7回です。「きょう」とは、そのメッセージが語られた時代だけでなく、今日の時代においても問われるべき事柄です。その問われるべき事柄とは、「第一戒の回復」です。しかもそれは強制的な事柄ではなく、あくまでも自主的・主体的選択によるものです。これがいつの時代においても、新しい『今日的課題』と言えます。
  • ちなみに、第11章においても、また第30章においても、「心を尽くし、精神を尽くして、御声に聞き従う」とは、「主を愛する」という第一戒を意味します。30章の場合、第一の戒めを回復するなら、「主は、あなたを捕われの身から帰らせ、主が・・散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める」との約束があります。「再び」シャローム(繁栄)を取り戻すということが強調されています。これは11章には見られなかったことです。神を愛する喜びをおろそかにした結果としての捕囚経験がここに予告されていると言えます。

1. 神の戒めにおける優先順位

  • 「見よ。私は、確かにきょう、あなた前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に進み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。」(30:15, 16)
  • イエスは十戒を二つの戒めにまとめました。

第一戒「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
第二戒「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

  • 第一の戒めは、神である主を愛するということです。英語でも「愛する」という動詞は「ラブ」(love)です。このloveには、自分の意志を表わすwillということばをつけません。なぜなら、loveということばは強制されることのない全くの自発的な動詞だからです。しかも喜びを伴います。喜びのない愛というものは存在しません。第二の戒めは、隣人に対する愛です。宣教(伝道)、奉仕、交わり、牧会的配慮など、これらはすべて第二の戒めの実践です。しかし、ここで重要なことは、第一の戒めと第二の戒めの順位、つまり優先順位の問題です。この順位が逆転すると悲劇が起こります。

2. 今日の教会におけるミニストリーの落とし穴

  • 今日の教会において、真面目なクリスチャンを襲う燃え尽き症候群が見られます。ひとたび燃え尽きてしまうと、再び立ち直ることは大変です。失望落胆、空虚感、倦怠感、フラストレーションに陥り、何もする意欲が湧かなくなるからです。生きる意欲がそがれてしまっている状態、まさに生けるしかばねです。特にこの「燃え尽き症候群」は、真面目に主に仕えようとしている者と密接な関係があります。熱心でない人には関係がありません。
  • ミニストリー(働き)が祝福され、それが成長して大きくなければ、心の虚しさは消えてなくなるだろうと私たちは思いがちです。しかしそれは間違いです。お金がどんどん増えると心も満たされてくるのは錯覚であるのと同様です。もっともっと欲しくなるのです。
  • イエスの御名によって奇蹟的なみわざが現われるような刺激的なミニストリーに長い間携わってきたある説教者が、「もうあんなたことは見慣れてしまって、もう飽き飽きだ」と語ったと言います。多くのミニストリーを続けているうちに、だとえ、どんなに祝福された働きであったとしても、それがいつも起こっていると、それに慣れて、自分自身はむしろ醒めて、退屈としか感じなくなり、心も満たされなくなるのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。
  • 私たちはすばらしい働きをし、人も羨むような活躍をし、人からの称賛を得るようなすごい働きの世界には、さぞかし心満たされるものがあると思っています。ところが、しかし、バット(but)です。ミニストリーには落とし穴があることを知らなければなりません。クリスチャン生活において、生産性が求められる宣教の働きを第一にするなら、必ず、悲劇が起こります。働き人たちが燃え尽きてしまう比率は高くなること必須です。なぜなら、喜びの源泉を自分のうちにではなく、自分の外に置いているからです。
  • こうした問題は、神に愛され、神を愛するという土壌(かかわりの基礎)が十分に築かれないままに、ミニストリー(働き)に邁進してしまう(邁進させられてしまう)ことから起こるのです。なによりも、神を愛すること、神を愛する喜びが第一となるようなところに立ち戻らなければなりません。第一の戒めが優先されるところに置かれる時に、私たちのうちに霊的活力が与えられ続けるのです。弱さを覚えることがあったとしても、虚しさを覚えることがあったとしても、失望落胆するようなことがあったとしても、あるいは、迷ったとしても、神を愛する喜びを回復して、いのちの中に自らを置くならば、心の落ち着きを取り戻すことができます。
  • 第一の戒めが回復されるなら、すべての良い働きはそこから自然に生まれ出てくると信じます。私たちが主の愛という家に住み、そこにとどまり、愛の土壌の中でじっくりと育まれるならば、弱く、不完全な者であっても、やがては神の愛がその人をレバノンの杉の木のように栄えさせてくださると信じます。

3. 詩篇119篇とのかかわり

  • 詩篇119篇は、まさに第一戒の神を愛する喜びを回復しようとした人々の瞑想の結実です。この詩篇ではユダヤ人の哲学者であるマルチン・ブーバーのいう「我と汝」(「わたしとあなた」)の世界が希求されています。その希求の中で、作者は神のトーラーを通して再び(あるいは、新たに)神と出会ったのです。「大きな獲物を見つけた者のように」、その喜びの基調は119篇全体に貫かれています。まさに詩篇119篇は「心を尽くして」、「心を潜めて」主を尋ね求めた者の美しい愛の告白なのです。

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