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「使徒的福音への船出」(第三回ヒナヤーヴ・キャンプ)

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5.  「使徒的福音への船出」(第三回ヒナキャン)

ベレーシート

  • 第二回ヒナヤーヴ・キャンプ(2013.1月)で取り上げた詩篇127篇の要旨を思い出してください。とても短い詩篇ですが、信仰の継承を考えていく上でとても重要な事柄が記されていることを学びました。わずか5節からなるこの詩篇は二つの部分からなっています(前半は1~2節、後半は3~5節)。前半と後半がどのように結びついているのかということがこの詩篇の重要な瞑想の視点でした。
  • 前半部分での重要な点は、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」ということでした。そして後半部分の重要な点は、子どもたちは主の賜物であるとしながら、それが勇士の手にある矢としてたとえられ、「父と子」の関係を「矢筒とそれを満たす矢との麗しいかかわり」として築いている者は幸いなことだ、としていることです。
  • そこで今回のキャンプで考えたいことは、「父と子がともに学び合う」ことだけでなく、その学びの内容です。昨日(8.8)は神を表わす「エール」(אֵל)の秘密について学びました。二つのヘブル文字、「アーレフ」(א)と「ラメッド」(ל)からなる「エール」は、羊飼いが杖をもって羊を導くように、そのような杖(権威)をもって指導し、教え、かつ矯正する力ある指導者であることを学びました。「教える、学ぶ」の意味を持つヘブル語の動詞「ラーマド」(לָמַד)は、神の民イスラエルがバビロンで捕囚となっていた時代に、二代三代かけて培った家庭教育法であり、かつ信仰継承の方法でした。そして今回のキャンプでふれたい事柄は、神を信じる親と子が、これからの時代、本腰を入れて学ぶべき事柄の内容について考えたいのです。
  • 私の書斎に「コンサイス・バイブル 福音」というタイトルの本(ハード・カバー)があります。これは聖書を配布している団体によって作られ、配布されている聖書です。「コンサイス」とは簡潔な、要領よくまとめられたという意味ですが、その内容は、旧約聖書の創造の物語と人間の堕罪、そしてノアの時代の神のさばきが記されて、そのあとに旧約のメシア預言のいくつかを紹介して、新約聖書のイエスの物語と終わりの時の教えが記された内容となっています。ここで私が言いたいことは、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫であるイスラエルの物語がすっぽり抜けていることです。イスラエルの物語が完全に欠落した形の福音としてまとめられているのです。
  • これまで伝え聞いて来たキリスト教の「福音」とは、この「コンサイス・バイブル」が象徴しているような「福音」だったということです。日本のような異邦人に福音を伝えていくためには、そのような、簡潔にまとめられた、パッケージ化された商品のような「福音」はまことに便利なものでした。伝道のツールとしての「四つの法則」に見られるように、「神」「罪」「救い」「受け入れ」で、ある意味、最少の知識だけで神からの永遠のいのちを得ることのできるというものです。果たして、このような福音の理解のレヴェルで、次の世代に信仰を継承していくことは良いのかどうか懸念を抱くようになっていたとき、今年の(2013年)5月に翻訳出版された、スコット・マクナイトという方の「福音の再発見」(中村佐知訳、キリスト新聞社)という本を読んだとき、これまでの福音の理解が神のご計画の全体像を知ることを妨げていると確信しました。そして信仰の継承を祈って行くとき、この問題は避けてとおることは出来ないことを改めて悟ったのです。
  • スコット・マクナイト師によれば、現在用いられている「福音」という言葉は、イエスや使徒たちが意味していた本来の福音をもはや示すものではなくなってしまったと言っています。彼によれば、「福音とは、イスラエルの物語を完成させるイエスの救いの物語であり、イエスは明らかに、イスラエルを救う神のご計画の中心に自分を据えていた。」と述べています。換言するならば、「福音とは、イスラエルのメシアであり、すべてのものの主であり、ダビデの裔(すえ)である救い主イエスの、その救いの物語によって完結するイスラエルの物語である」と言えます。コンパクトにパッケージ化された商品としての「福音」、つまり「個人的な救い」が強調されることで、神のご計画全体に関心がいかなくなっているばかりが、その視点によって語られているイエスのことば(たとえ話も含めて)の多くが誤解されて解釈されているということが問題なのです。この問題については、単に、個人的な救いの強調ということだけでなく、キリスト教の歴史にずっと流れている「置換神学」の弊害もあるのです。この「置換神学」はその中にいる者にとっては気づくことも、またその弊害も知ることができません。神の救いのキーワードである「イスラエル」を正しく位置づけられることなくしては、この「置換神学」の呪いから抜け出ることは出来ないのです。
  • 置換神学の弊害は神の救いの担い手であるイスラエルの存在が教会に置き換えることによって、文字通りイスラエルの存在、およびその役割を認めないことです。そのことによってイスラエルの回復の預言は正しく理解することが出来ません。また、「個人的救いの強調」は、常に人間のニーズが出発点となる懸念があります。罪からの解放、病からのいやし、悪霊からの解放、人間の必要の満たしといった事柄が関心の的で、神のご計画の全体像に対する関心が希薄になっている脆さがあります。

1.「あなたの信仰はりっぱです」とイエスが賞賛された信仰とは

  • さて、そうした問題意識をもって今回のキャンプで取り上げたい聖書の箇所はマタイの福音書15章21~28節です。イエスがツロとシドンの地方に行かれた時、そこにひとりのカナン人の女性が自分の娘のいやしのことでイエスのところにやって来ました。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」ということです。
  • このことを巡って、まずイエスの態度、弟子たちの態度が記され、その後にイエスと弟子たちとのやり取りが記されています。最初、イエスの態度は非常に冷たいものです。というのは、「一言もお答えにならなかった」からです。弟子たちの反応も同様です。「おの女を帰してやってください。」 このことばの本意は女が「叫びながらあとについて来たから」でした。するとイエスは弟子たちに「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われました。イエスがこの女を無視した理由はこのことでした。
  • ところが、女は来て、イエスの前にひれ伏して懇願しました。するとイエスは「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」と言いますが、この女はすかさず、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言ったとき、イエスは彼女の信仰を称賛され、彼女の願いを聞かれたのです。
  • ところで、この話の主要点はいったい何でしょうか。いろいろな答えあるでしょうが、私は、異邦人の立ち位置だと考えます。イスラエルと異邦人の立ち位置の違いをこの女はよく知ったうえでイエスに近づいたと考えられます。その意味での「謙遜」がイエスに評価され、「ああ、あなたの信仰はりっぱです」ー「メガス」(μεγας)、ここでは「偉大な」、「すぐれた」の意味―と言われたのだと私はこの箇所を理解します。他にも信仰が賞賛されている人々はいますが、ここでのように「メガス」として賞賛されているのはこの箇所だけなのです。その意味ではこの箇所はイエスの真意を知る上できわめて重要なのです。
  • すでにこの女はイエスを「主」と呼び、「ダビデの子よ」と呼んでいます。これはイエスが約束されたメシア(キリスト)であり、神であると信じていることを意味します。それゆえイエスも、彼女を「犬」とは呼ばず、に、「小犬」、つまりユダヤ人の家に飼われていたペットとしての「小犬」と呼んでいます。当時のユダヤ人は異邦人を「犬」と呼んでいましたが、「小犬」はユダヤ人の家の信仰の中にいる異邦人という意味です。
  • とはいえ、イエスが来られたのは第一義的には神によって選ばれた子どもたち、すなわちイスラエルの民に神の約束を成就するために来られたのです。なぜなら、神は彼の父祖であるアブラハムに「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と約束されたからです。その子孫であるイスラエルの民に私たち異邦人は接ぎ木されて祝福が与えられるというのが聖書の立場です。このことを正しく受け止める信仰に対して、イエスは「あなたの信仰はメガス」(μεγας)、つまり「偉大だ、りっぱだ、すばらしい、感服した」と称賛されたのだと考えられます。異邦人としての立ち位置を正しく悟ることがとても重要です。そのためにイスラエル物語を良く知っている必要があるのです。

2. 使徒たちの語った「福音」とは

  • 初代教会が「福音」として語ったのは、私たちが理解している「福音」とは少々異なります。初代教会が語った「福音」とは、「イエスがキリスト」であるという良きおとずれです。初代教会の宣教とはそのことを聖書(旧約聖書のこと)に基づいて立証することでした。「イエス」、その方が「よき知らせ」だったからです。私たちがしばしば口にする「イエス・キリスト」とは、イエスがキリストであるという信仰の告白です。「イエス」はこの地上に実在した「ナザレのイエス」のことです。この方の生涯のすべて、語ったことのすべて、また、なされたことのすべてが約束されたメシア、すなわちキリストであることを聖書自らが証ししているという告白です。「キリスト」は「油注がれた者」という意味で、これは名前ではなく職名です。
  • 使徒パウロはダマスコ途上でイエスと出会ってから、目のうろこのようなものが落ちて、イエスは神の子であり、キリストであるとを確信しました。そしてそのこと(イエスがキリストであること)を証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせました(使徒9:22)。
    イエス・キリストであることを証明する場合、それは必ず「聖書に基づいて」なされたのです。
  • このことは、イエスが十字架にかかる前も復活した後にも、全く同じことが繰り返されています。イエスがエルサレムに向かって行く時、弟子たちに「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ、むちで打ってから殺します。しかし人の子は三日目によみがえります。」と語られましたが(ルカ18:32~33)、このことを理解した弟子たちはひとりもいませんでした。しかしこのことは旧約の預言者たちが預言していたことでした。弟子たちがイエスを「メシア」(すなわち「キリスト」)であることを悟り、確信できたのは聖霊による照明があったからです。復活されたイエスはエマオの途上の弟子たちに近づいて、キリストは栄光を受ける前に苦しみを受けるということを、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中でそのことを説き明かされました。聞いていた二人の弟子たちこのとき「心が燃える」のを感じていました。そのあとに彼らは目が開かれ、「イエスこそキリスト」なのだということを悟るようになったのです。
  • 使徒パウロはコリント人への手紙第一15章3節で「福音」についてのべています。そこでは最も大切な事として「イエスがキリストである」という前提で語っています。その核心にあったのは「聖書の示すとおり」だったことに注目しなければなりません。使徒たちの語る福音は、イエスのストーリー(イエスの全生涯の事実)が、イスラエルのストーリーの成就であるという良き知らせだったということです。「キリスト」ということばそのものが、実はイスラエルの歴史を背景とした語彙なのです。

3.  私たちがこれから取り組むべき信仰継承の課題

  • これまで、教会が宣べ伝えてきた個人的な救いの強調は、「神のご計画の全体を、余すところなく知る」(使徒20:27)ことよりも、人間的なニーズにどうしても傾斜しがちです。しかもそこからでは、神のいのちを新しく汲み出すことができないのです。福音の理解にはイスラエルのストーリーが不可欠であることを受け留める必要があります。それは換言するならば、聖書をヘブル的視点から読み直すことなのです。
  • 初代教会での「福音」は、イスラエルの歴史を抜きにしては語っていないという事実です。「イエスはキリスト」ですという告白の中にそのことが要約されています。それゆえ、現代の教会はイスラエルに対する正しい理解が必要です。イエスが御父によってこの世に遣わされた目的は、第一義的には「イスラエルの家の滅びた羊」のためです(マタイ15:24)。この事実にしっかりと目を留めるならば、福音書で語られたイエスのことばの真意が開かれて来ると信じます(他にも、マタイ10:6、ルカ19:9~10などを参照)。
  • 初代教会は異邦人ではなく、ユダヤ人に対して語られたと言われます。本来的には確かにそのとおりです。しかしそのときにもユダヤ人たちの周辺にはイスラエルの神を信じる異邦人たちが存在していたのです。カナンの女のように、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言える異邦人はいるのです。そしてそのような立ち位置であったとしても、主の食卓はこぼれ落ちるほどに豊かであり、それに十分に与ることができるのです。
  • これからの信仰継承の取り組みの課題として、親と子はイスラエルの物語を共に時間をかけて徹底的に学ぶことです。神ご自身の啓示と現われは、歴史がその舞台となっているからです。ただし、その歴史の学びといっても、出エジプト劇ばかりを学んでいるようではいけません。イスラエルの民に対する神の全体的な、鳥瞰的な学びが必須なのです。ですから、歴史、預言書、詩篇等のすべてを学びづけていくことが求められます。
    また、教えの風に吹き回されないために、またそれらの教えを検証することができるにも、聖書の原語であるヘブル語やギリシャ語の学びも必要となってくる時代なのです。特に、主にあるクリスチャン・ホームはそうした神からの召しが与えられているかどうかを確かめなければなりません。そして確信できたなら、その召しに従うことが求められます。
  • ヨシュアの「私と私の家族とは、主に仕える」という告白は、これからの時代においてより強く求められる時代となることを信じます。

2013.8.19


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