****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「安息日に良いことをするのは律法にかなう」

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48. 「安息日に良いことをするのは律法にかなっている」

【聖書箇所】マタイの福音書12章9~14節

ベレーシート 

  • 今回の箇所も前回に続いて「安息日問題」が扱われています。まずはテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書12章9~14節
9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。
10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。
11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、 それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。
12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」
13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。
14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。


1. 天の御国を示唆する重要な語彙

(1) 「~から~へ通って行く」という「アーヴァル」(18)という動詞

【新改訳2017】マタイの福音書12章9節
イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。

  • 12章1節でイェシュアが「(麦畑)を通られた~通り過ぎた」という表現がありました。そして今回のテキストである9節にも「~を去って~に入る」という移動を表わす表現があります。いずれもヘブル語だと「アーヴァル」(עָבַר)という動詞の一語で表されます。特に9節はギリシア語原文では「去る(立ち去る)」と「入る(やって来る)」は、「メタバイノー」(μεταβαίνω)と「エルコマイ」(ἐρχομαι)という二語が使われています。しかしヘブル語では「去って、入る」を「アーヴァル」(עָבַר)一語で表します。何の変哲もない場所の移動のように見えますが、イェシュアが通られるところはすべて、この世のただ中に(ある地点に)神の世界が通り過ぎる、御国が渡ってくることを意味しているのです。「アーヴァル」は「ヘブル人(「イヴリー」עִבְרִי)の語源でもあります。聖書で最初に「ヘブル人」と言われた人物はアブラハムですが、それは「川を渡って来た者」という意味で、アブラハムはウルから川(ユーフラテス川)を超えて神の示す地へと渡って来た人物です。「ヘブル人」の概念とは、まさに神中心の価値観を持った存在を表わします。神から遣わされたイェシュアも同様です。イェシュアが「通られる、通り過ぎる」とき、そこに神の世界が「通り過ぎる」のです。それゆえイェシュアの「アーヴァル」(עָבַר)は非常に重要です。今回もパリサイ人たちが登場しますが、彼らは自分たちこそ最も神に近い存在だと自認してしました。その彼らこそ最も激しくイェシュアと衝突しています。なぜなら、人間的な価値観と神の価値観との相克が起こったからです。

(2) 「安息日」という語彙

  • マタイ12章では、「安息日」にイェシュアが移動(アーヴァル)しています。「安息日」(「シャバーット」שַׁבָּת)はパリサイ人たちが最も大切にし、厳格に守ろうとしてきた聖なる日です。本来、「安息日」の制定は神と人とが交わる日として設けられたものでした。それは神の国の完成(御国)を表わす語彙です。安息日の主である人の子であるイェシュアが、その安息日にどこで何を語り、何をするかによって、御国の本質が現わされているのです。マタイ12章では安息日に起こった二つの出来事を記しています。ちなみに、マタイの福音書では「安息日」という語彙が全部で10回出てきますが、そのうちなんと8回が12章1~12節に集中しています(1, 2, 5, 5, 8, 10, 11, 12節)。
  • イェシュアは御国の本質そのものです。したがってイェシュア(=御国)が通り過ぎることで、何かが引き起こされるのは当然のことなのです。とりわけ、安息日を守ることに熱心であったパリサイ人たちとイェシュアとの相克は、この「安息日問題」を境に、対立は激しさを増し、イェシュアを殺害する契機となっていきます。

(3) 「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)

  • 新改訳2017の10節は「すると見よ」と訳されています。ギリシア語では「カイ・イドゥー」(καὶ ἰδοu)ですが、これをヘブル語にすると「ヴェ・ヒンネー」(וְהִנְֵּה)となります。より正確に言うと「ヴェ・ヒンネー・シャーム」(「すると見よ、そこに」וְהִנֵּה־שָׁם)とあり、そこで終末的な出来事が啓示されることを予感させます。なぜなら、ヘブル語の「ヒンネー」(הִנֵּה)は、聞く者にあることを喚起させる重要な語彙です。旧約では「見よ。その日が来る。」といった表現で、終わりの日になされる神の出来事を啓示する言葉として用いられています。「ヒンネー」(הִנֵּה)が使われていると知るだけで、そこに起こって来る出来事を、御国の視点で見ることを喚起させられるのです。当教会の礼拝でしばしば歌われる「見よ、兄弟が共に住む、なんという楽しさ」(詩篇133:1)という歌は、実は終末的な祝福を預言する歌なのです。口語訳と新共同訳はなぜか、この御国を示唆するこの重要な「ヒンネー」を訳出していません。
  • このように、今回のテキストとなる12章9~10節には、移動を示す「アーヴァル」(עָבַר)、「安息日」の「シャバーット」(שַׁבָּת)、そして「見よ」の「ヒンネー」(הִנֵּה)という語彙によって、御国が示唆されているということです。その上で、今回のメッセージに入っていきたいと思います。

2. 片手の萎えた人とは

  • 「すると見よ、そこに」の「そこ」とはユダヤ人の「会堂」(συναγωγή)のことです。その会堂にイェシュアの敵対関係にあるパリサイ人たちと片手の萎えた人がいたのです。「片手の萎えた人」という言葉を聞いて、どのようなイメージを抱くでしょうか。脳梗塞や脳出血を起こした人のイメージでしょうか。片手が萎えたとあることから、もうひとつの手は健全に動かせると考えているでしょうか。仕事が手を使う人だとしたらどうでしょう。生活の糧を得ることができない気の毒な、可哀想な人と思うでしょうか。御国を宣べ伝えるイェシュアのストーリー(物語)において、「片手の萎えた人」がいたことは、偶然ではなく、必然的な意味があるのです。
  • ここで「片手」と訳されているのは、手(「ケイル」χείρ、「ヤード」יָד)が単数形だからです。しかし聖書で「神の御手」という場合の「御手」は双数形ではなく、単数形が使われます。ちなみに並行記事のルカ福音書では、「右手」となっています。神の「手」も「右手」で、「神の力、わざ、創造力、支配力」を表します。とすれば、「人の手」も同様に単数であっても、「手が萎えた」ならば、人に与えられている能力や働き、本来のさまざまな力が機能不全を起こしている「型」として考えることができます。
  • 「萎える」と訳されたギリシア語は「クセーロス」(ξηρός)という形容詞です。ヨハネの福音書5章3節では「からだに麻痺のある人たち」(新改訳2017)で使われています。ヘブル語では「干からびた、枯れた」を意味する「ヤーヴェーシュ」(יָבֵשׁ)の単数女性形の「イェヴェーシャー」(יְבֵשָׁה)が使われています。これはエゼキエル書37章2, 4節にある「枯れた(骨)、すっかり干からびた骨」(原文には「骨」ということばはありません)の幻に対する預言に使われています。ちなみに、そこにも「見よ」(הִנֵּה)があり、終末に起こる預言であることが分かります。エゼキエルは主から尋ねられました。「これらの骨は生き返ることができようか」と。この質問に対してエゼキエルは「あなただけがご存知です」と答えました。それは人間的な視点でいえば、それは絶対に考えられないことですという意味だったのです。同じことが「片手の萎えた人」にも言えるのです。
  • エゼキエル書37章の「枯れた骨」とは「イスラエルの全家」を指しているのです。「イスラエル全家」には北イスラエルの10部族と南ユダ部族の2部族が含まれています。エゼキエルが「枯れた骨」に息を吹きかけると、息が彼らの中に入ると彼らは生き返り、自分の足で立ち上がったという預言です。この預言の成就は「終わりの日」、つまりキリストの地上再臨の前に実現します。彼らは主の御手によって、民として回復されるのです。マタイの福音書9章でも学んだように、12年間長血で苦しんだも、12歳の会堂司のも、イスラエルを表わす「型」であったように、「片手の萎えた人」もイスラエルの全家を象徴するたとえと言えるのです。
  • イスラエルによって神は地上のすべての民族を祝福する計画でしたが、イスラエルの民はその神の計画を担うことのできない機能不全を起こしていたのです。この機能不全が枯れた骨のヴィジョンです。しかし神はその骨にいのちの息を吹きかけることによって、癒やし、回復させたのがメシア王国の直前です。メシア王国(御国)ではイスラエルの民は地のすべての部族の支配国となるのです。この神のご計画を示すたとえが、この「片手の萎えた人」を「安息日」に癒やすことでたとえられていると考えられます。

3. イェシュアを訴えるための質問

  • イェシュアが入られた会堂には「片手の萎えた人」がいたことから、パリサイ人たちはイェシュアを訴えるために、「安息日にいやすことは律法にかなっているでしょうか」と質問しています。イェシュアに対して、「訴える」ということばがここに初めて登場します。つまりパリサイ人たちはイェシュアを訴える証拠をつかむために質問をしたのです。どこに「訴える」のかといえば、当時の司法・行政の最高議会としてのサンヘドリンに対してです。サンヘドリンはイスラエルの民の長老制(民数記11:16)に従い、71人によって組織されていました。71人とはモーセの他に70人の長老たちが選ばれたからです。サンヘドリンの構成メンバーとして、貴族階級の祭司たちと、長老の律法学者たち、およびパリサイ人たち、そして大祭司を議長としていました。サンヘドリンは死刑を執行することはできなくとも、死刑を宣告する権限があったのです(マタイ26:3)。ですから、ローマ総督の承認(批准(ひじゅん))のもとにですが、確かな証拠があれば、イェシュアを罪ありとし、殺すことができたのです。
  • 「律法にかなっているか」と訳された語は「エイ・エクセスティン」(Εἰ ἔξεστιν)で、「~して良いかどうか、合法的かどうか」という意味です。12章にはこのフレーズが何と4回も使われています(2, 4, 10, 12節)。特に、パリサイ人の問題点は、「安息日」の真の意味よりも、安息日にいやしをすることは許されるのか、それとも許されないことなのか、合法的なのか、合法的ではないのか、それがパリサイ人たちのすべての判断基準だったということです(19:3、22:17)。人のことは全く度外視していたことは言うまでもありません。もしイェシュアが「然り」と言えば、その一言で、イェシュアが律法に公然と反した証拠を彼らは握ることになります。パリサイ人たちがふっかけた安息日問題に、イェシュアはどのように対処したでしょうか。

4. イェシュアの応答

  • 今回のテキスト(9~14節)は「キアスモス構文」になっています。「キアスモス」(Χιασμός)とはギリシア語でX形に交差した二本の線を意味しています。これはへブル的修辞法の一つで「交差配列法」とも言われます。「パラレリズム」と共に聖書の中で多く見られる修辞法です。イェシュアが語られたことばの中にもこの修辞法が多く見られますが、以下もそのひとつです。

(1) キアスモス構文

画像の説明

  • この構文に基づく聖書解釈の特長は中心点が何かを示すことにあります。これまでもイェシュアはパリサイ人たちの質問に対してたとえで答えられています(マタイ9:12、9:15~16)。ここでも中心句は「イェシュアがたとえで答えられた」にあります。したがって、このイェシュアの語られたたとえを理解することが重要なのです。

【新改訳2017】マタイの福音書12章11~12節
11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。
12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」

  • イェシュアは質問してきたパリサイ人たちに対して、逆に質問をしています。この種は当時のラビたちの間でよく行われていたことだったようです。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて」とありますが、これは多くの羊の中の一匹という意味ではなく、この一匹の羊がすべての財産という意味です。「その羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。」とイェシュアは質問しています。当時の口伝律法では、安息日に穴に落ちた羊を救い出すことは認められていたからです。しかし、他の口伝律法では生命の危険にさらされていない限り、病人を安息日にいやすことを禁じていたのです。とすれば、「片手の萎えた人」は生命が危険にさらされていないわけですから、安息日に癒やすことはタブーとなります。しかしイェシュアの質問は続きます。「人間は羊よりはるかに価値があります」と言って、「それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」と結論づけました。
  • イェシュアが人と動物とを比較し、人が動物に勝っていることを根拠に論理を展開している箇所が以下のように三つあります。

①【新改訳2017】マタイの福音書 6章26節
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
②【新改訳2017】マタイの福音書 10章31節
ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
③【新改訳2017】マタイの福音書12章12節
人間は羊よりはるかに価値があります。

  • イェシュアの論点は、人間は「鳥よりも」「雀よりも」「羊よりも」はるかに勝っている。「それなら(そうゆうわけで)、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」というのがイェシュアの答えでした。こうした論法は、ラビたちがよく用いた「カル・バホメル(קַל־וָחֹמֶר)論法」と言われるもので、「小から大への議論」、あるいは「大から小への議論」と呼ばれるユダヤ的論法と呼ばれます。ここでは「小(軽い)から大(重い)への議論」になっています。
  • 「安息日に良いことをするのは律法にかなっています」の「良いこと」とはギリシア語の「カロース」(καλῶς)で形容詞のgoodの意味ですが、ヘブル語では名詞の「トーヴァー」(טוֹבָה)が使われています。その初出箇所を見てみましょう。

【新改訳2017】創世記 50章20 節
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

  • これはヨセフが語ったことばです。「良いことのための計らい」とは、神のご計画にとって「良いこと」なのです。単なるヨセフ個人の事柄を超えた「良いこと」なのです。ヨセフが経験したことはあくまでもアブラハム、イサク、ヤコブへと受け継がれてきた神の約束がどのようにして実現されていくか、その視点から位置づけられた「良いこと」なのです。同じように、「安息日に良いことをするのは律法にかなっています」の「良いこと」とは、天の御国における神のご計画の完成の視点から見据えられた「良いこと」なのです。
  • 前回の説教で、「人の子は安息日の主です」という意味を取り上げましたが、その意味は、イェシュアこそ安息日を創造した方であり、イェシュアにとっては毎日が安息日だったからです。つまり安息日とはイェシュアにとっては実現したメシア王国そのものなのです。その王国において神の民となるべき者たちの存在は不可欠なのです。ですから、そこに「片手の萎えた人」(=全イスラエル)がいるなら、当然癒して、元どおりに回復させなければなりません。それが神のご計画であり、神のみこころだからです。ところが、パリサイ人たちは、安息日を神と人とのかかわりとして考えることよりも、人よりも法や規則を何よりも優先させる社会を構築し、神のご計画とみこころとは正反対の歩みの中に生きていたのです。これはまさにヨセフの兄弟たちがした「悪」と似ています。しかし神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。その良いことの中に私たち異邦人の救いも含まれていたのです。

5. 「手を伸ばす」ということの預言的意味

  • パリサイ人たちの問いに答えて、「安息日に良いことをするのは律法にかなっています」としたイェシュアは、片手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と命じました。この命令は「アオリストの命令形」で、自らの意思をもって、「手を伸ばしなさい」という意味になります。彼がそのようにすると手は癒され、もう一方の手のように元どおりに回復したのです。「もう一方の手のように」とあるのは強調表現です。それはイスラエルに与えられた本来の役割と力と地位を取り戻すことを意味していました。
  • さらに、「手を伸ばす」(「エクテイノー」ἐκτείνω)という語彙について、ヘブル語では「パーシャト」(פָּשַׁט)という語が使われ、「突撃する、襲撃する」という意味です。名尾耕作の「ヘブル語大辞典」には「手を伸ばす」という意味を見つけられませんでしたが、現代ヘブライ語辞典では「手を伸ばす」という意味が確かに記されていました。「全く動かなかった手が、突然にして伸びる」というイメージです。「すぐに」とか、「突然」という語彙がなくても、「パーシャト」(פָּשַׁט)という語彙の中にそれが含まれています。どんなにしても動かなかった手が、回復させられるときには突如として元の状態に回復するのです。「片手の萎えた人」の癒しは、イスラエルの全家がそのようにして回復させられるという預言的な型だったと言えます。

6. パリサイ人たちの反応

  • パリサイ人たちはどうだったでしょうか。イェシュアが「片手の萎えた人」の癒しを通して御国のすばらしさを現わしたにもかかわらず、彼らにとっては、イェシュアが安息日を破ったということしか眼中にありませんでした。これでイェシュアを訴える口実を見つけた、「してやったり」とほくそ笑んだに違いありません。そして、「パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた」のです。パリサイ人たちはそれほど仲の良くなかった祭司たちやヘロデ党の人々のところに行って、相談しています。その行きつくところは「十字架の死」でした。これは詩篇2篇が伝えている通りです。

【新改訳2017】詩篇2篇1~3節
1 なぜ国々は騒ぎ立ちもろもろの国民は空しいことを企むのか。
2 なぜ地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか【主】と主に油注がれた者に対して。
3 「さあ彼らのかせを打ち砕き彼らの綱を解き捨てよう。」

  • 「地の現実」はたとえ上記のようであったとしても、「天の現実」は以下のとおりです。

【新改訳2017】詩篇2篇4~5節
4 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。
5 そのとき主は怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って彼らを恐れおののかせる。

  • パリサイ人たちがどんなにイェシュアを殺そうして悪を謀ったとしても、やがては神の安息である御国が実現するときは、神の御子メシアによってすべて良きことがなされるのです。メシアであるイェシュアがもし殺されなかったとしたらどうでしょう。イェシュアはメシアではなかったということになるのです。神に対する悪さえも、神は良いことのための計らいとされる方であることを覚えたいと思います。

2019.2.10


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