****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「座す」ことから「立つ」ことへ

18. 「座す」ことから、「立つ」ことへ

はじめに 三つの動作の順序と循環

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  • 私たちの身体の動きを考えるとき、「座る」「立つ」「歩く」は極めて自然につながっています。この動作の連動こそ、私たちの神に対して取る姿勢なのだということを考えてみたいと思います。これは私たちの生活において自然な行為であり、ほとんど無意識に行なっているものです。座っているところから立ち上がり、そして歩く。やがては疲れますから、どこかで腰を降ろして休みます。そして再び立ち上がって、歩き出すのです。この一連の行為が私たちの自然な生活のリズムなのです。決して特別なことではなく日常的な当たり前のことなのです。
  • ところが、霊的な生活になると必ずしもこれが自然ではなくなります。霊的な意味での「座す」とはどういうことか、「立つ」とはどういうことか、そして「歩く」とはどういうことかをかなり意識しなければならないのです。このことを意識するかしないかで、クリスチャン生活はかなり異なってくると思います。クリスチャンになってから座すこと、そしてそこから立ち上がることを十分に訓練されることなく、いきなり「歩く」ことを実践しようとするならば、いつかは破綻を来たします。「座す」ことはすべての土台づくりです。ここがしっかりしないと自分の意志で「立ち上がる」ことも、そして神の力と知恵によって「歩く」こともできないのです。それゆえ三つの動作の順序と循環を正しく理解する必要があります。

1. 「座す」こと

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  • 「座す」ということを身につけるために、これまでのセミナーでもかなり力を入れて語ってきました。静まりを大切にして多くの時間を神とともに過ごすこと、聖書を通して神ご自身を知り、そのみこころを知ること。これらをまず第一のこととして身につけるためには、教会ができるだけイベント中心によって振り回さないように心がけるべきことを提唱してきたつもりです。
  • 「座す」(ヘブル語では「ヤーシャヴ」)という大きなキーワードには、それに付随するいくつかのキーワードがあります。右の図にあるように「住む」「知る」「休息する」「静まる」「信頼する」「瞑想する」「主にとどまる」は「座す」を支えている大切なキーワードです。しかもそれぞれのキーワードは、それ自体が深い意味を秘めています。
  • これらをしっかりと身につけるのは決して易しいことではありません。教会をあげて共同体として取り組まなければ、身につけるのはとても難しいことなのです。「座す」という基本的な姿勢を自分のものとして身につけるだけでも数年かかります。そしてそれが深められるためにはより長い期間を必要とします。「座す」ことは神に対する何よりも優先されるべき大切な姿勢です。しかし重要なことは「座す」ことが目的ではなく、やがてそこから「立ち上がる」ことなのです。

2. 「立つ」(立ち上がる)こと

  • 「座す」ことは常に優先的事柄ですが、それ自体が目的ではありません。「座す」のはそこから「立ち上がる」ためです。このことをこれから私たちは十分に意識していく必要があります。「霊性の回復セミナー」の目的は「座す」ことに終始するのではなく、そこから霊的なパイオニア精神を神から与えられて「立ち上がり」、神の示される新たな道を一人ひとりがそれぞれ「歩み始める」ことにあります。
  • 私たちが「立つ、あるいは、立ち上がる」ことができるのは「座す」という中で神の恵みを知るからです。自分に何が与えられているか、主にある自分の立場がなんであるかを知る中で、神の語られるみことばによって励まされて、立ち上がることができるというわけです。いわば、元気が与えられるのです。
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  • エペソ人の手紙6章11節に「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。」とあります。13節にも「堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」とあります。そして14節では「では、しっかりと立ちなさい」と三度も「立つ」ことについて勧められていますが、それができるためには、私たちに与えられている神の武具のすべてを知らなければなりません。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の大盾、救いのかぶと、祈り、みことばといった神の武具について知るのは、「座す」ことによってです。このように、「座す」ことと「堅く立つ」こととは密接な関連をもっているのです。「座す」べきその土台とは、エペソ書では1~3章までに書かれていることを私たちが十分に知ることです。1~3章は「教理」とも言われる部分ですが、キリスト者生活の土台の部分であり、換言するならば「神学」なのです。

3.  使徒パウロの回心に見る「立つ」という経験

  • ここで実際に「立つ」、あるいは「立ち上がる」ということがどのような経験であるかを使徒パウロの回心と召命から検証してみたいと思います。テキストは使徒の働き9章、22章、26章です。キリストのしもべとなったパウロが何度も繰り返し語った出来事であり、また常に、彼の立ち返るべき原点でした。特に、イエスとパウロ(まだそのときは「サウロ」という名前でした)の会話に注目してみましょう。
  • これらのパウロの回心の記事には彼の「立ち上がり」についての語彙が多く出てきます。私はこれまでこの部分について強い関心を持ったことはありませんでした(ギリシャ語で調べるまでは)。しかし今は違います。「地に倒れた」パウロに語るイエスのことばとパウロの行動の中にある「立ち上がる」「起き上がる」ということばは全部で9回使われています。微妙に原語が異なっているのですが、すべて「復活」を表わす用語です。復活は死んでからの事柄だけでなく、すでにキリストにあって私たちのうちに今も働いています。キリストの復活のいのちが私たちを立ち上がらせるのです。パウロがルステラで石打ちにあっても「立ち上がる」ことができたのは、彼のうちにそのいのちがあったからです(使徒14章19~20節)。

【新改訳改訂第3版】
A. 9章
3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 立ち上がって(アニステーミ)、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
8 サウロは地面から立ち上がった(エゲイロー)が、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「・・・・・・・」  
18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって(アニステーミ)、バプテスマを受け、19 食事をして元気づいた。


B. 22章

6 ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。
7 私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞きました。
8 そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』と言われました。
9 私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。
10 私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて(アニステーミ)、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。
11 ところが、その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、いっしょにいた者たちに手を引かれてダマスコに入りました。
12 すると、律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が、
13 私のところに来て、そばに立ち(エフィステーミ)、『兄弟サウロ。見えるようになりなさい』と言いました。すると、そのとき、私はその人が見えるようになりました。
・・・
16 さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい(アニステーミ)。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』


C. 26章
14 ・・みな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』 
15 私が『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16 起き上がって(アニステーミ)、自分の足で立ちなさい(ヒステーミ)。

  • これらのパウロの回心の記事には彼の「立ち上がり」についての語彙が多く出てきます。私はこれまでこの部分について強い関心を持ったことはありませんでした。ギリシャ語で調べるまでは。しかし今は違います。「地に倒れた」パウロに語るイエスのことばとパウロの行動の中にある「立ち上がる」「起き上がる」ということばは全部で9回使われていますが、微妙に原語が異なっているのですが、すべて「復活用語」なのです。

復活用語

(1) パウロの回心時にみられる三つの復活用語

「アニステーミ」という動詞が6回使われています(9:6,11,18/22:10, 16/26:16)。これは横になっているものを立たせるという意味で、横になっている棒を縦に立てることも「アニステーミ」です。 福音書におけるイエスのミニストリーをよく見ると実に多くの「アニステーミ・ミニストリー」をやっているのです。たとえば、

a. 会堂管理者ヤイロという人の一人娘が死んだとき、イエスはその家の子どものいる部屋に行って、子どもの手を取り、「タリタ・クミ」(訳して言えば「少女よ、起きなさい」という意味)と言うと、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めたのです(マルコ5:42)。まわりが驚いたのはいうまでもありません。

b. ペテロの姑がひどい熱で苦しんでいることを聞いたイエスは、彼女の枕もとで熱をしかりつけました。すると、熱はすぐに引いて、 彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めたのです(ルカ4:38~39)。

c. 中風の者に対しては、イエスが「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われたとき、彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰ったのです(ルカ5:24~25)。

使徒26:16の「(自分の足で)立つ」は「ヒステーミ」という動詞です。特に。ギリシャ語でアオリスト時制の命令形が用いられる場合には、すべて、自ら、自発的、主体的な意味合いをもちます。したがって、ここでの「立つ
ちなさい」は、しっかりと立つ、堅く立つ、決意をもって立つ、ということを意味しています。                                                   

9:8の「立ち上がる」は「エゲイロー」という動詞で、これは多くの場合、死んだ者がよみがえることに使われます。イエスがしばしば「わたしは死んだ後によみがえります」と預言しましたが、その「よみがえる」ということばが「エゲイロー」です。ところで、9:8のサウロは地面から「立ち上がった」というところがなぜ「アオリスト受動態」なのかという問題です。これが不可解です。本来、自分で起き上がるならば能動態で、人によって起こされるならば受動態と考えます。調べてみると、このなぞは「エゲイロー」έγείρωという動詞そのものがもっている性格のようです。この動詞は通常は他動詞として「~を起こす、(死から)生き返らす」という意味で使われますが、ここではアオリスト受動態で自動詞として「立ち上がった」という意味になるようです。

(2) パウロの暗黒の三日間の意義

  • パウロの回心の暗黒の三日間はものすごく質の濃い三日間でした。私たちの数十年分の内容かもしれません。これはパウロがクリスチャンになってはじめて「座す」ことを経験した出来事です。目が見えなくなることで、また食事を摂らないことで、彼はこの三日間、ひとりの時を過ごしました。おそらくこれまでのことが走馬灯のように頭をよぎり、何が起こったのかを自分で整理するまでには時間が必要でした。
  • 三日後にアナニヤが遣わされて祈った時、彼の目からうろこのようなものが落ちて、目が開かれて「立ち上がった」のです。パウロの霊的なよみがえりは、すでに9:8の「地面から立ち上がった」時に起こっていました。しかし自分の身に起こったことを整理して、イエスがキリストであることを論証できるまでの霊的開眼には三日間が必要だったのです。この霊的開眼による論証はダマスコのユダヤ人たちを「うろたえさせた」とあります(9:22)。しかし彼はこの後3年ほど人里離れたアラビアに赴きます。そしてすべてのことを思いめぐらし、啓示された神の救いの計画を神学化していったのです。彼が真に自分に与えられた召命(異邦人伝道)を遂行していくまでには、さらに13年という時が必要でした。
    画像の説明
  • 神は決して急ぎませんが、「急がば回れ」ということわざがあるように、じっくりと「座す」ことは、結果的に「立ち上がり」と「歩み」を実りある豊かなものにしていくと信じます。      

2012.2.10


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