****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「強くあれ、雄々しくあれ」

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20. 「強くあれ、雄々しくあれ」

聖書箇所 31:1~30

はじめに

  • 申命記31章には、モーセからヨシュアへの指導者の継承が記されています。新しい指導者として立てられるヨシュアは、そのために早くから後継者となるべく定められて、それなりの個人的な訓練を受けてきましたが、今や、彼はイスラエルの公衆の面前で、公的承認を受ける必要がありました。その中で強調されたメッセージは「強くあれ、雄々しくあれ」でした。これはイスラエルの民に対しても同様のメッセージでした。

1. 「強くあれ、雄々しくあれ」のフレーズ

  • 申命記31章には3回、続くヨシュア記1章では4回このフレーズが出てきます。まず、申命記31章では、主ご自身がモーセを通してイスラエルの民に対して語られたのが31:6。モーセからヨシュアに対して語られたのが31:7。主がヨシュアに対して語られたのが31:23です。ちなみに、ヨシュア記1章の場合では、主がヨシュアに語られたのが1:6, 7, 9。民がヨシュアに対して語ったのが1:18です。
  • この「強くあれ、雄々しくあれ」のフレーズを、消極的に表現したものが「恐れてはならない。おののいてはならない。」です。同義的並行法で使われている箇所は、申命記31:7とヨシュア記1:9です。
  • 「強くあれ、雄々しくあれ」は、イスラエルの民に対して語った複数形の言い方とヨシュア自身に対して語った単数形があります。
    (1) 複数形は「ヒズクー・ヴェ・イメツー」(חִזְקוּ וְאִמְצוּ)。
    (2) 単数形は「ハーザク・ヴェ・エマーツ」(חֲזַק וְאֱמָץ)
  • 「強くあれ」は「強くする、勇気をもつ、しつかりする、励ます、力づける」ことを意味する「ハーザク」(חָזַק)の命令形です。「雄々しくあれ」は「奮い立つ、励ます」を意味する「アーマツ」(אָמַץ)の命令形です。
  • このフレーズはすでに申命記3章28節で登場しています。神がモーセに対して語られたことばの中で、「ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」と命じられます。ここの「力づけ、励ませ」ということばが、「ハーザク」(חָזַק)と「アーマツ」(אָמַץ)なのです。

2. この命令のフレーズが意味すること

  • 何度も繰り返される「強くあれ、雄々しくあれ」の命令のフレーズ。この命令のフレーズには二つの約束が付随しています。一つは、「あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれる」(31:6)こと。8節ではこれに「あなたの先に進まれる」と付け加えられます。そしてもう一つは、「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(31:8)という約束です。こんな確かな励ましはありません。しかし、なぜ、何度も繰り返される必要があったのでしょうか。
  • ヨシュアはイスラエルの民を率いるモーセの苦労を傍で知っていたと思います。自分もカナン偵察で見たものは、自分たちよりも強いアナク人でした。しかし彼はカレブと同様、主が与えると約束した地だから、必ず、その地を取ることができるという報告をしたとき、反対する者たちから殺されそうになった経験がありました。民の不信仰が40年もの間、荒野をさまよわせ、また彼らのかたくなささがモーセを約束の地に入れない要因を作ってしまったこと。そうしたすべてを知っているヨシュアが、自分が彼らを引き連れてヨルダン川を渡り、約束の地を継がせる役目を神から与えられたと知った時、その役目がどんなものであるかを知っているがゆえに、恐れたに違いありません。
  • ヨシュアに対して、繰り返し「強くあれ、雄々しくあれ」と語られたのは、彼が自分の弱さを十分に感じていたからではないかと思います。また、それゆえに彼が立てられたとも言えます。これは聖書の原則です。神に用いられる原則の一つは、「弱くなければならない」ということです。その重荷を負うことは自分にはできないと認識できる者でなければ、神はその者を用いることができないということです。この世においては、最も有能な者が、最も強い者が生き残ると教えられます。しかし神の世界では「強い者」ではなく、「弱い者」が用いられるのです。なぜなら、神は弱い者に力を与え、勢いのない者に強さを与えられる方だからです。神は私たちの弱さのうちにご自身の力を現わされます。有る者をない者のようにするため、あえて無に等しい者を用いられるのです。なぜなら、そこに神の「聖」が現わされるためです。
  • モーセも自分の知識や若さや行動力を信じて同胞を救おうとした時には、神に用いられることはありませんでした。モーセがミデアンの地で羊を飼うだけの仕事をしていたとき、彼はホレブの山で神に召されました。そのときモーセは、当時の最高の権威の力をもったパロのもとに遣わされることにひるみました。恐れました。そして「私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」(出4:10)と、この任にとてもふさわしくないと彼は考えたのです。しかし主の答えはこうでした。「さあ、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」と、それでもモーセは「どうかほかの人を遣わしてください。」とくいさがりましたが、主の怒りは燃え上がり、その結果として、モーセに代わるスポークスマンとしてモーセの兄アロンを与えました。それほどにモーセは40年の間に謙遜にさせられていたのです。
  • もしモーセが40歳の時のままであったとしたら、神はモーセを召すことはなかったかもしれません。それはモーセの従者ヨシュアについても言えます。ヨシュアが自信満々で恐れを知らず、チャレンジ精神に満ち溢れていたとすれば、モーセの後継者として選ばれることはなかったはずです。
  • 約束の地における戦いは武器という武器を持たずに戦う戦いです。神だけを信頼して戦う不思議な戦いです。相手は強力な殺傷力のある戦車という武器で向かってきます。常識で考えるなら、太刀打ちできるような戦いではありません。しかし、神がその戦いの勝利を約束しておられるのです。どのようにして勝利されるのか、戦ってみてはじめて分かるという戦いなのです。そんなリスクを背負った戦いをしなければならない指導者として、ヨシュアが立てられようとしているのです。「強くあれ、雄々しくあれ」という励ましが何度も何度も繰り返して語られなければ、彼は立つことはできなかったと言えます。
  • 今日における教会の戦いも同様です。私たちの多くは、神に用いられるにはあまりにも強いのです、つまり自分自身の計画や考え、自分の方法で満ちているのです。神はそうしたものを空にした後でなければ、神の戦いを戦う器としては用いることができないのです。これが聖書の原則です。

3. 詩篇119篇とのかかわり

  • 詩篇119篇の作者は、神の道、真実の道、神の戒めの道を選び取ろうとしています。
    「私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私は目を留めます。」(119:15)
    「あなたの戒めの道を私に悟らせてください、。」(119:27)
    「私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。」(119:30)
    「私にもあなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。」(119:35)
  • イスラエルの失敗の歴史は、イスラエルが「他の国と同じように」なろうとして自ら強くなろうとして軍事力を増強し、繁栄を求めて他国と同盟関係を結ぶことにより、神の「聖」を捨てた結果としてもたらされたものでした。神の民の世俗化がもたらしたもの、それがバビロン捕囚という辱しめでした。しかし同時にそれは、神の民の回復(あるいは再建)のための、二世・三世代にも及ぶ長期の神の取り扱いでした。そうした神の取り扱いの中で、詩篇119篇の作者は、神の「聖」を捨てたことを悔い改め、今や神の道に再び歩もうとしています。たとえそれが非常識であり、またリスクの多い苦難の道であったとしても、心を尽くして、真剣に歩もうとしています。
  • 今日のキリスト教会において、神の「聖」を回復する信仰の戦いをすることは決して容易なことではありません。だれでもこの戦いに「恐れ、おののいて」、ひるむに違いありません。しかし、「強くあれ、雄々しくあれ」との命令は「今日的励まし」です。神の「聖」を回復する戦いのために、今も新たに、主にある者たちに語られ、問われ続けているのです。


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