****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「恐れてはならない」

文字サイズ:

12. 「恐れてはならない」

聖書箇所 19:1~20:20

はじめに

  • 申命記19章は、過失致死に対する人権保護としての逃れの町、故意の殺人に対する対処、偽証に対する防御、悪の抑止力としての「目には目を、歯には歯を」の法・・等について触れられていますが、ここでは20:1~9にある「主の戦い」における勧告、とりわけ、「恐れてはならならい」という神の呼びかけのフレーズについて味わってみたいと思います。

1. 「恐れてはならない」という主の呼びかけ

  • 20章1~9節には、1節と3節に主の戦いに臨む場合、敵を「恐れてはならない」とモーセは語っています。この「恐れてはならない」というフレーズはイザヤ書の特愛用語で15回あります。モーセ五書の中では申命記が最も多く11回(1:17, 21, 29/3:2, 22/7:18/18:22/20:1, 3/31:6, 8/ の11回)出てきます。実際、約束の地で戦ったヨシュア記では5回だけ。出エジプト記では紅海を前にして語られた1回のみです。しかしこの一回的な出来事が、イスラエルの歴史において、繰り返し、語り継がれた「神のストーリー」でした。この「神のストーリー」が語られることで、神の民は信仰を強められたのです。したがって、「神のストーリー」を語ることはきわめて重要なのです。
  • 申命記において「恐れてはならない」という呼びかけが多く出て来る背景には、第二世代の神の民はすでにシオン王国とバシャン王国との戦い、勝利を経験していますが、約束の地においてはより強力な敵(馬と戦車を持つ軍隊)との戦いを数多くすることを余儀なくされます。その戦いに臨んで、神は民に何度も繰り返して「恐れてはならない」と語りかけると同時に、その土台となる確かな神のストーリーをも語っているのです。
  • 主の戦いに関連する箇所として申命記7:1と20:1~4をここに引用します。 (新改訳改訂第3版)

(1) 申 7章18節
彼らを恐れてはならない。あなたの神、【主】がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。

(2) 申 20章1 ~4節
あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、【主】が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、【主】である。」

  • エジプトを脱出した神の民の第一世代が約束の地を偵察して返って来たとき、彼らは敵が自分たちよりも大きくて背が高く、しかも町の城壁は高く天にそびえており、しかもアナク人を見たことで民の心をくじきました。そこでモーセは彼らに、「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、【主】が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。」(1:29, 30)と言ったにもかかわらず、民は信じることをせず、40年の荒野の放浪を余儀なくされて、ヨシュアとカレブを除いて第一世代はみな死に絶えました。
  • 神を信じるということは、まさに人間的な目から見るなら、不安定な所に立つことが求められます。信仰によってしか安定の保障がないというリスクを抱えるのです。人間はそのようなリスクを負うよりも、目に確かな安定を求めようとします。ですから、敵が自分たちよりも強く見えるとき「恐れてしまう」のです。しかし神は「恐れてはならない。」と語ります。その神のことばを信頼することが神の民が「聖」となることだったのです。

2. 神のストーリーを新鮮に語り告げることの大切さ

  • 人間は、生存の保障、防衛の保障という最も基本的なニーズの確かさを求めるものです。そのニーズが満たされるものを優先して選ぼうとします。ニーズが神によって与えられるという信仰の道を歩むか、それともそのニーズを満たしてくれるように思える(見える)偶像礼拝の道を選ぶか、神の民はその歴史を通して絶えず問われていきます。これが信仰の戦いです。この戦いは今日に生きるキリスト者も免れることはできません。私たちはいったい誰を信頼すべきかいつも問われているのです。神のストーリーを語ることをしないならば、私たちの心は目に見えるものによって支配されてしまう弱さをもっているのです。それゆえ絶えず、神のストーリーを、礼拝を通して、賛美を通して、自分自身に、人に、語り告げなければなりません。申命記における「恐れてはならない」という勧めを支えているのは歴史の中で起こった神のストーリーです。しかも、このフレーズは、祭司たちが進み出て民に告げるようにと呼びかけられています。
  • 新約に生きる神の民も、旧約の時代に生きた神の民も同じく神の民であり、同じ神を信じている者たちです。歴史の中で神がなされたスト―リーの中心は旧約では出エジプトの出来事です。新約ではイエス・キリストの十字架と復活です。しかもその両者のストーリーは、「主の晩餐(聖餐)」の中に凝縮されています。現代の祭司、つまり教役者たちは「主の晩餐」をあらゆる角度から掘り起こし、その意味の深さを追い求め、それを正しく理解し、それについて思いを深める必要があります。それを単なるひとつの儀式としてしまってなりません。それを、常に、新鮮に語られる工夫が求められています。なんとなくわかっているつもりではなく、常に新たな感動が呼び起こされるようにすること、それが「神のストーリーを語り告げる」という意味だと信じます。


a:4117 t:4 y:4

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional