「悔い改めて、生きよ」
エゼキエル書の目次
18. 「悔い改めて、生きよ」(1)
【聖書箇所】 18章1節~32節
ベレーシート
- エゼキエル書18章には重要な二つの事柄が語られています。ひとつは、罪の責任はそれぞれ個人にあること。もうひとつは、そのひとりひとりに「悔い改めて生きよ」との主の招きです。この二つは別個の事柄ではなく密接に関連しています。
1. 罪の責任はそれぞれの個人が負うこと
- 「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」ということわざが、これからは語られなくなると主が誓って言われました(18:3)。十戒の中に、「わたしを憎む者には(「憎む」とは神を第一に「愛さないこと」を意味します)、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」とあるように、罪を犯した責任は四代までの世代に及ぶということが記されています。ちなみに、その反対には、「主を愛してその命令を守ることは、恵みが千代にまで施される」という途方もない約束があります。
- エゼキエルの時代においては、父の咎に対する責任がその子孫に引き継がれることなく、あくまでも自分がそれぞれ犯した罪の責任を負うことになると語られています。つまり、自分の父の咎のために死ぬようなことはないという福音です。その目的の主眼とするところは、主にある者たちのひとりひとりが主に立ち返って生きることにあります。
2. 18章に見られる罪に関する三つの語彙とその訳語
- 旧約には罪に関する主要な語彙が三つあります。「ペシャ」(פֶּשַׁע)、「アーヴォーン」(עָוֹן)、そして「ハッター」(חַטָּא)、あるいは「ハッタート」(חַטָּאת)です。前者が男性名詞で後者が女性名詞です。エゼキエル書18章ではなんとこれらすべての語彙が登場しています。
(1) 「ペシャ」פָּשַׁע
18章には、名詞の「ペシャ」(פֶּשַׁע)が3回(22, 30, 31節)。ちなみに、動詞の「パーシャ」(פָּשַׁע)が1回(31節)使われています。名詞の「ペシャ」の訳語は、新改訳では「そむきの罪」、口語訳では「とが」、新共同訳、岩波訳では「背き」と訳されています。動詞の「パーシャ」(פָּשַׁע)は本来「逆らう、背く」という意味ですが、新改訳、新共同訳では「犯した」と訳し、名詞の「ペシャ」と組み合わせて、「犯した背きの罪」としています。
聖書の中で名詞の「ペシャ」が最初に登場するのは、創世記31章36節です。そこではヤコブがラバンに口答えして言ったことばの中にあります。動詞の「パーシャー」はⅠ列王記8章5節のソロモンの献堂式の祈りの中で使われています。旧約全体の使用頻度は93回。
(2) 「アーヴォーン」עָוֹן
名詞の「アーヴォーン」は、18章では6回(17, 18, 19, 20, 20, 30節)で、動詞はありません。新改訳と岩波訳が「咎」、口語訳が「悪」、新共同訳が「罪」と訳しています。
「アーヴォーン」が最初に登場するのは創世記4章13節で、カインが主に「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」と言っています。「アーヴォーン」の旧約全体の使用頻度は232回です。
(3) 「ハッター」(חַטָּא)「ハッタート」(חַטָּאת)
18章には女性名詞の「ハッタート」が3回(14, 21, 24節)使われています。新改訳、口語訳・岩波訳は「罪」、新共同訳は「過ち」と訳しています。エゼキエルでは24回この語彙を使っています。
「ハッタート」が最初に登場するのは、創世記4章7節で、主がカインに語られたことばー「罪は戸口で待ち伏せして・・いる。あなたはそれを治めるべきである」で使われています。この「ハッタート」は旧約全体で293回使われています。
神に対するこれら(上記の)三つの態度に対して、主はひとりひとりに対してその責任を問うと語っています。
3. 「悔い改めて、生きよ」との主の招き
- 主なる神は、自分の犯したすべての罪から人が悔い改めて生きることを喜ばれる方です。18章21節以降には「シューヴ」というヘブル語動詞の命令形が繰り返して出てきます(21, 22, 28, 30, 32節)。特に、30節には14章にも見られた「シューヴ、ヴェハーシーヴ」という定型句があります。
- 18章31節にはこう記されています。
【新改訳2017】
あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
【新改訳改訂第3版】
あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
【口語訳】
あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
【新共同訳】
お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
- 31節には、個人の内面を新しくするための、回復するための「悔い改め」の消極的な面と積極的な面を表わす二つの動詞があります。いずれも命令形で使われています。
(1) 消極的な面ー「シャーラフ」(שָׁלַךְ)のヒフィール態
新改訳では「放り出す」、口語訳は「捨て去る」、新共同訳では「投げ捨てる」、岩波訳では「投げ棄て」と訳されています。主に立ち返る行為の一つとして、自分が犯したすべての背きの罪を捨て去る必要があります。
(2) 積極的な面ー「アーサー」(עָשָׂה)
新改訳・口語訳いずれも「得よ」、新共同訳・岩波訳いずれも「造り出せ」と訳しています。主に立ち帰って生きるためには、「新しい心と新しい霊」が不可欠です。したがってそれを「得る」必要があります。しかし、それは自分で得ることも、造り出すこともできません。ここに主なる神の絶対的恩寵の恵みが必要なのです。「アーサー」の本来的な意味からすると「造り出す」ですが、これは神の力によってのみ実現されます。私たちにできることは、ただ主の方にしっかりと顔を向けることです。真の悔い改めの消極的な面も、積極的な面もすべては神の恵みによって実現されるのです。
エゼキエル書18章32節の「悔い改めて、生きよ」という主の呼びかけは、御子イエスの「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)につながって行きます。
2013.5.31
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