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「柔和さ」をもたらす鳩

1. 「柔和さ」をもたらす【鳩】

dove

聖書箇所; マルコ1章9~11節

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」


はじめに

  • 聖書ではじめて「鳩」が登場するのは創世記8章です。そこではノアが「烏」の後に「鳩」を放ります。鳩は、最初は留まるところがなくてノアの方舟のところに戻って来ますが、七日後にはオリーブの葉をくちばしにくわえて戻って来ます。鳩はこのように100パーセントの確率で帰ってくる帰還性のある鳥なのです。鳩はまったく知らない地からでも自分の生まれた土地に帰還できる驚くべき能力を持っていると言われます。
画像の説明
  • 右の「たばこ」のデザインは、ノアの時代、洪水の出来事の後に箱舟から鳩を放ったとき、鳩がオリーブの葉を加えて帰ってきたことを表しています。聖書ではじめて鳩が登場した話です。Peace と書かれていますが、この煙草は第二次世界大戦が終わった後に発売されたもので、鳩が平和(ピース)のシンボルとして用いられていますが、ノアの時代の鳩のくわえたオリーブの葉は、平和というよりも、新しい時代が来たことを告げ知らせる希望を象徴するものと言えます。しかし鳩のイメージは結局は「平和」へと結びついていきます。

1. 天が裂けて御霊が鳩のように

  • さて、最初に取り上げる聖霊の象徴は「鳩」です。聖書の箇所はマルコ1:9~11です。この箇所は、イエスが30歳になられて、本格的に公生涯へと入られる直前の箇所です。そのころバプテスマのヨハネが人々に洗礼を授けていましたが、イエスも洗礼を受けられました。バプテスマのヨハネが施していた洗礼は悔い改めの洗礼で、人々を神に心を向かせるためのものでした。私たちも洗礼を受ける場合には、悔い改めてイエスと一つになるためのものですが、イエスの場合のそれは、悔い改めの洗礼ではなく、私たち人間と一つになるための洗礼でした。ですから、同じ洗礼でも意味が異なっています。
  • さて、イエスが洗礼を受けられたときに「天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。」とあります。天が裂けて、そこから御霊が鳩のようにイエスの上に下られたのです。「鳩のように」というのが微妙です。実際の「鳩」ではなく、「鳩のように」とあります。御霊は霊(プニューマ)ですから、本来は肉眼では見えないのですが、このときは「鳩のように下られるのをイエスはご覧になった」のです。
  • 事実、聖霊はイエスの生涯のスタート、つまりマリヤの受胎から深くかかわっておられます。またここでのイエスの洗礼直後の聖霊が下ったのは、イエスが公にご自分の働きを開始されるためでした。聖霊が鳩のようにイエスの上に下られたというのは、「鳩」のイメージが聖霊という方のご性格とその働きをよく表わしているからです。それは、一言で言うならば「柔和さ」というイメージですが、それは後に取り上げたいと思います。

2. 聖書における「鳩」のさまざまなイメージ

鳩のイメージ

(1) 素直、純真さのイメージ

「鳩」は、英語で「ダヴ」dove. ヘブル語では「ヨーナー」יוֹנָה(yonah)、ギリシャ語では「ペリステラ」περιστεράと言います。新約聖書では福音書にのみ出てくる語彙です(10回)。

たとえば、イエスは宣教に遣わす弟子たちに「へびのようにさとく、鳩のように素直になりなさい」と言われました(マタイ10:16)。「鳩」は素直な生き物なのです。「素直」と訳された原語は「アケライオス」άκεραιος(3/NT)で混じりけのない、純真、素直という意味です。バルバロ訳は「無邪気」と訳しています。


(2) 美しさ、愛らしさのイメージ

雅歌の「鳩」は「愛すべき存在」としての「鳩」で、美しさ、愛らしさのイメージがあります。たとえば、
1:15 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。
2:14 岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。
あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。

鳩の目はある方向しか見えないのだそうです。ですから人が寄っていってもなかなか逃げないのは見えていない、一つのところしか見えないからだと言います。また、鳩はひとたびつがいになると死ぬまで添い遂げると言われています。聖書の雅歌に出てくる「私の鳩」もそうした一途なイメージがします。よく見ると、鳩の目は、他の鳥と違って怖く有りません。とても優しい目をしています。
まただれであっても人を恐れません。鳩は人によくなつくことが知られています。慣れてくると人間の手からでも物怖じせずにエサをもらうようになります。


(3) 慰めのイメージ

詩篇には「鳩の翼」(詩篇55:6、詩篇68:13)という表現があります。そのイメージは、困難な状況から助け出してくれる慰めのイメージです。
「ああ、私に鳩のような翼があったなら、そうしたら、飛び去って、休むものを」(Ps55:6)


(4) 神に対しての近づきやすさのイメージ

イメージではなく、実際に、貧しい者たちのためのささげもの(犠牲)として、鳩がささげられました。ヨーロッパでは「鳩」は、鳥類の羊と呼ばれています。牛や羊に代わるいけにえとしての鳩です。

「鳩」は、鳥類の中では唯一神への犠牲としてささげることが許されていました。神への犠牲としての「鳩」は、特に、牛や羊を買えない貧しい人のためのささげものでした(ルカ2:24/Lev;12:8)。それゆえ、イエスの時代の神殿での境内には、牛や羊とともに鳩を売る者たちがいたことが記されています(ヨハネ2:14, 16。マタイ21:12)。どんなに貧しくても、神に近づく手段として「鳩」が犠牲として許されていたわけで、そこには神への近づきやすさのイメージがあると言えます。

ちなみに、イエスの両親は、幼子イエスを神にささげるために、家鳩、山鳩をもって神殿に行きました。彼らはとても貧しかったのです。イエスが育った家は裕福な家ではなく、とても貧しかったのです。このことはなんとなく親近感を覚えます。貧しいながらも、そのことで卑屈になることなく、神に親しく近づけさせる「鳩」の存在があるのです。

このように、聖霊の働きは、「鳩」に象徴されるように、私たちを神に対して、また人に対して、素直にさせ、美しくし、慰めを与えて勇気を与え、貧しさに屈しないで、神や人との親しいかかわりを築かせる力を与えてくれる存在なのです。


3. 鳩がイメージさせる「柔和さ」はひとつの大きな力

  • さて、「鳩」のようなイメージをもった聖霊が、イエスの誕生においてのみならず、イエスの公の生涯に入る時にイエスの上に下られたのです。そしてその公生涯においていつもイエスに寄り添うようにして存在されました。とすれば、イエスは当然のこの聖霊のご性質を共有されているはずです。
  • 聖霊は決して「私は・・」というような自己主張をされません。その存在さえ知られることを望みません。常に自分の存在を隠しながら、御子イエスの傍らに身を寄せ、「御子」を、または「御子と御父とのかかわり」を支えておられた方です。それゆえに御子イエスもご自分が神であるという立場に固執せず、その立場を捨てられ、しもべとしての立場を取られたと言えます。
  • イエスがエルサレムに入場するとき、ある意味では王として入場されるのですが、彼は柔和(gentle)で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って入場されたのです。現代でいうならば、高級自動車に乗って入場というのではなく、荷物を運ぶ小型の自動車にたとえることができるでしょう。ただし、中古ではなく新車ではありましたが・・。
  • 自慢することなく、自己主張せず、自分の存在をアピールすることもなく、常に、控え目で、御子に寄り添いながら、御子の栄光を表わすことを喜びとされる方。また決して争うことをしません。それを「一言」で言い表すなら、「柔和さ」と言うことができるのではないかと思います。
  • 「柔和」、「素直」、「優しさ」と訳される「プラウテース」。本来、飼いならされた動物のさまや従順なさまを表わす語彙です。新約聖書ではもっと深い意味を持っています。
  • (神に対しては)
    神に対する抵抗や敵対をしない素直な態度です。魂のしとやかさです。みことばに対しても素直に受け入れます。これは「謙遜」な心にも通じるので、聖書ではしばしば「謙遜」と並記されることが多いようです。(マタイ11:29/エペソ4:2/コロサイ3:12)。
  • (人に対しては)
    「柔和」は、臆病や弱々しさではありません。むしろ強い心です。これは傲慢な自己満足から解放された、すべてを耐える、落ち着いた優しい精神です。またそれは、「力を制御し、周囲がいきり立っている状況の中でも、穏やかで穏和であり、怒り狂ったり逆上したりする人をなだめ、機転と奥ゆかしい礼儀正しさを備えていて、他の人の自尊心や尊厳をくじかないようにする」性質です。
  • イエスがマタ 5:5で「 柔和な者(the meek)は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」と語ったように、柔和な者こそ、地を受け継ぐ者となるのです。

4. 「柔和さ」を身につけた旧約聖書の人々の例

(1) アブラハムの場合 (創世記13章)

甥のロトとの争いを好まず、ロトに優先権を与えて、土地を選択させた。それは自分の分は神に委ねることができた。これはひとつの力です。


(2) イサクの場合 (創世記26章)

イサクが神によって祝福されたのを見て、ペリシテ人は彼を妬み、すべての井戸に土を満たしてそれを塞ぎました。そしてペリシテの王であるアビメレクは「あなたはわれわれよりもはるかに強くなったから、ここから出ていってくれ」と言われます。普通ならば、いのちの源である水を得られなくされたわけですから、普通ならば怒るところですが、イサクはのアビメレクの言われる通りに、そこを出て、また井戸を掘ります。ところが、こんどは近くの羊飼いたちは、これはわれわれのものだと言って争いを起こし、イサクはしたかなく別の井戸を掘ります。ところがそれについても争いが起きます。イサクは仕方なく他の場所に移動して、さらに別の井戸を掘ります。そのようにしてイサクは一貫して争いを避けます。にもかかわらず、主なる神はイサクをますます豊かに祝福するのです。それを見たペリシテのアビメレクは神を恐れて、イサクと平和の契約を結ぶのです。そして去っていきます。そのあとにも、イサクのしもべたちはさらなる井戸を掘り当てたことが記されているのです。


(3) ダビデの例

ダビデも自分が預言者サムエルによって、やがて王となると預言されてから、自分の上司であるサウル王の妬みによっていのちを狙われます。そして荒野を放浪するのです。全くもって不条理です。しかし、ダビデはサウルの執拗な迫害に対して決して立ち向かいません。ただ逃げるだけです。サウロを殺せるチャンスが訪れても、決して手を出しませんでした。

「主を恐れる者、主を待ち望む者は地を受け継ぐ」と詩篇の中で繰り返し語られているように、ダビデはやがて主によって王となり、地を受け継ぐ者となりました。

  • イエス・キリストも「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(ペテロの手紙第一、2:23)とあるように、これが柔和だとすれば、これはひとつの力です。
  • アブラハム、イサク、ダビデのように、またペニエル経験した後のヤコブ(イスラエル)も、争うことをせず、神にゆだねる柔和さを身につけた者たちは、神の祝福を受けています。「柔和」であることは決して弱いことを意味しません。むしろ強い力をもっていることのあかしです。すべてを耐えることのできる、しかも落ち着いた優しい精神と言えます

最後に

  • 聖霊の最初のシンボルとしての「鳩」は、平和、優しさ、柔和、穏やかさ、親しさ、謙遜、近づきやすさのシンボルです。聖霊は、私たちに神に対する素直さ、みことばに対する素直さを与え、人に対しても決して争わず、神にゆだるね「柔和さ」を与えることのできる方です。そして「柔和さ」はひとつの力です。
  • しかし聖霊は、私たちの同意なしには何事もなさらない方でもあるのです。しかしひとたび、私たちがその方を受け入れ、その方がなそうとされることに同意するならば、私たちの思いを越えたことを私たちのうちに築いてくださる方なのです。すでにこの方はキリストを信じる者に住んでおられます。ですから、「どうか、来てください」と祈る必要はありません。すでにこの方は来てくださっているのですから。むしろこう祈りたいと思います。

「御父と御子から遣わされた聖霊様、私のうちに満ちてください。あなたをいつも歓迎します。あなたが私のうちにしようとしてくださることに私は同意します。御子が柔和な方であられたように、私もその柔和さという力を身に着けさせてください。」

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