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「毒麦」のたとえ

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55. 「毒麦」のたとえ

【聖書箇所】マタイの福音書13章24~30節、36~43節

ベレーシート

  • 今回はマタイの福音書における第三の説教である「天の御国の奥義」、その第二回目です。今回は「毒麦」のたとえです。前回と同じように、「天の御国の奥義」の説教全体をまず概観したいと思います。

(1) マタイの13章の「天の御国の奥義の説教」の全体の概観

  • 実はここにもキアスモス(Χιασμός)構文が見られるのです。

画像の説明

(2) 「毒麦」のたとえは「天の御国の奥義」の中の奥義 

  • キアスムス構造によれば、今回の説教にある「毒麦」のたとえの解説(E)の部分は、「天の御国の奥義」の中でも最も重要な位置にあることがわかります。それだけに分かったようで、わかり得ない部分となっています。そして弟子たちに対しても「耳のある者は聞きなさい」とイェシュアは語っています。
  • 前回でも言ったように、「聞く耳のある者は聞きなさい」というフレーズは、「御国の奥義」と密接な関係をもっています。天の御国は、バプテスマのヨハネの登場とイェシュアの登場によってすでに始まっているのですが、いまだその時は完全には来ていないのです。御国にはこの緊張関係があるということをヨハネは理解できなかったために、彼は風に揺れる葦のようにイェシュアにつまずいたのです。また多くの群衆も理解できませんでした。しかしイェシュアは今回その奥義を悟ることが許されている弟子たちに対しても、「耳のある者は聞きなさい」としています。

1. イェシュアの語る「毒麦」のたとえ(24~30節)

【新改訳2017】マタイの福音書13章24~30節
24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25 ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。
26 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。
27 それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
28 主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦(それら)を抜き集めましょうか。』
29 しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
30 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」

(1) 対象 

  • このたとえは24節に「彼らに」とあることから、群衆に対して語られたことが分かります。しかし彼らに天の御国の奥義を理解させるために語ったのではなく、理解させないように語ったのです。それは天の御国の民である主の弟子たちを励ますために語られたのです。これは第一のたとえである「種蒔きのたとえ」も同様でした。

(2) 「毒麦」という語彙 

  • テキストを見ると分かるように、25~30節の各節に「毒麦」と訳された語彙が登場します。36~43節のたとえの解説の部分も含めると、全部で10回、そのうちの2回が「代名詞」です(28節と39節)。
    画像の説明
  • 右図にあるように、左側が「毒麦」、中央が「小麦」、右側は「大麦」です。成長するとおのずと違いがはっきりとしてきますが、発育の初期はいずれも似ているようです。「毒麦」と訳された語彙はすべてギリシア語の「ジザニオン」(ζιζάνιον)の複数形「ジザニア」(ζιζάνια)です。「毒麦」は小麦の間から出て来る一種の雑草で、ある種の毒があると言われています。また毒麦を抜こうとすると、小麦の根は弱いため、いっしょに引き抜く危険があるので、収穫まで毒麦をそのままにしておくと言われています。ちなみに、「麦(小麦)」の方は「スィトス」(σῖτος)で、なぜか単数形です。
  • ヘブル語の新約聖書では「毒麦」のことを「ゼヌーニーム」(זְנוּנִים)としています。これも複数形です。あるいは「ズーネー」(זוּנֵי)、「ハッズーニーン」(הַזּוּנִין)とも訳されています。しかし、旧約聖書で「毒麦」という語彙は一度も出て来ません。新約聖書でも「毒麦」はマタイの福音書の13章にしか登場しません。珍しい語彙なのです。ところで、「ゼヌーニーム」(זְנוּנִים)は「姦淫、売春、淫行、神への背信、偶像礼拝」を意味します。特に、ホセア書でイスラエルの民を言い表すのに多く使われます(1:2, 2:6, 4:12, 5:4など)。「ゾーナー」(זוֹנָה)で「遊女」。「エーシェット・ゼヌーニーム」(אֵשֶׁת זְנוּנִים)で「姦淫の女」。語幹となる動詞「ザーナー」(זָנָה)で、「淫行をする、みだらなことをする、姦淫をする」ことを意味します。これらは、神の敵である悪魔の働きによるものであることは言うまでもありません。
  • 動詞「ザーナー」(זָנָה)と名詞「ゼヌーニーム」(זְנוּנִים)から見えてくるものについては、⇒こちらをクリック

(3) しもべたちの二つの質問 

①『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』

  • この質問に対して、主人は『敵がしたことだ。』と答えます。

②『それでは、私たちが行って毒麦(=それら)を抜き集めましょうか。』

  • すると、この質問に対して、主人は『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』と答えます。

(4) このたとえの中心点はどこか

① 神の畑にある敵の植えた「毒麦」もキリストのものとなる最後の機会が与えられていると理解し、この希望があるからこそ、「収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」と解釈します。その理由は、この世界で良い麦も毒麦も容易に区別されない中で、神はすべての人が悔い改めて真理を悟るのを待っておられるからだとしています。

② 別の解釈では、「収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」というその理由が、「毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない」という主人の注意深さにあるというものです。「麦を抜くかもしれない」とは、「きっと抜くことになる」ほどの意味で、万が一にも麦を損なってはならないという主人の度外れな、異常な注意深さを表明しているという解釈です。したがって、終末の時には神の手によってさばきがつけられるまでさばくことなく、待っているべきだというものです。

③ もう一つの解釈は、すでに敵がしたことは神の目には明らかであるが、いまだ神のご計画はそのことの中にも隠されているのだから、「収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」という解釈です。つまり、「育つままにしておく」ことに重要性が置かれています。不条理とも思えるような事柄の中にも神の深い秘められた計画が隠されているとし、やがて時が来れば、毒麦は抜き集められ、良き麦である御国の民は主人の倉に納められることが定まっているのだから、そのときまで育つままにしておくことが重要だとする解釈です。

  • 神の深い秘められた計画、それが何かはここでは教えられていません。それを知るためにさらに神に尋ね求めるように促されているということが、「育つままにしておく」という言葉の中に隠されています。例えば、敵の存在が、御国の民にとってなくてはならない教育的意図があるからです。
  • これらの解釈の中でいずれの解釈が正しいのか、一見、迷うところです。「奥義」(「ミュステーリオン」μυστήριον)とは、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきたことが、神の定めた時に、特定の人だけに明らかにされることを意味します。パウロはその一人で、神は彼に多くの奥義を啓示されました。イェシュアのほかに「奥義」ということばを最も多く使っているのはパウロだけです。奥義を一言で言い表すなら、それは「キリストにある栄光の望み(メシアによる王国の支配・統治のすばらしさ)」のことなのです。そこで、イェシュアのなされた解釈を改めて(「理解の型紙」をはずして)考えてみたいと思います。

2. イェシュアによる「毒麦」のたとえの解き明かし

【新改訳2017】マタイの福音書13章36~43節
36 それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
37 イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。
38 畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。
41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、
42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
43 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

  • たとえの解釈の対象者は、イェシュアが群衆を解散させて家に入られ、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言ったことから、イェシュアの弟子たちに対して語られています。まとめると
    (1) 「良い種を蒔く人」は「人の子」、すなわちイェシュアのことだと言っています。
    (2) 「畑」とはこの世界、地上の世界です。
    (3) 「良い種」(単数「カロス・スペルマ」καλός σπέρμα)とは「麦」の種で、「御国の子ら」(複数)のこと。
    (4) 「毒麦(複数)」とは「悪い者の子ら」のことで、それは悪魔が蒔いたものであること。
    (5) 「終わりの日」とは「収穫、刈り入れ」のことで、刈り入れるのは御使いたち(複数)であること。
    (6) 「毒麦」は収穫の時に集められて、火で焼かれること。
    (7) 「毒麦」である「悪い者の子ら」は「すべてのつまずきと、不法を行う者たち」と表現され、彼らは御使いによって御国から取り集められ、「火の燃える炉の中に投げ込まれ」、「彼らはそこで泣いて歯ぎしりする」とあります。
    (8) そのとき「御国の子ら」は「正しい者」と呼ばれ、「彼らの父の御国で太陽のように輝く」とあります。
  • このイェシュアのたとえの解釈を読むと、先のたとえにあった「毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」という部分はここでは取り上げられていません。むしろ、「終わりの日」に「御国の子ら」と「悪い者の子ら」の最終的、かつ決定的なさばきがなされ、御国に入る者の収穫がなされることが強調されています。私たちはここであたかも意味が分かったかのような気がするのです。しかしイェシュアは「終わりの日」のことをほんの一部分しか語っていません。二つのことを取り上げたいと思います。一つは、39節の「刈り入れのために人の子は御使いたちを遣わす」とはどうことか。もう一つは、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」とはどのような意味なのかということです。

(1) 刈り入れのために人の子は御使いたちを遣わす

画像の説明
  • エゼキエル書9章には神のさばきを代行する御使いたちのことを記しています。エルサレムを破壊する武器を手にもった6人が、北に面する上の門を通ってやって来ました。そしてもう1人、亜麻布の衣を着、腰に書記の筆入れをつけた者がいました。おそらくこの者が全体のリーダーかもしれません。なぜなら、神のさばきが執行された後で、神に「あなたが私に命じたとおりに私は行ないました」と報告しているからです(11節)。これらの6人の武器をもった男たちともう1人の人(合わせて「7」という完全数になります)は、神のさばきを代行した御使いたちであったと考えられます。
  • エルサレムの町を破壊した者たちは、ネブカデネザルの率いる軍隊でしたが、エゼキエル書では、そこに御使いたちの存在がいることを教えてくれています。聖書の中には神のさばきの代行者としての御使いの存在とその働きの記述が多く見られます。この世は、目に見える世界の現実と目には見えない霊的な世界の現実が重なっています。むしろ、目に見えない世界が目に見える世界の背後にあるということです。したがって、目に見えるバビロンの軍勢によるエルサレムの陥落の背後に神に仕える御使いたちがいることを忘れてはなりません。つまり、この世の政治的な力の背景に神に仕える御使いたちの存在があるという事実です。これは黙示録でイスラエルの民に示される終わりの日の型です
  • 新約のヘブル人の手紙1章7節に「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる」とあります。ここでは天の軍勢を神のさばきの執行者として述べています。「炎」とは神のさばきがいかに恐ろしいものであるか、神の決定を遂行する御使いの力の大きさを示唆しています。御使いが神のさばきの代行者であることを示す例としては、以下のような箇所があります(ここでは旧約のみ)。
    ① 「ソドムとゴモラに対するさばき」(創世記18章)
    ②「エジプトの初子が死ぬというさばき」(出エジプト記12章)
    ③ 「エルサレムを包囲したアッシリヤの軍隊に対するさばき」(Ⅱ列王記19章)
    ④「民の数を数えたダビデの罪によってもたらされたさばき」(Ⅰ歴代誌21章、Ⅱサムエル24章)
  • そして、エゼキエル書9章の御使いの務めは、偶像礼拝を悲しみ、正しく生きることを求めた人々の額に「しるし」をつけることでした。この「しるし」をつけられた者はさばきを免れることができました。この「しるし」が額についている者だけが、さばかれる多くの者から区別され、かつ守られたのです。このことも「終わりの時」の型と考えることができます。なぜなら、ヨハネの黙示録の第七の封印が解かれる前に、つまり大患難の時に、御使いがイスラエルの子孫である14万4千人の額に印を押すことが記されているからです。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録7章1~4節
1 その後、私は四人の御使いを見た。彼らは地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた。
2 また私は、もう一人の御使いが、日の昇る方から、生ける神の印を持って上って来るのを見た。彼は、地にも海にも害を加えることを許された四人の御使いたちに、大声で叫んだ。
3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。」
4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

  • 額に神の印を押された者たちとは、「天の御国を受け継ぐ幸いな者たち」であり、「御国の子ら」です。彼らは、⽂字通りのイスラエルの⺠であり、各々1万2千⼈ずつからなるイスラエルの12の部族のことです。

(2) そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます

  • また、マタイ13章43節の「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」のみことばも意味深です。ここでの「正しい人たち」も「御国の子ら」のことで、イスラエルの民です。教会のことではありません。そのイスラエルの民である「御国の子ら」が「彼らの父の御国で太陽のように輝く」とは、秘められた奥義なのです。「輝く」と訳された「エクランポー」(ἐκλάμπω)は「きらきら輝く」ことを意味しますが、新約で使われているのはここ1回だけです。御国の子らが「太陽のようにきらきらと輝くことになる」という素晴らしい約束が未来形で書かれていますが、旧約ではダニエル書12章3節に「ザーハル」(זָהַר)の未完了形で、「輝く」という意味で使われています。

【新改訳2017】ダニエル書12章1~3節
1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。
2 ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。
3 賢明な者たちは大空の輝きのように輝き(יַזְהִרוּ כְּזֹהַר)、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。

3節の「輝きのように輝き」と訳された部分には、ヘブル語の「ザーハル」の語幹(זהר)が重複して使われています。リビングバイブル訳は3節を「賢い神様の国民は、太陽のように明るく輝く。 多くの人を正しい道に導く者は、いつまでも星のようにきらめく。」と訳しています。

  • これが「終わりの日」の時系列のどこでなされるのかといえば、獣と呼ばれる反キリストによる大患難の後、すなわち、キリストの再臨の前です。ダニエル書12章はダニエル書全体の要約でもあり、また最後で主に忠実な者に対する復活への希望の光を与えてくれる章でもあります。11章36節~12章3節までは、最後の終わりの時の幻が記されています。アンティオコス4世エピファネスの再来である「反キリスト」が現われると解釈される預言です。ダニエルに示された「七十週預言」の最後の「一週」(七年間)に定められていることが起こることの内容が示されています。この幻がダニエルに示された後にこう語られました。「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」と(12:4)。
  • 神のご計画における「終わりの時」については、長い歴史の中で漸次に、さまざまな時期に、さまざまな方法で、多くの預言者を通して語られています。パズルゲームのように、神が示された幻や夢、あるいは語られた預言の一つひとつのピースを組み合わせなくては全体像が見えない仕掛けになっています。つまり、語られた預言が「終わりの時まで、秘められ、封じられているから」(12:9)です。そのため、神のことばを聞いた預言者も、その意味することを悟ることができないのです。ダニエルはしばしばそのような経験をした人でした(7:15, 28/8:15, 27/12:8)。しかし新約時代に入ると、「この書を封じておけ」(ダニ12:4)と言われた神の啓示が、新しく開かれるようなさらなる多くのピースが与えられることになります。使徒パウロや使徒ペテロの手紙、そして特に「ヨハネの黙示録」に至っては、終わりの時についての多くのピース(情報)が啓示されています。その黙示録の最後の章では御使いが「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです」(22:10)と語っています。
  • イェシュアが語られた「毒麦のたとえ」もご自分の弟子たちにそのことを悟るように示しておられるのです。弟子たちはイェシュアのたとえの解説でこのことを理解したとは思えません。しかし御国の子らは、やがて「終わりの日」には聖霊によってその奥義を悟るようになるのです。
  • このように、「毒麦」のたとえを解釈するイェシュアのことばの中に、神のご計画の隠された事柄が多く含まれているということです。この「毒麦」のたとえは、「終わりの日」に起こる神のご計画が含まれているために、イェシュアの解き明かしがなされたとしても、容易に理解しがたいたとえなのです。ですから、常に、神の民である私たちは、神のご計画全体からそれを読み取るように、深く理解するようにと諭され、促されているのです。そのことが、「耳のある者は聞きなさい」ということばに集約されているのではないでしょうか。

2019.5.26


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