****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「神が結び合わせたものを引き離すな」

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83. 「神が結び合わせたものを引き離すな」

【聖書箇所】マタイの福音書19章1~12節

ベレーシート

ガリラヤを去ってヨルダンの向こう側へ.PNG

●マタイにおける第四の説教を終えた後で、イェシュアの一行は
三年間に及んだガリラヤ宣教から、エルサレムへ向けて旅立ちました。「ガリラヤを去り、ヨルダンの川向こうを経てユダヤ地方へ入られた」とあります。「ガリラヤを去り」の「去り」は「メタイロー」(μεταίρω)で、これと同じ動詞がマタイ13章53節にもあります。そこではイェシュアが故郷であるナザレを「立ち去った」とあります。いずれも、「そこを離れて、もはやそこに戻ることはない」というニュアンスです。つまり、三年間に及ぶガリラヤでの働きを終えて、イェシュアは公生涯の最後の舞台であるエルサレムへと移っていきます。その新しい変化を伝えているのが、19章1~2節のテキストなのです。

【新改訳2017】マタイの福音書19章1~2節
1 イエスはこれらの話を終えると、ガリラヤを去り、ヨルダンの川向こうを経てユダヤ地方へ入られた。
2 すると大勢の群衆がついて来たので、その場で彼らを癒やされた。

●「ヨルダンの川向こう」とはペレヤ地方を意味します。イェシュアたちの一行はサマリヤ地方を避けてヨルダン川の東側に赴き、南下してペレヤ地方を通り、そこからヨルダン川を渡ってエリコを通り、エルサレムへと向かって行かれるのです。旅の最終目的地はエルサレムでなければなりません。なぜなら、神のご計画において、贖いのわざが完成されるのはエルサレムだからです。イェシュアはそこに向かって行くと同時に、弟子たちをもさらに整えていく必要がありました。今回のテキストは一見パリサイ人たちに対して答えているように見えながら、いつの間にか彼らの姿は消え去って、弟子たちに対する話に変わっていることもそのことを表わしています。

●今回はパリサイ人たちの質問を契機として語られており、その内容は一見「離縁」という人間的な問題を扱っているように思えます。しかし実は神のご計画の究極的な目的に関わる問題なのです。つまり、神のご計画は天と地が、神と人が、神とイスラエルが、キリストと教会が、夫と妻とが「一体となる」ということであり、今回の説教タイトルのように、「神が結び合わせたものを人が引き離してはならない」という神のみこころに触れる内容となっているのです。

1. パリサイ人たちとの「離縁」に関する問答

【新改訳2017】マタイの福音書19章3節
パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。
「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」

●パリサイ人たちが「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」という質問を持って、イェシュアに近づいて来ました。「離縁する」とは「追い出す」という意味のヘブル語「シャーラハ」(שָׁלַח)が使われています。ですから、彼らの質問は、言い方を換えるなら、「どんな理由ならば、妻を追い出すことが許されるのか」ということでもあります。

●申命記24章1節に「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」とあります。ここには「恥ずべきこと」と「気に入らなくなり」という表現があります。この解釈をめぐって、律法学者たちはいろいろと考えました。当時のパリサイ派の中に二つの学派があったようです。一つは「姦淫以外の離婚理由を認めない」という厳格な律法学者のラビ・シャンマイ派、そしてもう一つは離婚理由を緩やかに、自由に考える律法学者のラビ・ヒッレール派とがありました。前者は「恥ずべきこと」という語彙に重きをおいた解釈をしましたが、後者は「気に入らなくなり」という語彙に重きをおいた解釈をしました。後者の解釈でいくと、料理が下手とか、街頭で男性と話をしたとか、夫の社会的信用を落とすような不始末をしたとか、夫の前で両親の悪口を言ったとか、容姿が変わってしまったとか・・・などの理由で離縁できると考えたのです。ラビ・アキバ(50~135年)という人は、「気に入らなくなり」という語彙を、自分の妻よりもっと魅力的な女性を見つけたときにも妻を離縁できると解釈したようです。しかしイェシュアの立場は、厳格なラビ・シャンマイ派の見解、すなわち「不貞以外の理由を認めない」という見解と同じですが、さらに「妻を離縁して別の女と結婚する(再婚する)者は、姦淫を犯すことになる」として、より厳しいことを語っています。以下の聖句も同じ内容です。

【新改訳2017】ルカの福音書 16章18節
だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。

●つまり、イェシュアは、不貞以外で妻を離縁することは、姦淫の循環が起こってしまうことを言っているのです。当時、離縁できる資格は夫にしかなく、妻にはその資格は認められていませんでした。イェシュアは離縁において女性の権利を守る側に立っています。「気に入らなくなった」ということで離縁されるとすれば、女性はますます男性に利用されることになります。とすれば、女性は一人の人格として取り扱われないことになるだけでなく、神の定められた結婚の神聖さも失われる危険があります。ましてや、自分の妻よりもっと魅力的な女性を見つけたときに妻を離縁できるとすれば、これは「むさぼりの罪」と何ら変わりません。姦淫の根本にある問題は「むさぼりを助長する」ことです。それは結婚だけに限らず、金の切れ目は縁の切れ目と言われるように、人を利用できなくなるといとも簡単にかかわりがプツッと切れてしまうような、それはまさに打算的で、利己的な偶像礼拝と同じ罪です。

●イェシュアが言っているのは、離縁はそもそも無効であり、それゆえ再婚も無効だということです。離縁された女が再婚したとしても、その離縁がそもそも無効であるため、彼女と結婚する者も姦淫を犯すことになるという意味なのです。つまり、「気に入らなくなった」妻を離縁しようとする夫に対して、その身勝手な行為は自分だけでなく、妻や第二の夫となる者にも姦淫の罪を犯させてしまうことを警告しているのです。当時のラビ・シャンマイ派の解釈も、またラビ・ヒッレール派の解釈もイェシュアは否定して、神が定めた本来の結婚の在り方に立ち戻って考えるべきことを以下で語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書19章4~6節
4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」

イェシュアの解釈は、

①「創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』た」ということ。
②「彼らはもはやふたりではなく一体」であること。
③「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」ということ。(これは創世記にはありません)

●これこそが神の創造の理念であり、神のご計画の究極的目的なのです。男と女が結婚するということには、神と人、神である主とイスラエル、キリストと教会の関係も含めた壮大な計画が込められており、「たかが結婚、されど結婚」で、結婚の秘儀は神の壮大なご計画の中心にあるものなのです。

●パリサイ人たちは「離縁する」ことを現実の問題として、当然としながら、それが許される理由について質問し、その論議の中にイェシュアを巻き込もうとしていたのです。ところがイェシュアはその論議に巻き込まれることなく、むしろ、神のみこころとしての結婚の秘儀を取り上げようとしています。そして、「あなたがたは読んだことがないのですか」と切り出しています。これは質問ではなく、叱責のことばです。イェシュアは創世記1章27節と2章24節のみことばを結びつけて、「創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」と答えられました。当時のラビたちの解釈法では、「より古い箇所ほど重みを持つという原則があったようです。そこでイェシュアは「はじめの時から」と言って、つまり創造の時点からという意味で、しかも永遠の神のご計画における結婚の概念で説明されたのです。なぜなら、御父と御子とのかかわりは永遠に一体であり、神のみこころが天にあるごとく、地にもそれが実現されるために人を造り、男と女を造られたからです。

●ところがトーラーを教えるパリサイ人たちは、自分たちの身に起こる問題についてのみトーラーを解釈かることに終始し、神のご計画については全く無関心であり、神の事柄の本質を見失っていたのです。これは現代の私たちにも起こり得ることです。目の前にある問題に心が向いてしまい、神が何をしようとしておられるのかを見失ってしまうのです。神が本来、創造においてなそうとされたみこころが、たとえ罪によって妨げられたとしても、「彼らはもはやふたりではなく一体」となることが神のみこころであり、神が必ず実現されるご計画なのだという信仰を堅くする必要があります。そうした意味において、イェシュアが「神」、あるいは「神である主」と言い方ではなく、「創造者」と言われたことは要を得ているのです。

●結婚式で、結婚宣言として語られる「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」というフレーズですが、そこにある「結び合わせた」(συζεύγνυμι)という語彙は「共に」(「スン」συν)と「くびきを負う」(「ゼウンヌュミ」ζεύγνυμι)の合成語で、「くびきを共にする」という意味です。これに相当するヘブル語は「ハーヴァル」(חָבַר)で、幕屋で使われるいくつかの幕を「互いにつなぎ合わせる」という箇所で使われています。それは神が結び合わせて一つにすることを啓示しています(出エジプト26:3~6)。マタイ11章28~30節もイェシュアと「一つになる」という結婚の秘儀を語っているのです。

【新改訳2017】マタイの福音書11章28~30節
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。


2. パリサイ人たちの反論

●イェシュアのことばに対して、「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか」とパリサイ人たちは言います。これは申命記24章1節を根拠にした発言ですが、「離縁状を渡して妻を離縁せよ」とモーセは命じてはいない、許容しただけだとイェシュアは語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書19章8~9節
8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません.(「はじめの時」とは創造の時からという意味)
9 あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」

●ここでイェシュアは、彼らに「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。はじめの時からそうだったのではありません」と言っています。「あなたがたの心が頑ななので」、モーセは仕方なく、譲歩して許したのだと言っているのです。

●「心が頑ななので」とありますが、原文は「頑固さ、強情さのゆえに」です。「頑固さ」と訳された「スクレーロカルディア」(σκληροκαρδία)は二つの語彙の合成語です。「頑固さ、強情さ」を意味する「スクレ―ロス」(σκληρος)と「心」を意味する「カルディア」(καρδία)です。へブル語では「カーシャー」(קָשָׁה)の名詞「ケシー」(קְשִׁי)の一語です。イスラエルの民の心は出エジプトした直後から心が「頑な」でした。【主】の命令に逆らい、主を信頼せず、その御声に聞き従わなかったイスラエルの民のために、モーセがとりなしている祈りがあります。

【新改訳2017】申命記9章26~29節
26 私は【主】に祈って言った。「【神】、主よ、あなたのゆずりの民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された民です。
27 あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こしてください。そして、この民の頑なさと悪と罪に御顔を向けないでください
28 そうでないと、あなたがそこから私たちを導き出されたあの国では、こう言うでしょう。『【主】は、約束した地に彼らを導き入れることができなかったので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせようとして連れ出したのだ。』
29 しかし彼らは、あなたのゆずりの民です。あなたが、その大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出された民です。」

●この箇所はホレブにおけるモーセの祈りですが、この民の頑なさと悪と罪に御顔を向けないでくださいと言っています。それは、周囲の民が誤解して、「【主】は、約束した地に彼らを導き入れることができなかったのだ」と思うことで、あなたの御名の栄光が辱められないためにと祈っているのです。このモーセの祈りは神に聞き入れられたのですが、神はイスラエルの民の頑なさにとことん付き合わされることになります。しかし、彼らの心の頑なさは、やがて産みの苦しみを通して初めて打ち砕かれるのです。そして真の神の民とされるのです。

●「頑なさ」の語源「カーシャー」(קָשָׁה)ですが、その初出箇所である創世記35章16節で「ラケルの産みの苦しみ」とリンクします。「ラケルの産みの苦しみ」とは、イスラエル(ヤコブ)の最後の子が生まれる時の苦しみのことです。これはイスラエルの民がやがて(終わりの日に)経験することになる、反キリストによる未曽有の大患難の苦難を預言しているのです。このような苦しみを通らされて、はじめてイスラエルは神に従順な民となり、神と一つにされるのです。ラケルはこの子の名前を「ベン・オニ」(בֵּן-אוֹנִי)と名づけました。それは「私の苦しみの子」、あるいは「私の悲しみの子」という意味です。ところが、父ヤコブはこの子の名をなんと「ベニヤミン」(בִנְיָמִין)と改名しました。「ベニヤミン」とは「右手の子」という意味で、「右手」(「ヤーミン」יָמִין)は聖書では特別な存在を意味し、神との信頼と親しさ、幸いを意味します。「ベン・オニ」が「ベニヤミン」と改名されたことに、イスラエルはたとえ頑なであったとしても決して見捨てられず、最も親愛の民となるということが預言されているのです。その意味でイスラエルは特別な民なのです。

3. 弟子たちの反応

●イェシュアの離縁に対する解釈を聞いた弟子たちの反応を見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書19章10~12節
10 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。
12 母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」

●イェシュアの結婚観は厳格なシャンマイ派以上のものであったゆえに、弟子たちはついていくことができませんでした。その反応が10節のことば、「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」に言い表されています。当時のユダヤ人たちの中で結婚することは当然でした。ですから、弟子たちは自分がたとえ離縁するつもりがなかったとしても、離縁できるという権利は必要だと考えていたのだと思われます。しかし、その弟子たちのことばに対して、イェシュアは「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。」と述べています。

●「そのことば」とは、「結婚しないこと」、つまり「独身でいる」という意味であり、イェシュアは「独身でいることは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。」と述べています。話題が、結婚しない者、独身者に移っています。独身でいることは決して簡単なことではなく、「それが許されている人だけができるのだ」とイェシュアは言っています。しかも、独身者であることを許された者たちには、以下のように、三つのパターンがあることを述べています。

(1) 生まれつき独身者として生まれついた人たちがいること。
(2) 人から独身者にさせられた人たちがいること。
(3) 天の御国のために、自分から独身者となった人たちがいること。

(1)の場合が考えられるのはどんな人のことでしょうか。「生まれつき」とありますから、おそらく性的な能力を持たない人だと考えられます。(2)の場合は、使徒の働き8章27節に登場する宦官のことです。そこでは「エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた」とあります。新約ではこの箇所限りですが、旧約では王宮には大勢の宦官たちがいたようです。(3)の場合は、イェシュアを筆頭に、パウロが相当します。旧約では預言者エリヤ、エリシャ、エレミヤなどがそうです。キリスト教の修道院における修道士、修道女たちも同様です。それは神の働きのために独身であることを自ら選んだ人たちですが、そうした人がより優れているというのではなく、「それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」と言われているのです。

4. 結婚・離婚・独身についての使徒パウロの見解について

●私たちキリスト者は、天の御国の「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中に置かれています。ですから、本質論的なことばかり並べたてられても、という思いがあります。そこで最後に、使徒パウロが教会に対して語られた結婚・離婚・独身についての見解を記しておきたいと思います。パウロが性的に乱れていたコリント教会に対して語ったことは、今日の私たちにとっても有効な知恵となります。

(1) 淫らな行いを避けるために結婚することを命じています(2~4節)。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙7章2~4節
2 淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
4 妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。

(2) その後に、独身の勧めをしています(7~9節)。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙7章7~9節
7 私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。
8 結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。
9 しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。

(3) すでに結婚した者たちについて、主が命じていること(10~11節)と、パウロ自身が勧めていること(7~9節)、および、命じていること(12~17節)とをそれぞれ区別しながら語っています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙7章10~17節
10 すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
11 もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。
12 そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
13 また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
15 しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。
16 妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。
17 ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。

●御国の民とされた私たちは、パウロの言うことを、主にある知恵として受け止めたいと思います。   

2020.8.16

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