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「神との生きたかかわり」をもたらす息

2. 【風】・【息】・・・「神との生きたかかわり」をもたらす方

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聖書箇所; エゼキエル書37章1~10節

はじめに

  • 旧約聖書においても、新約聖書においても、聖霊は「風」や「息」というシンボルで表されています。それは「神のいのち」そのものです。
  • 旧約聖書におけるヘブル語の「ルーアッハ」רוּחַは、「霊」(spirit)、「風」(wind)、「息」(breath)と訳されます。「ルーアッハ」רוּחַのもともとの意味は「移動する空気」(air in movement)で、空気が流れ動くことで、そこから自然界で吹き抜ける「風」の意味がもたらされました。一口に「風」といっても、穏やかな「そよ風」(創世記2:8)もあれば、林の木々が揺らぐような「風」(イザヤ7:2)もあります。また、船を難破させるような激しい暴風(ヨナ1:4)もあります。風はしばしば「神の奇しいわざ」を表わすときに神が用いられる手段です。
  • 旧約のヘブル語の「ルーアッハ」רוּחַに相当するギリシア語は「プニューマ」πvευμα。ヨハネの福音書3章5~8節ではイエスが「御霊による新生」を風の働きにたとえています。「風(πvευμα)はその思いのままに吹き、・・その音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかは知らない。御霊(πvευμα)によって生まれる者もみな、そのとおりです。」とあります。ここでイエスは「プニューマ」πvευμαを「風」と「聖霊」の両義を使い分けて、聖霊が風のように自由に働くことを語っておられます。風は目には見えませんが、その働きと効果は明瞭に観察されるのです。そのように、聖霊も思いのままに吹き、自由に働いて人を新生させるだけでなく、神とのかかわりの中に人を回復させ、刷新させる生ける力をもっているのです。

1. 神のいのちの「息」

  • 創世記2章7節には「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息〔※〕を吹きこまれた。そこで、人は、生きものとなった」とあります。いのちの根源としての「いのちの息」を吹き込まれることによって、人は神との人格的な交わりを持つことのできる特別な能力を与えられました。それは神のかたちにかたどって造られた人間だけに与えられたもので、神とのかかわりにおいて、神の愛や罪の赦しを受けて喜ぶことのできる能力、意味しています。
  • 〔※〕創世2:7で使われている「いのちの息」の「息」はヘブル語の「ネシャーマー」נְשָׁמָהで、狭義的な意味で、神から出るいのちの「息」を表します。それに対して「ルーアッハ」רוּחַは広義的です。
  • 「ネシャーマー」נְשָׁמָהは旧約では24回。創世記7章22節ではノアの家族以外の「いのちの息を吹きこまれたもの」はみな死にましたが、詩篇の最後の節(150:6)では「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ」と結ばれています。ここで使われている「息あるもの」とは、冠詞つきの「ハッネシャーマー」הַנְּשָׁמָהです。
  • ちなみに、新約聖書における「いのちの息」は「神の息吹」、つまり「霊感」と訳されています。使徒パウロはテモテ第二3章16節で、ただ一回限りですが、「聖書(ここでは旧約聖書のこと)はすべて神の霊感(神の息吹God-breathed, ギリシア語では「セオプニューマトス」θεοπvευματος)によって」書かれたものであることを記しています。つまり、神が人にいのちの息を吹き込んで生きたものとしたように、聖書を書く人に神が誤りなく書き記すために神の息吹を吹きかけられました。それゆえ、それを読む者にも神の霊の助けが必要なのです。神と人とが生きたかかわりを持つために聖霊の助けは欠かせないのです。

2. 枯れた骨を生き返らせる「神の息吹」

  • ところで、聖霊が「息」というシンボルで表されている最も良い聖書箇所はエゼキエル書37章です。そこでは枯れた骨が神の息が吹き入れられることによって生き返るヴィジョンが記されています。「枯れた骨」とは、ここではイスラエルの民のことです(37:11)。神ならぬ偶像礼拝の罪によってなんの役にも立たなくなってしまった神の民、捨て置くしかない神の民たちのことをここで「枯れた骨(干からびた骨)」と神は言っているのです。しかし、神である主はこれらの「枯れた骨」を神の息吹によってリセットしようとされたのです。
  • 神は預言者エゼキエルに問いかけます。
    「これらの骨は生き返ることができようか」(37:3)。

そして次のように語ることを命じます。

「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。【主】のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが【主】であることを知ろう。」(エゼキエル37:4~6)

  • 人を生かし、回復させるのは神の「息」としての「ルーアッハ」רוּחַです。

    私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。 そのとき、主は仰せられた。
    「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
    私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。(37:7~10)

  • 神の霊によって生き返ったイスラエルの民の姿を、別な視点から表現するならば、詩篇119篇にある「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」、「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」(119:1~2)ということになるかと思います。預言者エレミヤが「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるならわたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」(29:13~14)と預言していたことが実現したのです。つまり、「心を尽くして主を尋ね求める人々」とされたことの背景には、エゼキエルの言う「見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」(37:5)という預言の成就があるのです。聖霊である神の息吹なしにイスラエルの民は生き返ることはできず、ましてや、主を心を尽くして尋ね求めることにはならなかったということです。
  • 神の民は神の恩寵としての息吹によって生き返ることによって、はじめて自分の足で立つことができます。「自分の足で立つ」とは、主体的、自発的な生き方をすることを意味します。神のみおしえ(トーラー)に対するかかわりが全く変えられることを意味します。

    神の息吹と信仰的自立

  • このように人を新しく生かし、人を神に立ち返らせて回復させるのは神の「息吹」としての「ルーアッハ」(רוּחַ)である聖霊です。この方こそ私たちが神とのかかわりを豊かにし、神の愛ー長さ、広さ、高さ、深さにおいて人知をはるかに越えた神の愛ーを知る(経験する)ための必要不可欠なお方です。
  • 風はだれからも支配されることなく、思いのままに吹きます。またどんな隙間からでも入っていきます。そしてひとたび聖霊の風が吹くならば人の予想をはるかに越えたすばらしいことが起こります。



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