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「私と私の家族とは、主に仕える」(第一回ヒナヤーヴ・キャンプ)

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3. 「私と私の家族とは、主に仕える」 (第一回ヒナキャン)

【聖書箇所】 ヨシュア記24章15節

ベレーシート

(1) 詩篇128篇の瞑想

  • この詩篇128篇には三つの「見る」という訳語があります。最初の「見る」は、4節にあります。そこで使われている原語は「ヒンネー」(הִנֵּה)で、ある重要な事柄を喚起させる動詞です。詩篇133篇でも「ヒンネー・マー・トーヴ」で「見よ。なんという幸い」と訳されます。英訳は、Behold. ここで喚起させようとしている事柄とは、「主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける」という事実です。「このような」とは、家族としての祝福です。
  • 後の二つの「見よ」は、5節の「あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。」と6節の「あなたの子らの子たちを見よ。」です。ここに使われている「見よ」は、4節の「見よ」とは異なる原語、「ラーアー」(רָאָה)です。この動詞は普通に「見る」という意味ですが、「良く考える、熟考する、理解する、consider」という意味もあります。つまり、「家庭の祝福」が単なる個人的なレヴェルにとどまらず、「エルサレムの繁栄(トーヴ)」と「イスラエルの平和(シャーローム)」と深く連動しているということを「深く考えよ、理解せよ」と促しているのです。
  • この詩篇は、イスラエルにおいて、国全体の存続と繁栄は個々の家庭の祝福と信仰の継承にかかっているということを喚起させている詩篇だということが言えます。主の導きによって「クリスチャン・ホーム」とされた者たちは、神の国においてまさに大きな使命と責任がゆだねられているということを、自覚的な召しとして受けとめられることが促されているのです。

(2) ヨシュア記24章にある「主に仕える」というキーワード

  • ヨシュア記24章にある「主に仕える」というキーワードについて思いを巡らします。単に「主に仕える」というだけでなく、15節にあるように「私と私の家(家族)とは」とあるように、父とその家が一体となって、「主に仕える」という主体的・自覚的な信仰による取り組みが目指されています。この取り組みがいかに大事業であるか、しかもそれがいかに緊急的な課題であるかを自覚しなければなりません。   
  • 「私と私の家(家族)とは、主に仕える」という告白は、実はヨシュア記の結論なのです。

1. ヨシュアの歴史的回顧

  • ヨシュアは、訣別説教としてアブラハムから始まる神の民の歴史を回顧しています。そして今や神の恩寵によって約束された地に今住んでいることを強調した上で、神の民の代表となっている人々に対して次のように語っています。

「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。・・・主に仕えなさい。しも主に仕えることがあなたがたの気にいらないなら、・・あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える」(14~15節)

  • これに対して、民たちの代表は三度、「私たちは主に仕えます」(18, 21, 24節)と答えてシェケムで契約を更新しました。更新ということは、これが特別に新しい契約ではなく、すでにモーセが語った申命記の中にあった契約の更新でした。
  • 申命記の主題は「神の民の自立」です。

①「神に選ばれたイスラエルが出エジプトという歴史的経験を通し、さらに荒野放浪の体験を通して訓練されたのは、すべて奴隷状態から脱皮して、選民的に自立させるためであった。選民的に自立するには、選民各自のうちに〔選ばれて・選ぶ〕という主体的決断の確立が決定的である。そこには選民側の応答としては、選び主への服従か背反か、祝福か呪いか、生か死かの二者択一しかない。」(岡村民子著「聖書各巻のかけがえのなさ」73頁)

② 「自立」とは、愛されて愛するという信仰的・主体的決断に基づく服従の選択意志を意味します。注解者の多くが、申命記の主題を「回顧と展望」としています。それは、自動車のバックミラーのように過去を顧みつつ、これから進むべき道を展望するために、神の真実に対する責任ある主体的決断をもった服従が要求されます。モーセ五書の最初の四書で、神はイスラエルを選び、申命記では神がイスラエルの民一人一人に対してご自身を選ばせようとしておられます。そして厳粛に「あなたはいのちを選びなさい」と命じています。

③ その意味において、ヨシュアの「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家族とは主に仕える」との告白(ヨシュア記24章15節b)は、申命記の結論的告白と言えます。


2. 「私と私の家とは主に仕える」という今日的課題

  • アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民たちは、この世に生まれた時から神の契約の子であり、神との特別な位置にありました。彼らが他の国の子よりも特別に有能で、すぐれているからではありません。神が選ばれた民の子であるゆえに、神とのかかわりにおいて特別な位置にあるのです。ですから、イスラエルの民は神によって与えられたトーラーに従って、神の民として教育される必要がありました。申命記6章6以降には次のように語られています。
    「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱に書き記しなさい。」(申命記6:6~9)
     
  • ユダヤ人の教育は今日においても、5歳からトーラーを学び、12歳ではトーラーの解釈である「ミシュナー」を学びます。しかも膨大な神のことばを記憶するように教育されるのです。これは彼らが神の民として存続していくための在り方なのです。彼らの歴史において離散と迫害をくぐり抜けて今日においてもユダヤ人として存続し得ているのは、神の守りがありますが、彼らが神のトーラーや伝統を、世代を超えて継承してきたからです。  
  • ここで神がノアとイスラエルの民に対して語られたあるひとつの表現に注目したいと思います。

    (1) 創世記7章1節
    「主はノアに仰せられた。『あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしは見たからである。』

    (2) 出エジプト記12章21~24節
    「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。あなたがたの家族のために、・・・・あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。」

    (3) 申命記30章2, 3節
    「あなたの神、【主】に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕らわれの身から帰らせ、・・あなたを再び、集める。」

  • ノアは自分の家族を神の命令に従わせるリーダーシップを持っていました。ノアの時代はまさに神を信じるということは、マイノリティそのものー少数派の極みーでした。創世記7章1節に「主はノアに仰せられた。『あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしは見たからである。』とあります。
  • 神の前に正しいということは、彼が道徳的において、品性において正しいという意味ではなく、信仰において正しいと見なされたのです。ですから、新約のへブル人への手紙11章7節を見ると、そこにはこう記されています。
    「信仰によって、ノアは、まだ見ていないこと事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族のために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続するものとなりました。」
  • 「信仰による義を相続するものとなった」ということは、「信仰による義の相続者」となったということです。アベルもエノクも同様、そして後に登場するアブラハムと同様に、信仰による相続者のひとりとなったのです。
  • 旧約において、「主を恐れる」とは、「主を信じる」ことと同義です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(へブル11:6)とあるように、ノアは、神を信じる信仰によって神から正しい者とされる者となっただけでなく、その信仰を自分の家族にも継承させることのできた人でした。
  • ノアは、後の世に、神を恐れる(神を信じる)親の信仰は、自分自身のためだけでなく、子どもたちへの祝福のあかしとなる型となっています。後に、父の権威―それは神への権威に背くことになるハムでさえも、ノアの信仰によって洪水から救われました。これは神の目には、家族が一単位として、つまり父親を頭、あるいは代表者として、親と子が一つと見なされているからです。これは今の時代においても有効です。
  • 神は、ご自分の民を家族単位に扱うことを原則としています。それゆえ使徒パウロは自害しようとしたピリピの看守に対して、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と語ったのです。ここでいう「信じなさい」ということばは、ギリシャ語ではアオリスト時制の命令形です。つまり、一度限りの決断として決定的に信じることが命じられています。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」とあります。ここでの「救われる」という時制は未来形です。ギリシア語の未来形は、現在の状態が将来も続いていることを意味します。
  • ギリシア語の時制はきわめて厳格です。ギリシア語の未来時制は、将来、確実に起こることを表わす時制です。将来、必ずそうなること、あるいは神の確実な約束を意味します。「・・でしょう」という可能性を示唆する表現ではなく、「(必ず)そうなります」という断定的表現です。つまり、救いの確実性と永続性を意味しています。それほどに聖書は、父と子ども、あるいは家族は一体として考えられているのです。
  • とすれば、父親は子どもに対してなにもしなくても良いのかというとそうではありません。自分の子どもたちが神を恐れ、心を尽くし、精神を尽くして主の御声に聞き従うことを、たえず、教える責任と義務があるのです。さらに、子どもたちは親を通して与えられた祝福を次の世代に受け継いでいく責任があるのです。ノアが信仰によって全家族を箱舟の中に引き連れて入ったように、その中で生きることを決意しなければなりません。箱舟こそこの世における「隠れ場」(マフセ、מַחְסֶה)です。世から聖別された場所です。その中で父親は神の権威をもって子どもを育てる必要があります。主にあるしつけと教育が施され、主に喜びをもって仕えることを教えなければならないのです。
  • 異邦人である私たちは信仰の継承の課題を彼らから謙虚に学ばなくてはなりません。特に、クリスチャンの第一世代の者は身近なモデルとなる家庭が少ないためにその課題は難儀な状況にあります。しかし神の恵みにより神の子とされたクリスチャンは、同じく神の子とされたクリスチャンとの結婚に導かれた者は、神の摂理のうちに、本人が自覚しようとしまいと「家族としての信仰の継承という召し」が与えられています。
  • もう一度、詩篇127篇3節のことばを心に刻みたいと思います。そこにはこうあります。
    「見よ。子どもたちは主の賜物(相続地)、胎の実は報酬である。」
  • 「賜物」と訳された「ナハラット」は「相続地、嗣業」とも訳されます。約束の地が神の嗣業(賜物)の地であったように、主の家庭に与えられる子どもたちは、主にあって結ばれた両親に対する信仰の「報酬」です。かつて信仰を求められたアブラハムに語られた主のことばには、「あなたの受ける報いは非常に大きい」(創世記15:1)とあります。「賜物、嗣業」には「責任と課題」が伴います。つまり、主にあって子を育てる責任という課題です。まさに、ヨシュアが宣言したように、「私と私の家(家族)とは、主に仕える」ということであり、信仰の継承という課題を担うことです。神から与えられた相続地を継がせると同様に、神から与えられた賜物としての子どもを決して世に奪われることなく、信仰を次の世代へと継承させる責任を伴った課題を背負うことを意味します。このことがクリスチャンホームとして導かれた両親の課題であり、神からの召命であると信じます。それゆえ、主体的・自覚的な責任として受けとめられる必要があるのです。
  • 神から与えられた相続地も、神の教えに従って生きることがなければその地は根絶やしにされるという警告があるように、同じく神からの賜物としての子どもたちに神のことばを教えて信仰を継続させる責任を怠るなら、その子とその子孫が信仰の継承はおろか、信仰そのものも根絶やしにされるのです。そうならないためにも、クリスチャンホームという祝福にあずかった家族は「家族としての召命」を緊急に再認識する必要があると信じます。
  • 「家族としての召し」を与えられたクリスチャンホームがその召しを自覚し、主から賜った子どもたちを主の教えにそって育てるならば、神からの大いなる「報い」が約束されています。127篇4節には「若い時の子らは、まさに勇士の手の中にある矢のようだ」とあるように、主の召命に自覚的に従うならば、「門で敵と語るときにも、恥を見ることがない」とあります。これは、たとえどんな嫌がらせや批判にさらされようとも、神の大きな祝福の力をまとうことになるということを意味しています。

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