****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「私の妹、花嫁よ」(1)

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

13. 「私の妹、花嫁よ」(1)ー 花嫁を誘い出す花婿

【聖書箇所】 4章8〜15節

ベレーシート

  • 雅歌4章1~15節は、雅歌の中の花婿の言葉としては最も長い箇所です。前回はその前半部分(4:1~7)を瞑想しましたが、後半部分(4:8~15)は2回に分けて瞑想をしたいと思います。前半(4:1~7)では「1ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。・・・7 わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」とあるように、花嫁の美の極みを称賛しています。花嫁が「美しく、何の汚れもない」存在として聖書の中に描かれていると思われる箇所は、アダムとエバが罪を犯す前のエデンの園においてであり、もう一つは花婿キリストが整えられた花嫁を迎えに来る時です。二人は天において夫婦水入らずで七年間のハネムーンを過ごすのです。そのときの二人の愛の情景を雅歌は描いていると信じます。

1. 創世記のアダムと雅歌の花婿が放った驚きと喜びの声

(1) アダムが放った驚きと喜びの声

【新改訳改訂第3版】創世記 2章23節
人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

  • 神は天と地を造られ、その地に神のかたちに似せた創造の冠としての人(男と女)を置かれました。しかも、「それは非常に(極めて)良かった」(「トーヴ・メオード」
    טוֹב מְאֹד)と神は見なされたのです。創世記2章においては男と女の創造が別の視点から記されています。それによれば、神である主が「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふわしい助け手を造ろう。」と仰せられて、人に深い眠りを下され、彼のあばら骨の一つを取って、ひとりの女を造られました。そしてその女を人のところに連れて来られた時に、人は「これこそ、今や、私の骨からの骨・・・」と言って驚き、喜んだのです。
  • 男が自分から造られた女を見たときに口から出た「これこそ、今や(=ついに、これこそ)」という言葉には深い感動が隠されていることは言うまでもありません。そこには、それまで見出すことのできなかった、自分に合う「ふさわしい助け手」(「エーゼル・ケネグドー」עֵזֶר כְּנֶגְדּוֹ)が、「突然」「一気に」(「パアム」פַּעַם)与えられた驚きと喜びが含まれています。まるで、子どもがずっとほしかったものを、突然プレゼントされた時の驚きの様子に似ています。

(2) 雅歌の花婿が放った驚きと喜びの声

  • アダムの驚きと喜びを「雅歌」流に表現するならば、以下のようになるのではないかと思います。

【新改訳改訂第3版】雅歌4章1節、7節
4:1 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、
4:7 わが愛する者よ。あなたのすべては美しく・・

  • 「ああ」と訳されたことばはヘブル語で「あなたは見よ」(「ヒンナーフ」הִנָּךְ)です。アダムのときと同様、花婿にとって「最もふさわしい人を見つけた」ときの喜びを表わすのに十分なことばだと思われます。ここでの「美しい」もその意味において解釈されるべきです。「なんと美しいことよ」と二度も繰り返されて記されているのは、それが最上の美しさを表わすヘブル的表現方法だからです。このような二重の表現をするのは、ヘブル語には最上級を表わす形容詞がないからなのです。ちなみに、雅歌にはこうした表現法が随所に見られます。他に4章では、

    8節「私といっしょに」(「イッティー」אִתִּי)
    9節「あなたは私の心を奪った」(「リッバヴテニー」לִבַּבְתִּנִי)
    9節「ただ一度で(ただ一つで)」(「べアハッド」בְּאַחַד)
    12節「閉じられた」(「ナーアル」נָעַלの受動分詞「ナーウール」נָעוּל)

    といったフレーズが、いずれも二重に繰り返されています。
  • ところで(話を創世記2章に戻します)、「一体」とされた二人の喜びがいかなるものであったのか、聖書はそれを詳しく記すことなく、彼らが罪を犯した出来事に話が進んでいます。そのために、私たちは彼らが罪を犯す前の愛のかかわりがどんなものであったのか、その二人の喜びがいかなるものであったのか、人間の経験の枠でしか知ることができないのです。そのときの喜びが雅歌の中に注解されているのではと考えます。とはいえ、罪を犯す前のいわば「エデンの園」における愛をこの世のことばで表わすことは至難なはずです。しかし神は、「雅歌」(歌の中の歌)の存在を通して、神と人、男と女、花婿と花嫁、キリストと教会における至上の「一体への希求と成就の喜び」を私たちに伝えようとしておられるのだと信じます。もし「雅歌」がなかったとしたら、エデンの園における「アダムとエバ」、やがて成就する花婿なるキリストと花嫁なる教会の「一体」の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」がどれほどのものかを理解することは到底できないのではないかと思います。
  • それゆえ「雅歌」が必要なのです。しかしこれは「乳ばかり飲んでいるような者」には難解の書です。この「雅歌」は、「義(神のかかわりの秘義)の教え」に通じている大人が食べる堅い食物です。堅い食物を食べられるような大人となるために、私たちは絶えず成熟を目ざして進まなければなりません。時には、花婿を求めて断食をするほどに集中する花嫁とならなければなりません(マタイ9:15)。「雅歌」は、神のご計画の完成に向けたこれからの書として、また、花婿なるキリストと花嫁なる教会との生きたかかわりを学ぶにふさわしい最高のテキストだと信じます。

2. 「私の妹、私の花嫁」という表現

  • 雅歌4章8節以降には新たな展開が見えます。それは、これまで花嫁を「わが愛する者」と呼んでいた花婿が、突然、8節で「花嫁」(+11節)と呼び、9節では「私の妹、花嫁よ」と変化します(4:10, 12/5:1)。雅歌においてはじめて登場する呼称なのです。これらの呼称は何を意味しているのでしょうか。それは、おそらく、二人の愛の成就である一体への希求と婚姻後に共に味わう喜びを思い描いて歌っていると考えます。
  • 「妹」と訳されたヘブル語は「アホーティ」(אֲחֹתִי)で、実際の血のつながった妹を意味します。同時にそれが妻となる「花嫁」(「カッラー」כַּלָּה)と呼ばれています。中近東においては近親者との結婚は普通のことであったようです。信仰の父アブラハムの妻サライも、事実、血のつながった妹でした。アブラハムだけでなく、イサクの妻リベカ、ヤコブの二人の妻レアとラケルもみな血縁者です。そもそも神の歴史における最初の夫婦において妻となったエバはアダムから造られました。これほどに近い者はいなかったはずです。従って、花婿にとって「私の妹」であり、同時に「私の花嫁」であるというのは不思議ではないのです。さらに重要なことは、キリストの花嫁(教会)も花婿なるキリストから生まれた(造られた)という事実を忘れてはなりません。

3. 花嫁を誘い出そうとする花婿

  • 4章8節にのみ注目したいと思います。

【新改訳改訂第3版】雅歌 4章8節
花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニル、すなわちヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りて来なさい。

【現代訳(尾山訳)】
花嫁さん。私といっしょにレバノンへ行こう。そして、ヘルモンの頂上から下りて来よう。


●新改訳は原文に忠実に訳されていると思いますが、意味が分かりません。ところが尾山訳は、花婿が花嫁にレバノンにデートしようと誘いをかけている様子を描くことができます。

●原文を見ると「メーム」(מ)で始まる単語が多く使用され、それが頭韻となって花婿の巧みで心地よい誘いのリズムが作られています。
①「レバノンから」(「レヴァーノーン」מִלְּבָנוֹן)。これが2回。
②「頂から」(「ーローシュ」מֵרֹאשׁ)。これが2回。
③「(獅子の)ほら穴から」(「メオノート」מִמְּעֹנוִת)
④「(豹の)山々から」(「ーハルレー」מֵהֲרְרֵי)

●尾山訳は、レバノンの山々(アマナ、セニル=ヘルモン)を一つにして、「ヘルモン」としています。

  • 「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。」とは少々理解しにくい訳ですが、これはどういう意味なのでしょうか。「レバノン」(לְּבָנוֹן)という語彙は雅歌の中で6回使われていますから重要な語彙です(3:9/4:8, 11, 15/5:15/7:4)。「レバノン」の山の頂は、年中雪で覆われているためか、「白い山」という意味です。特に、高くまっすぐに伸びた姿と芳ばしい香り、また虫喰いにも強いとされる「レバノン杉」は、聖書では「崇高さ、気高さ、繁栄、永遠のいのちの象徴」として仰ぎ見られています(脚注)。
  • 雅歌における「レバノン」は象徴的な意味で「白くされる」「純潔」というイメージがあります。俗世間から遠く逃れて、二人だけで親密に交わされるシークレット・プレイス、それが「レバノン」なのかもしれません。花婿が、そこへ行って二人でいっしょに過ごして来ようと花嫁を誘い出そうとしているとも考えられます。


脚注

●「レバノン」や「レバノン杉」が、雅歌のように良いものの象徴として用いられることもあれば、他の箇所では悪いものの象徴として用いられることもあります(例としてエゼキエル31:3~5, 10~11)。真の象徴にはすべて相反する二つの意味が含まれていることが多いのです。雅歌4章で初めて登場する「花嫁」を意味する「カッラー」(כַּלָּה)という語彙にも、「完成・成就」という意味と「絶望・滅亡」という意味が含まれています。それは象徴が持つアンビバレントな両義性の表われなのです。

2015.8.25


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