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「種蒔く人のたとえ」

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54. 「種蒔く人のたとえ」

【聖書箇所】マタイの福音書13章1~23節

1. イェシュアの語る「種蒔く人のたとえ」(1~23節)

(1) 「状況設定」におけるメッセージ

【新改訳2017】マタイの福音書13章1~3節
1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた
3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。

  • ここで注目すべきことは、「その日」という言葉です。「その日」にイェシュアは群衆にたとえで話をされたことが記されています。12章の終わりに家の中で話された日と同じ日です。伝道者の書11章6節に「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。」とあるように、イェシュアはそれを実践されました。イェシュアの全生涯はすべて御国の種を蒔かれた日々と言えるのです。12章では9節でイェシュアは「会堂」に入られ、そこで律法学者やパリサイ人たちの質問を受けています。そのあと、会堂を立ち去りますが、多くの人(律法学者もパリサイ人たちも)はイェシュアについて来ました。12章の終わりには家の中で群衆に対して説教をしています。そして13章1節に、その日、イェシュアが家を出て、湖のほとりに座っていると、大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イェシュアは舟に乗って腰を下ろされました。湖と陸を隔てるようにして、群衆はみな岸辺に立っていたとあります。イェシュアと群衆との間に湖と陸を隔てるようにして一線が引かれている「岸辺」(「セファット・ハッヤーム」שְׂפַת הַיָּם)の状況設定も、イェシュアが多くのことをたとえで語られたことと密接な関係があるのです。というのは、イェシュアが多くのことをたとえで語られたのは、人々に理解しやすくするためのものではなく、むしろ、御国の奥義を求める者とそうでない者とをはっきりと分ける(分離する、隔絶する)ための神の知恵が隠されているからです。マタイ12章47節にもイェシュアの母と兄弟たちが「外に立っていた」状況と重なっています。「外に立っていた」も「岸辺に立っていた」もいずれも「イステーミ」(ἵστημι)です。家の内と外、岸辺を境に湖と陸というように、領域が異なっているのです。

(2) 「種蒔く人のたとえ」

3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

  • イェシュアがたとえを語り出すときに、「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)があります。これまでもそうであっように、この語彙があるときは要注意です。これはイェシュアが御国のことを語り出す常套句だからです。

4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。
8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
9 耳のある者は聞きなさい。」

(3) 「種蒔く人のたとえ」のこれまでの解釈

  • 「種蒔く人」のたとえの従来の解釈を、18~23節にある箇所から述べてみたいと思います。そこでは、
    「種」とは神のみことばであり、私たちの心に蒔かれているというものです。しかも私たちの心には四種類あって、どの心にも、みことばの種は例外なく蒔かれるのです。ただその違いはみことばを聞く態度です。私たちの聞く態度によって、道端にもなり、岩地にもなり、茨の中ともなり、良い地にさえなれるというものです。

(1) 道端に蒔かれるとは、聞いても理解しようとしない頑固な心の人です。頑固とは自分の得た経験や知識でものごとを考え、砕かれていない人のことです。
(2) 岩地に蒔かれるとは、みことばが心にすぐに入りますが、根がないために、しばらく続くだけで枯れてしまう人のことです。みことばにいち早く感動しますが、困難や迫害が起こるとすぐつまずいてしまうのです。
(3) 茨の中に蒔かれるとは、問題は地(内)にではなく、外にある人です。この世には信仰をふさいでしまうような世の思い煩いと富の誘惑がたくさんあります。それに支配されるなら、信仰は窒息してしまいます。しかし、
(4) 良い地に蒔かれると、種は豊かに成長して、実を結びます。
したがって、あなたは道端でも、岩地でも、茨の中でもなく、神の前に何もない無地の心とならなければならない。そうすることによって、あなたは何十倍、何百倍の実を結ぶでしょう・・・という努力目標の教訓的な話となってしまいます。これが教会学校で語られている分かりやすいたとえの解釈です。

  • しかしこのたとえの解釈のどこが奥義なのでしょうか。子どもでさえも理解できる話です。このようなメッセージをするために、イェシュアはたとえを話されたのでしょうか。実は、18~23節は3~8節の話を言い直して解説しているにすぎません。このたとえの要点は中間にある10~17節の部分です。なぜなら、そこにはなぜイェシュアがたとえを用いて話すのか、そこに御国の奥義が記されているからなのです。そこを理解するなら、なぜイェシュアが同じ話を繰り返されたのかが分かるのです。それは後程見ることにします。

2. 天の御国の奥義(なぜイェシュアはたとえで話されたのか)

【新改訳2017】マタイの福音書13章10~17節
10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。
11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されて」いません。
12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。
13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。
14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。」
16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。

  • 上記の箇所を一つずつ見ていきたいと思います。

10節 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。

  • 弟子たちの問い、「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」はきわめて重要です。なぜなら、この問いがないところには、奥義は隠されたままで、開かれることはないからです。ここでの「たとえ」は複数形です。「たとえ」はギリシア語で「パラボレー」(παραβολή)です。ギリシア語の「パラボレー」とは、元々あるものの「傍らに(パラπαρα)」もう一つのものを「置いて(バローβολλω)」比較することを意味します。つまり、新しい事柄と既知の事柄とを合わせて考え理解するという意味ですが、ヘブル語の「たとえ」は「マーシャール」(מָשָׁל)(複数形は「メシャーリーム」מְשָׁלִים)は少々意味が異なります。ヘブル語の「たとえ」は、何か賢明で重みのある教訓的なことわざとか、謎という意味があります。その動詞である「マーシャル」(מָשַׁל)は、「たとえを語る」という意味がありますが、同時に、「支配する、統治する」という意味もあります。つまりイェシュアにとって「たとえを語る」とは、ご自分が御国を支配するメシアとしてふさわしい支配・統治のあり方なのです。しかもそれは天の御国の奥義であるため、それを求めようとしない者には、たとえは意味の分からない「謎」となってしまうのです。

11節 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。

  • ここの「あなたがた」とはイェシュアの弟子たちのことです。そして弟子たちは「天の御国の奥義」を知ることが許されているが、「あの人たち」には許されていないのです。「あの人たち」とはイェシュアの弟子以外の者たちという意味です。「許されている」と訳されていますが、原語は「与えられている」という意味の「ディドーミ」(δίδωμι)が使われています。つまり、イェシュアの語る「天の御国」は、弟子たちにはその知識と祝福が与えられていますが、弟子たち以外の人々にはそれが与えられていないということです。
  • 奥義」(「ミュステーリオン」μυστήριον)という言葉は、マタイの福音書ではここ一回限りの語彙ですが、とても重要です。「奥義」とは世々の昔から、多くの世代にわたって隠されてきたことが、神の定めた時に、特定の人だけに明らかにされることを意味します。パウロはその一人で、神は彼に多くの奥義を啓示されました。イェシュアのほかに、「奥義」ということばを最も多く使っているのはパウロだけで、21回手紙の中で使っています(黙示録に、旧約聖書のヨブ記にそれぞれ1回ずつあります)。奥義を一言で言い表すなら、それは「キリストにある栄光の望み(=メシアによる王国の支配・統治のすばらしさ)」のことです。

12節 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。

  • ここで「持っている人」と「持っていない人」との対比がなされています。「持っている人」とは、「天の御国に関する知識と祝福を与えられている者」のことであり、その者がさらに得ようとするなら、それが豊かに与えられます。しかし反対に「持っていない人」とは、文字通り「御国に関する知識と祝福を持っていない者」のことであり、その者は契約の民としてすでに与えられている特権までも(神によって)奪い取られるということを意味しています(マタイ25:29も参照)。

13節 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。

  • イェシュアが「たとえ」で話す目的は、「彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです」とあります。イェシュアによれば、彼らは病人が癒やされ、多くの奇蹟を見たりしながら、さらにはイェシュアの語ることばを聞きながらも、それを理解しようとも、悟ろうともしないからです(「悟る」のヘブル語は「ビーン」(בִּין)ですが、このことばだけで、「理解する、悟る」という意味になります)。したがって、彼らは悔い改めることがなく、救いに至ることもないのです。これが、イェシュアがなぜたとえで語られるかという理由なのです。一見、たとえで語るのは、悟ろうとしない者に対するさばきの一面があるということです。

14節 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
15節 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』

  • 「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない」のは、心が鈍くなっているためで、自ら神に立ち返ろうとしていないからだとしています。これはイザヤがすでに預言していたことなのです。そしてイェシュアがたとえで語ることによって、それを実現させたのです。

16節 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
17節 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。

  • マタイの福音書13章10~17節の中で「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」ということが、最も重要な部分です。なぜなら、「多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けなかった」からです。それなのに、あなたがたはそれを見ているので、聞いているので、幸いなのです。「多くの預言者や義人たちが切に願った」ことは、まさに「天の御国の到来」のことであり、それがメシアであるイェシュアにおいて実現されることだったのです。
  • そして再度、たとえが語られます。これは群衆に対してではなく、弟子たちに対するものです。弟子たちとは「御国のことばを聞いて悟る者」として選ばれた者たちなのです。そして同時に、その者たちは実を結ぶ者たちでもあるのです。ですから「幸いなのです」。ここでは努力目標としての教訓的教えではありません。次のみことばをそのように読み取るべきなのです。

18節 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
19節 だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
20節 また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
21節 しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
22節 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
23節 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

  • 「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです」とあります。主の弟子たちは良い地に蒔かれたものたちであり、みことばを聞いて悟る人と同義だということです。サタンの働きの中にあっても、このような者たちが存在することが実に不思議なことなのです。「みことばを聞いて悟る」とはどういうことなのでしょうか。「みことば」の内実とは「御国のことば」であり、それを聞いて悟るものこそが良い地に蒔かれたものなのです。「聞く」も「悟る」も共に現在分詞形であることから、じっくり聞き続け、深く悟り続けるというニュアンスです。二つの語彙は密接につながっています。
  • 聞いて悟った人はどうなるのでしょうか。おそらく使徒パウロのように、その人の目からうろこのようなものが落ちる経験だろうと思います。そして使徒パウロがそうであったように、生き方が180度大きく変えられて、神に専心する者となるに違いありません。それはまさに「地の塩」であり、「世の光」として輝く存在であることでもあるのです。
  • 良い地では、「あるものは百倍、あるものは六十倍、ある者は三十倍の実を結ぶ」とあります(「倍」ではなく「個」と訳す人もいます)。「御国のことばを聞いて悟る人」として選ばれた主の弟子たちは、それぞれ差はあっても実を結ぶことに違いはありません。それはメシアの主権によって、それぞれの弟子たちに対して定められたものであり、それは個性というべきもので、優劣はありません。
  • そして、ここには13章9節にあった「耳のある者は聞きなさい」というフレーズはありません。なぜなら、主の弟子(御国の民)たちの耳は聞いている者たちだからです。

べアハリート

  • 「種蒔く人のたとえ」は、主によって選ばれた弟子たち(=幼子たち、小さな者たち)に対するイェシュアの最大の励ましであり、これこそが「この世の取るに足りない、弱い」私たちを祝福しようとする「天の御国の奥義」と言えるのではないでしょうか。イェシュアがたとえで話すのは、敵であるサタンの働きがあるこの世において(鳥、岩地、茨)、選ばれた御国の民(良い地)がより豊かに実を結ぶための励ましなのだということを、心に留めたいと思います。

2019.5.12


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