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「結実」をもたらす露

5.「結実」をもたらす露

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聖書箇所; 出16章13~14節、民数記11章9節、
ガラテヤ書5章22~23節、詩篇133篇3節

はじめに

  • 「露」は「はかなさ、虚しさ」というイメージを持っています。一介の農民から関白まで上り詰め、自分が望むことはなんでもできた豊臣秀吉の辞世の句―「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪花のことは 夢のまた夢」―をあげるまでもなく、聖書にも同じくそのようなイメージとして使われています。たとえば、ホセア書6:4に「あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」とあるとおりです。しかしここでは、天からの「露」のしたたりが地に産物をもたらすというイメージで受けとめたいと思います。
  • 「露」という象徴で表されている聖霊の働きは、第一に「日々の糧を豊かに与えるお方として」、第二は「豊かな結実を与えるお方として」、第三は「神の夢である神の民の一致を実現させるお方として」瞑想したいと思います。

1. 日々の糧を豊かに与えることのできる聖霊

【新改訳改訂第3版】出エジプト 16:13,14
「・・朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。」
【新改訳改訂第3版】民数記 11:9
「夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。」

第一に、聖霊が「露」として象徴されるのは、日々の糧を豊かに与える働きのゆえです。

  • 耕すことなど到底できない、砂漠のような荒地を40年間も放浪したイスラエルの民が不思議なことに「マナ」という食べ物を日々神から与えられました。その「マナ」は露が降りるときいっしょに降りたとあります(民数記11:9)。つまり、夜露、朝露とともに「マナ」が地に降りたのです。「露」とは聖霊のことだと言えます。聖霊と神のことばであるパンは常に密接なかかわりを持っています。ヨハネの福音書3:34にはこうあります。「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」と。御子イエスが人々に神(御父)のことばを自由に、ありのままに、またいのちをもって語らることができたのは、御霊が無限に与えられていたからだとヨハネは記しています。御子イエス自身が神のパンとして、天から下ってきて、世にいのちを与えることができたのは、いっしょに天からの露、つまり御霊も下って来られたからです。
  • 荒野における40年間の「マナ」の奇蹟はひとつの型と言えます。「マナ」は「神があなたがたに食物として与えてくださったパン」(出エジプト16:15)でした。しかし、彼らはそれを必要に応じて日々集めなければなりませんでした。次の日まで残しておくことはできませんでした。朝ごとに、各自食べる分だけ集めなければなりませんでした。モーセは訣別説教の中で「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた、それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたを幸せにするためであった。」(申命記8:16)と言いましたが、ここでの「あなたを苦しめ」とは、彼らが毎日それを集めなければ生きられなかったことを意味します。貯えることができなかったからです。新鮮な天からのパンが毎日与えられなければ、彼らは飢え、弱り果て、何もできなくなってしまいます。このことは今日においても同様です。昨日のパンは今日の霊的な必要を満たすものではないからです。頻繁に私たちは主の食卓に行かなければなりません。そうでなければ、神の民としての必要な霊的な力を得ることはできないことを教えています。
  • 牧師が羊を養うために必要なことは、日々、露とともに降りるマナによって養われていなければなりません。そうでなければ、羊の群れはみことばの飢饉を招いて弱り果てることになります。主の食卓にあずかって良いものを得ることがなければ、霊的な病と死を招くことになります。神の民としての生存の保障であるパンは十分に天に蓄えられていますが、それは、日々、聖霊とともに豊かに与えられなければなりません。そのようにして神のパンを食べるならば、イエスご自身が送られたような質の高い生活を送ることができるようになると信じます。
  • まずは、みことばのために召し出された牧師たちが最もそのすばらしさを聖霊によって味わっていなければならないと思います。初代教会が食べ物の問題のことではじめて分裂しかかったとき、兄弟たちの中から「御霊と知恵に満ちた者たち」七人が選ばれました。しかし12使徒たちは、「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励む(専心する)ことにする」と言って、それを教会の最も優先すべき事柄としました(使徒6:1~4)。今日の教会もこの優先順位が崩れるとき、霊的な死は免れません。今日、霊的飢饉は予想以上に神の家に広がっているように思えるのです。御霊による豊かな主の食卓こそ、神の民たちが神の民として整えられていく上で一番必要としているものだと信じます。

2. 豊かな結実をもたらす「天の露」としての聖霊

【新改訳改訂第3版】ガラテヤ書5:22, 23
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

第二に、聖霊が「露」として象徴されるのは、結実をもたらす働きのゆえです。

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  • 「雨」のところでも見たように、イスラエルの気候は、大きく夏季(5~10月の乾季)と冬季(11月~4月の雨季)に分かれます。冬季は小麦などの穀物の種を植えて、それを収穫するまでの時季を言います。夏季は土地が緑から茶褐色に変わり(この点は日本とは全く異なります)、多くの花々もほとんど枯れて、この時季に収穫できるものといえば、「ぶどう」「いちじく」「ざくろ」「オリーヴ」「なつめやし」「いちじく桑」「アーモンド」などといった果樹です。
  • 乾季にもかかわらず、どうして多くの果物が収穫できるのでしょうか。それは天から降る「露」の恵みがあるからです。この気候的な恵みは霊的な結実のたとえでもあります。
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  • イエス・キリストは「ぶどうの木とその枝」のたとえ話の中(ヨハネの福音書15章)で、「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」と言われました。そして御子イエスが御父にとどまっておられたように、「わたしにとどまりなさい」、「わたしのことばにとどまりなさい」、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われました。「とどまるならば、多くの実を結ぶ」と言われましたが、この「とどまる」という秘儀の中に寄り添う御霊の働きがあります。ぶどうの木は露なくして実を結ぶことができません。御霊は枝である私たちが主に「とどまる」ことを得させてくださることによって、多くの実を結ぶことのできる露としての働きをなしてくださるのです。
  • その御霊が結ぶ実は、ガラテヤ書5章22, 23節にあるように九つ上げられています。それらはすべて「とどまる」ことを通してもたらされます。神とのかかわりにおける結実としての「愛」「喜び」「平安」、人とのかかわりにおける結実としての「寛容」「親切」「善意」、また自分とのかかわりにおける結実である「誠実」「柔和(忍耐)」「自制」が取り上げられていますが、これらはみな神との信頼の絆がもたらす結実といえます。
  • イスラエルの果実が乾季の厳しい気候のもとでも結実するように、神の民も同様にさまざまな試練の中で実を結ぶように定められています。しかし聖霊の働きによって神とのゆるぎない信頼関係が築かれていくとき、人とのかかわりにおいても、自分とのかかわりにおいても、多くの実が結ばれていくのです。

3. 神の夢である神の民の一致のヴイジョンを実現させる聖霊

詩 133:3
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。
【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

  • 第三に、聖霊が「露」として象徴とされるのは、神の夢である一致という結実をもたらす働きをするからです。
  • 詩篇133篇を見てみましょう。ここには神の家の一致のヴィションが描かれています。
    「見よ。兄弟が共に住む、なんという幸せ、なんというしわあせであろう。」(原文では「ヒネ・マ・トーヴ・ウー・マ・ナイーム」で、「見よ。何という幸い、何という楽しさ」を意味しています)で始まる詩篇133篇の内容は、神の民が「共に住む」という現実(リアリティ)です。「共に住む」とはいったいどういうことなのでしょうか。
  • 「共に集まり、共に歌い、共に礼拝し、共に戦い、共に交わり、共に苦しみ、共に喜び、共に泣き、共に助け合い、共に結ばれ、共に住み、共に成長し、共にいこい、共に包まれ、共に編みこまれ、共に形づくられ、共に組み立てられ、共に働き、共に歩み、共に語り、共に親しく交わり、共に建て上げる」
  • 「共に住む」こと、そこには生きた愛の交わりがあります。そのことを聖書では「いのち」というのです。「永遠のいのち」とは神のいのち、神との愛の永遠の交わりを意味しています。
  • 3節の「それはまたシオンの山々に下りるヘルモンの露にも似ている」とはどういう意味でしょう。露は寒暖の差が大きいとより多くできます。ヘルモン山の周辺にはおびたただしいほどの露を発生するようですが、シオンにそうしたヘルモンのおびただしいほどの露が降るということはありません。ところが、兄弟たちが共に住むというリアリティの中にヘルモンの「露」にも似た霊的な祝福が注がれると表現しているのです。その理由は、「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」としています。つまり、おびただしい露があるところに、主のとこしえの祝福があるということです。これはやがて終わりの日に実現する神の民の一致を指し示しています。ユダヤ人も異邦人クリスチャンも「隔ての壁」が打ち破られて平和が実現するヴイジョンです。また、現在、虚無に服してうめいている被造物全体の調和が贖われた民を中心にして回復します。壮大な神の回復の計画、共に住むという一致のヴィジョンの実現が聖霊によってなされるのです。「大雨」のシンボルでは「後の雨」として記されているところですが、ここではおびただしい露がもたらす結実として描かれています。
  • 初代教会において、この一致のヴィジョンは「共に住む」というかたちで実現しました。そのことが使徒の働きの2章に示されています。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。」とあります。それぞれが自ら、強制されてではなく、自発的にささげることによって「共に住む」ための必要がまかなわれました。46節には、「・・毎日、心を一つにして、宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。
  • 彼らは特別伝道集会を開いたわけではありません。トラクトを配布したわけではありません。「主が、そこにとこしえのいのちの祝福を命じられた」というリアリティが聖霊によって実現したのです。しかしこれは今だ神の計画において未完成です。
  • 「共に住む」という具体的な生活は、食卓を共にするということです。

    ある作家の講演が北海道新聞に掲載されていました。

    「彼の両親は、会津から北海道へ出稼ぎに来て、そのまま滝上町というところに住み着いて、炭焼きの仕事を16年ほどしました。その作家は炭焼き小屋で生まれ、4歳くらいまでそこで育ったそうです。炭焼き小屋というのは非常に質素な作りの建物ですが、彼にとっては家であったのです。なぜならそこには家族がいて、一緒にに食事をし、生活していたからです。狭い家に10人家族が暮らしていました。中学1年まで父と同じ布団に寝ていたほどで、もちろん勉強部屋もなく、夕食の後は茶の間で勉強したり、本を読んだりしていました。おなじ空間に住んでいるわけですから、両親の家計の厳しさも、子供ながらにひしひしと感じていました。親が子供に見栄を張ることがないため、子供のほうも、ほしい物が買ってもらえなくても黙っているしかありませんでした。そんな彼が大人になり、結婚し、子供も与えられて、一戸建ての家がほしいということで家を建てました。新築の家をです。しかしこれが失敗でした。だ小説を書くために、何よりも書斎を中心にと考えて20畳ほどの広さを取ったため、台所や居間などに広さも予算を割くことができませんでした。その結果、家族が集まる団欒の場所を圧迫してしまったのです。そうなると、家族の生活そのものがおかしくなってしまったのです。・・・・」

  • 現在の家族はみんなが個室を持ち断絶状態にあります。つまり、お茶の間文化そのものがなくなりました。家は家族の母港であり、家の中で共に住むということは、家族が集まる場所を確保し、そこで食卓を共にすることなのだ、とその作家は言っています。このことは霊的な世界においても言える重要なことであろうと思います。
  • 放蕩息子のたとえ話で、息子が帰郷して、自分の家に帰った話があるが、聖書は「家に帰ること」、これが救いであり、いのちなのだと教えています。しかもその家は父の家、失われることのない、永遠の親しい家庭、愛の交わりのある家に帰ることが救いだと教えているのです。
  • 「御父、御子、御霊なる三位一体の神の愛の交わりの中に招かれること、帰ること」、それが聖書のいう「いのち」であり、「救い」です。それゆえ「共に住む」という結実を祈り求めていきたいと思います。それは具体的に主の食卓を共にすることであり、それを豊かにすることです。聖書は神の国の祝福をしばしば食卓を囲む祝宴にたとえています。しかし「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」 (詩篇127:1)とあるように、これは決して容易ことではありません。なぜなら主の食卓は聖霊がもたらす結実で、私たちの努力で出来ることではないからです。しかし初代教会においてある意味ではそれが実現したのです。そして私たちの内に住まれる聖霊は、今日においても、「終わりの日」においても、ヘルモン山の露のように、私たちの予想をはるかに越えた「一致」の結実をもたらしてくださると信じます。なぜならそれが神の救いの計画の目的だからです。
  • 神の救いのご計画は、キリストにあって、すべてのものがー天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてがーひとつになることです。一致のヴィジョンはキリストの再臨において終結します。そのことを待ち望みまながら、共に、永遠の主の食卓を囲むことを祈り求めてて行きたいと思います。


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