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「聖絶」

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3. 「聖絶」

【聖書箇所】3章1~29節

1. 「聖絶する」という語彙

  • 申命記2章34節に初めて出て来ることばがあります。それは「聖絶する」(「ハーラム」חָרַם)ということばです。3章6節においても「私たちはヘシュボンの王シオンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々を聖絶した。」とあるように「聖絶する」という動詞が2回出てきます。
  • モーセは申命記において約束の地に入る民に対して、荒野の旅の道程を回顧させます。その回顧で重要なことは、神がイスラエルの民にどのようにかかわられたかという「神のストーリー」です。神のストーリーを回顧させることで、その出来事の目的を新たに自覚させ、神に対する民のあり方を促そうとしているわけです。申命記2章、3章に記されている回顧の出来事で特に目を引くのは、第二世代の民たちが、ヘシュボンのシホン王国とバシャンのオグ王国を「聖絶した」という戦いの出来事です。それをモーセは思い起こさせています。
  • 「聖絶する」という動詞「ハーラム」(חָרַם)は旧約で51回使われていますが、この動詞はヨシュア記のいわば特愛用語です。ヨシュアの率いるイスラエルの民は、神がすでに「与えた」と言われる約束の地カナンに侵入し、そこを征服し、占領していくその戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されています。ヨシュア記には動詞「ハーラム」(חָרַם)が14回、名詞の「ヘーレム」(חֵרֶם)が13回使われているのを見てもそれが分かります。
  • 動詞の「ハーラム」(חָרַם)の英語訳は totally destroyed, completely destroyed です。つまり、徹底的に破壊する、完全に破壊する、すべてのものを打ち殺すという意味です。名詞の「ヘーレム」(חֵרֶם)の英語訳は、devoted things, set apart for destructionで、神にささげられた物、破壊のために取り分けられたものという意味です。

2. 「聖絶する」という行為の真意

  • 大切なことは、この「聖絶」について正しい理解を持たなければならないということです。モーセの訣別説教である申命記においても、この「聖絶」は動詞と名詞を合わせて11回使われています。いったい、この「聖絶する」ということはどういうことなのか、なにゆえに、聖絶しなければならないのか、その意味するところを知らなければならないのです。
  • ことばの意味だけを考えるならば「なんと残酷な」と思うかもしれません。しかし聖絶とは、「神のものを決して人間が自分のものとして横取りしてはならない」ということです。どんなに価値あるように思えても、それを残して、自分のために取り分けたりしてはならない。完全に神のものとしてささげる行為-これが「聖絶する」という意味です。
  • モーセも「聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。」(申命記13:17)と語っています。ヨシュアも約束の地を征服していく前に、民たちに「ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。」(ヨシュア6:18)と警告しています。しかし、ユダ部族のアカンはこのヨシュアの言いつけを守らず、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分のものとしたのです。そのためにイスラエルの敗北を招き、彼自身も身を滅ぼすことになりました(ヨシュア記7章)。
  • イスラエルの最初の王サウルも、このことにおいて失敗した王でした。彼は肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶したのです。それゆえ、サウル王は王としての立場から退けられました。
  • 神が「聖絶する」ことを民に命じたその意味はいったい何なのか。その真意は「神の民が聖を失って、他のすべての国々のようになってしまわないため」です。神は聖絶によってご自身の民がこの世のものと同じくなることを防ごうとされたのです。つまり「聖絶」とは、神の「聖」を民に意識させて、それを守らせる戦いだったのです。

3. 神の「聖」を守る戦い

  • 神の民である私たち(主の教会)がこの世にありながら、この世のものでないという在り方を保つためには、世俗性と戦う必要があります。世俗性とは何なのか。それは難しい問題ですが、だからと言って避けて通れる問題ではありません。「世俗性」をあえて定義するとすれば、それは「神への信頼を妨げる一切のもの」と言えます。ことばは簡単ですが、神を信頼して生きる道は常に不安定で困難な道だということです。食糧が底をつく時、敵が目の前にやって来た時、果たして神を信頼するだけでよいのかという疑問が頭をかすめます。そうした事態においても、神のストーリーを思い起こし、完全に神に信頼できるかどうか、そこに世俗性との戦いの接点があります。
  • いつの時代にも世俗性の問題は顔を出します。「聖絶」の意味するところは、神の民がリスクの多い神への信頼への道に従うかどうかそのための試金石であったということです。モーセは約束の地に向かう新しい世代にそのことを思い起こさせているのだと思います。
  • 詩篇119篇の作者の言う「全き道」(1節)とは、完全に神への信頼をもって生きる生き方を意味していました。自分たちの国を失い、指導者を失い、神殿を失ったバビロン捕囚という辱しめと失敗の経験を通して学んだことは、主の律法(みおしえ)のうちにある「奇しいこと」(それは、人間の基本的なニーズとしての生存と防衛の保障を神が与えてくれるという信仰の世界)でした。私たちは、もっともっと霊の目が開かれて、この神を信頼することを、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」から学ばなければならないことを思わせられます。なぜなら、この方こそ神を信頼するということにおいて「試みを経た石」なのですから。

付記
なにゆえにヨルダン河を渡ったのはモーセではなく、ヨシュアだったのか

ー(その必然性)ー

【新改訳改訂第3版】申命記3章23~28節
23 私は、そのとき、【主】に懇願して言った。
24 「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。25 どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」
26 しかし【主】は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして【主】は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。
27 ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。
28 ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」

●モーセが率いる次世代のイスラエルの民は、ヨルダン川の東側において、すでにアルノン川を渡り、ヘシュボンの王エモリ人(=アモリ人)シホンとその国、さらにバシャンの王オグの町々をことごとく攻め取っています。そしてそこをルベン族、ガド族、マナセの半部族に相続する約束をしています。なんとモーセの指導者としての力量は減少していません。モーセもなんとかヨルダン川を渡ってカナンの地に行きたいと懇願していますが、その願いは主によって却下されています。それどころか、「ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。」と命じられています。なにゆえに、主はモーセに代えてヨシュアに指導者としてのバトンを渡すように命じられたのでしょうか。その必然性について考えてみたいと思います。

画像の説明

●上記の図は、イスラエルの地形の断面図です。モーセはピスガの頂上に登りました。そこは「ネボ山」(800m)で、民数記27章12節によれば、アバリム山の中にある一つの山です。

●地形を見る限り、ネボ山からヨルダン川までの標高差は少なくとも1100mあります。しかもカナンへの侵入口は東からです。ひれは、終わりの時、メシアは東からやってくることの型です。「ヨルダン」(「ヤルダーン」יַרְדָּן)の語源は「ヤーラド」(יָרַד)だと考えられます。「ヤーラド」は「降りて来る」「低くなる」「へりくだる」という意味を持っています。つまり、モーセの従者「ヨシュア」(「イェホシュア」יְהוֹשֻׁעַ)は、やがて、へりくだって、高い所から降りて来られるメシアの型となっているということです。そのヨシュアが約束の地カナンを神の民イスラエルに受け継がせるのです。そのためには、ヨシュアは「ヨルダン川」を渡らなければならないのです。ここに、ヨルダン川を渡るのはモーセではなく、ヨシュアでなければならない必然性があります。

●このような型は、創世記5章にも見ることができます。聖書で初めて「神とともに歩いた」エノクが死を経験することなく天に挙げられましたが、その彼の父の名前がエレデ(יֶרֶד、口語訳は「ヤレド」、新共同訳は「イェレド」)です。「エレデ」の語源はヨルダンと同じく「ヤーラド」(יָרַד)です。この父と子の関係が重要です。父がへりくだるという意味を持つことで、子のエノクは天に昇ることができたというメッセージが隠されているのです。「エノク」(「ハノーフ」חֲנוֹךְ)の名前も「神にささげられた者」(献納された者)という意味があります。

●ヘブル語の名前にはイェシュアを指し示す意味が隠されています。人物のみならず、地名や地形に至るまで、いろいろな領域に隠されているのです。

2017.8.22


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