****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「聞く耳のある者は聞きなさい」の真意とはなにか

27. 「聞く耳のある者は聞きなさい」の真意とはなにか

【聖書箇所】 8章1節~18節

はじめに

  • ルカの福音書では、8章においてはじめて「神の国の奥義」に関するたとえ話が登場します。並行記事のあるマルコ福音書とはほぼ内容と記事の配列は同一ですが、マタイ福音書は内容は同一ですが、配列が異なります。しかし、いずれにしてもここで強調としていることは同じだと考えます。その前に、ルカ8章1~18節の内容を整理しておきます。

(1) イエスに従った女性たち(1~3節)
(2) 種が蒔かれた地のたとえ(4~8節)
(3) たとえで話す目的(9~10節)
(4) 種が蒔かれた地のたとえの説明(11~15節)
(5) 隠れているものは必ず現われる(16~18節)

  • これらの部分を読む時、往々にして、ここで語られている神の国(マタイでは「天の御国」)の奥義のたとえとその説明に関心が向いてしまいます。それはそれで良いこと思いますが、内容の(1)~(5)を結びつけているチェーンのキーワードとは何かと考える時、それはイエスのいう「聞く耳のある者」ということばをどのように理解するかがとても重要な気がします。
  • 8節でイエスはたとえ話を話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれました。18節にも「聞き方に注意しない」とも語られています。ここでいう「聞く耳のある」とか、「聞き方に」とは何を意味しているのかがポイントです。もしここで、それは「みことばを聞いてそれを守ることだ」と考えるならぱ、「聞き方」を誤るかも知れません。

1. イエスの叫び

  • 8節後半のイエスの叫びに目を留めてみましょう。
    「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。
  • 最後にある「叫ばれた」と訳されている動詞は、「フォーネオー」ϕωνέωの直説法、未完了、能動態、3単数です。「フォーネオー」ϕωνέωは、叫ぶ、呼びかける、招くという意味です。ここでは未完了形ですから、繰り返し「叫び続けていた」、あるいは、繰り返し「呼びかけていた」というニュアンスです。具体的に何を呼びかれていたかといえば、それは「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。「聞く耳のある者は聞きなさい」とはいったいどういう意味なのか。「聞きなさい」という命令は現在形ですから、正確には「聞き続けなさいけなさい」という意味です。岩波訳はこのことを踏まえて「叫び続けた」と訳しています。つまり、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉は、常に、イエスが繰り返し繰り叫んだフレーズだったのです
  • また、18節の「聞き方に注意しなさい」という「注意する」という動詞も同じく現在形の命令です。つまり、「注意し続ける」という意味合いです。これらが意味する具体的な例証が次にあります。

2. イエスの弟子たちの「問いかけ」

9節「さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。」(新改訳)

  • イエスの話を聞いていたイエスの弟子(ここでは12弟子のみならず、他の弟子たちやイエスに従った女性も含まれると考えることができます)は、イエスの語るたとえ話を理解することができませんでした。そこで、彼らはそのたとえの意味をイエスに尋ねたのです。ここの「尋ねた」と訳された動詞は「エペロータオー」έπερωτάωの直説法、未完了、能動態、3複数です。「エペロータオー」έπερωτάωは、「~に向かって」を意味する「エピ」έπίと、「質問する、尋ねる、問う」を意味する「エロータオー」ερωτάωの合成語ですが、これを未完了として正確に訳すなら、「弟子たちはイエスに向かって、繰り返し、尋ね求め続けた」というニュアンスになります。
  • 9節の「弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた」とは、自分が納得するまで、彼らはイエスに向かってそのたとえの真意を問い続けたことを意味します。これが未完了という時制(あるいは、様相―アスペクト)が表現しようとしていることです。イエスの言われた「聞く耳のある者が聞く」とは、別のことばで言い換えるならば、得心が行くまで、何度も、繰り返し、熱心に、イエスに向かって「尋ね続ける、問い続ける」ことなのです。そうするなら、必ず、イエスが言わんとするたとえの真意を悟ることができるようになるのです。
  • これはイエスの弟子たちに与えられているすばらしい特権です。イエスは言われました。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されている」(10節)と。「あなたがた」とはイエスの弟子のことです。そして「奥義」は複数です。つまり、神の国の数々の奥義(秘密)を知ることが許されているのです。ここで「許されている」と訳されたギリシア語は本来「与える」を意味する「ディドーミ」δίδωμιの現在完了受動三人称単数です。「すでに神の国の奥義を知ることが許されたことのゆえに、知る特権が与えられているゆえに、何度も、繰り返し、許され、与えられている」というニュアンスです。なんという特権でしょうか。それゆえに、イエスに尋ね、問いかけるならば、その秘密が開かれるということなのです。
  • 別な見方をするならは、イエスに選ばれ、召されて、イエスの弟子となった者たちが、イエスの教えに対して問いかけ、その意味を尋ね求めることがなければ、たとえそれを知る特権がすでに与えられていたとしても、何も得られないことを意味します。自らそのたとえの真意を知ろうとしなければ、決してその真意は悟ることができないようになっているのです。
  • 弟子たちに与えられている特権のすばらしさを教えるために、イエスはさらなるたとえ(16節と17節)を用いています。あかりが多くの人々に見えるために存在するように、熱心に尋ね求める者に対して、「隠されているもので、あらわにならないものはない」ことを教えています。ですから、「聞き方に注意し」なければならないのです(18節)。それはただ聞くということだけにとどまらず、その真意を常に主に問い続ける、主に尋ね求めるという熱心さが求められているのです。
    聞く耳のある者
  • イエスは「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるのです。」(8:18)と語られましたが、何を持っている人のことを言っているのでしょうか。それは「聞く耳」です。「聞く耳」とは、単に聞き従うということだけを意味するのではなく、イエスの語ったことばの真意を尋ね求め、問い続けるという意味での霊的な「耳」であり、その「耳」によって、さらなる天の御国の秘密が確実に与えられる(未来形)ということを約束しておられるのです。そして、そのような者こそ、多くの実を結ぶ「良い地」なのです。

最後に

  • 主にある者たちが、主に問いかける力を身につけることが求められています。しかもその者こそ、真のイエスの弟子であり、神の国の奥義(秘密)を引き出すことのできる者だからです。今日のキリスト教会において、この「問いかける力」を養うプログラムをしっかりと、地道に建て上げていく必要があります。単に、牧師の語るメッセージだけを一方的に聞かされていくだけでは、問いかける力を身につけることはできません。この力を養うことがなければ、教会は神の国の隠されたものを引き出して顕わにして行くことができません。上からのいのちを引き出すことはできません。今、そこに大きな危機感を感じている者は幸いです。

求め続けなさい。そうすれば、必ず、与えられます。
捜し続けなさい。そうすれば、必ず、見つかります。
たたき続けなさい。そうすれば、必ず、開かれます。

2011.10.13


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