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「自分の弱さを知ること」こそ、神の恵み

66. 「自分の弱さを知ること」こそ、神の恵み

【聖書箇所】  22章54~62節

はじめに

  • イエスの逮捕に続くペテロの否認の記事も、共観福音書とヨハネの福音書に記されている重要な出来事として取り上げられています。人の失敗、しかもその失敗した人が自信家であり、その鼻がへし折られることは屈辱以外のなにものでもありません。しかし、神に用いられた人に共通していることは、神に用いられる前にみごとな失敗を犯していることです。
  • 失敗しない人などひとりもおりませんが。その失敗をどのように受け留めるかが、次のステップにおいてきわめて重要なのです。神による弟子の育成プログラムの中には、あえて「失敗」させることが組まれているようです。この失敗の経験を通して、神に頼らせることを教えようとしています。
  • 使徒パウロは、神の力は、弱さのうちに現われることを述べています。その「弱さ」とは、弱点と思っていることや、不利な状況とか失敗の経験をも含みます。自分の「弱さ」を知らずにいることは高慢となり、神の力と栄光を現わすことはできません。そのために神はご自身の愛する者にあえて失敗の経験を通させられ、弱さを心に刻みこませられます。そして、やがて人の弱さの中に神の力があらさわれるのです。

1. ペテロの失敗の裏にあった欠点

  • イエスが弟子たちに「あなたがたは、今晩、わたしのゆえにつまずきます。」(マタイ、マルコ)と言われた時、「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいたとしても、私は決してつまずきません。」と、最も強くそのことを否定したのは他ならぬペテロでした。彼はイスカリオテのユダのように、前もってイエスを裏切るという思いは彼のうちには微塵もありませんでした。イエスとのかかわりの否認は、「裏切り」ではなく、彼の弱さによる「失敗」と言った方がより正確かもしれません。その失敗の原因は彼が自分自身の弱さや欠点を本当に知っていなかったからです。自分の弱さや欠点を知っていれば、ある意味で失敗を防ぐことができます。しかし彼はそれを知りませんでした。彼の最大の欠点は、自分だけは大丈夫という「自信過剰」であったことです。
  • ペテロはこの場面において、はじめて一人になったのです。これまでイエスによって召し出されてから、他の弟子たちとともにずっと一緒でした。とろこが、一緒におられた主も、そして仲間たちとも離れて一人にさせられた時、なんと弱いペテロの姿を見せられます。私たちも仲間といっしょにいるときは自分が強く感じられても、ひとりになるととても弱い存在です。
  • 現代の若者たちが大音響の中で一体感をもって歌を歌うときに、あたかも全能感に満たされているように見えます。でも一人静かなところに置かれるときには、なんと自分の存在が小さく、弱く、不安と恐れに駆られると言います。ペテロも弟子たちとともにいるときには、「たとい全部の者が(自分を除く)つまずいても、私はつまずきません」と大言壮語しました。しかし、彼が一人にさせられた時、人の言うことばに恐れたのでした。

2. ペテロを立たせたイエスの「とりなしの祈り」と「寄り添いのまなざし」

  • 熱心で一本気な気質、大言壮語しながらも臆病な彼を、真のペテロ(岩)にさせたのは、イエスの彼に対する愛に満ちたまなざしでした。ルカの福音書では特別にペテロの失敗の予告を次のように記しています。
    「シモン、シモン、サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために祈りました。だから、あなたが立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい。」(22:32)
  • イエスはペテロの失敗を予告するだけでなく、彼が立ち直る布石を敷いておられました。それは彼のためのとりなしの祈りです。ペテロが失敗しないようにという祈りではなく、失敗した後に立ち直ることができるための祈りでした。
  • 大切なことして私たちが心に留めなければならないことは、ペテロが実際にイエスの弟子であることをイエスの予告どおり三度否認したとき、一瞬ですが、イエスと目を会わせました。そのイエスのまなざしは、ペテロのすべてを見抜いていたにもかかわらず、彼のために前もって祈っておられたイエスの愛のまなざしです。この「まなざし」は「それ見たことか」と言った「さばきのまなざし」ではなく、愛に満ちた「寄り添いのまなざし」です。ペテロがイエスのこの「寄り添い」のまなざしに触れた時、はじめて「激しく泣いた」のです。この涙には、彼の人生にとって新しい出発(たびたち)を促す多くのものが含まれていたと信じます。
  • ルカだけが、イエスの沈黙の「まなざし」を記しています。ペテロが三度イエスを否認して鶏が鳴いたとき、主は振り返られてぺテロを「見つめられた」とあります。「見つめた」と訳されたギリシャ語は「エンブレポー」εμβλεπωです。「見つめる、注視する、目を向ける」という意味があります。「物理的に見た」という意味ではなく、深い愛に満ちたまなざしであつたことが分かります。すへてを知っていて、しかも赦しておられる主のまなざし、失敗によって見捨てることなくどこまでも寄り添おうとしておられるかかわりのまなざし。
  • そのまなざしに触れたとき、ペテロは「激しく泣いた」のでした。「激しく」と訳された副詞「ピクロース」πικρώς(マタイ26:75とルカ22:62の2回しか使われていない語彙)。本来、「苦々しく」という意味で、原意は「刺す」という意味です。ペテロは自分の高慢な心が刺し貫かれたのです。痛みを伴う涙でした。そして「泣いた」のでした。
  • ペテロが真のペテロ(岩)となっていくその祝福の秘訣は、彼自身の自信や頑張りではなく、ひとえにイエスのとりなしの祈りと恵みに満ちた「寄り添いのまなざし」があったからだと信じます。これはいつの時代においても真理であり、この私も同じ恵みに支えられていることを告白します。失敗が失敗で決して終わることなく、それを祝福に変えることのできる唯一の方。その方がいつもほめたたえられますように。

2012.9.20


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