「見よ。わたしは新しい事をする。」
35. 「見よ。わたしは新しい事をする。」
【聖書箇所】43章14~28節
ベレーシート
●14節に、主がイスラエル(ヤコブ)に対して語られたバビロンの陥落の預言が記されています。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らをことごとく逃亡者として下らせる。カルデア人を彼らの喜びの船で」と。大和(ヤマト)が日本の雅名であるように、「カルデア」は「バビロン」の雅名です。バビロンは政治的な国を意味し、カルデヤはその民族性や文化を意味します。
●「あなたがた」とはイスラエルの民(ヤコブ)です。彼らのために主は「バビロンに使いを送り」とあります。原文では「あなたがたのために、わたしはバビロンに遣わした」となっており、誰が遣わされたのかは明確に記されていません。歴史的推測によって、バビロンを陥落させるために遣わされたといえばペルシアのキュロスしか考えることはできませんが、聖書はそのことを明記せずに、バビロンの捕囚からの解放が一瞬にして起こることと、やがて終末に起こる「大バビロン」の瞬時の崩壊を重ねあわせているように思われます(黙示録18:2「倒れた。大バビロンが倒れた」、同18:10「『わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。力強い都バビロンよ。あなたのさばきは一瞬にしてなされた。』)。
- イザヤに限らず、旧約の預言者たちは歴史の中で起こる出来事と、終わりの日に起こる出来事(それはメシアによる神の支配、すなわち「御国の成就」)を、重ね合わせた一つのピクチャーを見るように語っています。時系列は異なるにもかかわらず、一枚のピクチャーとして見て語っているのです。それは「型」である出来事と「本体」である出来事とを、同時に見ているのです。「型」と「本体」との違いを見分け、理解することが必要です。それを見分けるためには神のご計画の俯瞰的視点(聖書全体の視点)を知る必要があります。今回の箇所もそうです。イザヤ書43章14~28節は、バビロンの崩壊による神の民の解放と、終末に起こる「大バビロン」の崩壊による神の民の解放とが重ね合わされて預言されているのです。
1. 「見よ。わたしは新しい事をする。」
(1) このフレーズについて
【新改訳2017】イザヤ書43章18~21節
18 先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。
19 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
21 わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。
- 43章19節のフレーズ「 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」は、しばしばいろいろなイベントやリバイバルを求める集会のキャッチフレーズとして用いられたりしています。あるいは信仰生活における個人的な主の約束(預言)として用いられたりすることもあります。しかしそのような解釈によって、聖書に記されている神のマスタープランに対する正しい理解が妨げられてしまっていることに気づいていません。かつて私もその一人でした。
- こうした聖書の解釈の背景には、置換神学と信仰の個人的強調の弊害があります。その中にいる時には、その弊害にはなかなか気づきません。私もそうした中にいた一人です。最も大きな弊害は、神のことばと言いつつも、自分たちのある目的を実現するための理想やスローガンへと変質させてしまったり、神のある約束を文脈から切り離して、それを「自分(自分たち)のために」用いてしまったりしていることです。それらは、神のマスタープランから目をそらし、神のことばを自分本位に(勝手に)に利用してしまう、いわば偶像礼拝の罪に等しいことに気づかされました。この罪はさまざまなキリスト教の集会やムーブメント、教会行政、個人の神との歩みの中に浸透しています。しかもその誤りになかなか気づかずにいるのが現状です。このことは、旧約でしばしば記されているように、「高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた」罪に等しいのです。私たちは、今日、みことばを回復することを求めなければなりません。
(2) このフレーズが意味すること
- さて、19節の「見よ。わたしは新しい事を行う。今、それが芽生えているをする」とあります。まず、この節の前半は「見よ。わたしは新しい事を行う者である」という自己宣言になっています。そして「新しい事」とは、そのあとに記されている事柄で「荒野に道を、荒地に川を設ける」ことです。「荒野」(ミドゥバール:מִדבָּר)に設けられる「道」(デレフ:דֶּרֶךְ)は単数ですが、「荒地」(イェシーモール:יְשִׁימוֹר)に設けられる「川」(ナーハール:נָהָר)は複数です。
- 「荒野」には道がないので荒野と言われます。「荒地」は「砂漠」とも訳されます。「荒地」には川がないので砂漠になります。そのように「荒野」に道を設け、「荒地(砂漠)」に川を流すということはまさに常識では考えられない「新しい事」なのです。小林和夫師からの受け売りですが、ユダヤ教の教師ラビ・コーヘンが注解書で言うには、「このことは紅海の水が二つに分かれて乾いた地を通るよりも偉大なわざだ」ということです。
- エジプト脱出の時にも、モーセが率いる神の民たちは紅海の水の中にできた道を通り抜けることができました。荒野から約束の地に入る時にも、ヨシュアが率いる神の民たちは激しく流れるヨルダン川の中にできた通路を渡ることができました。主は歴史の舞台の中で驚くべきすばらしいみわざを現わされました。しかし、そのような過去の出来事を「思い出すな」「考えるな」と命じます。そして、以前のことをはるかに越える「わたしがする新しい事」を「知る・悟る」ようにと諭しているのです。
- 20節には「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」とあります。このようなことはキュロスによるバビロン捕囚からの解放の時にはなかったことです。しかしメシアの再臨によってそのことは現実となります。なぜなら、自然が変容するからです。
- 「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」その理由を、原文では接続詞の「キー」(כִּי)を用いて表現しています。その理由とは「わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ」とあります。しかもこの水は自然界の生き物たちのみならず、「わたしの選んだ者に飲ませるからだ」とあります。その目的は「わたしの栄誉を宣べ伝える」ためです(43:21)。
- ここで強調されているのは「水」(マイム:מַיִם)です。神の国において「水」は、神の「いのち」「真理」「喜び」「主の霊」とも関係するきわめて重要な語彙です。しかも興味深いことに、創世記2章のエデンの園の「エーデン」(עֵדֶן)のヘブル語の意味は「豊かな水のあるところ」を意味します。イザヤ書の中にある明確なメシア王国にも決まって「水」が登場します。ちなみに「水」(マイム:מַיִם)の語は旧約では584回使われていますが、その中で最も多く使われているのがイザヤ書の58回なのです。次いで創世記の54回、そして詩篇の53回の順です。
(1) 12章3節
3 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(2) 35章6~7節
6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。(3) 41章18節
18 わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。(4) 43章19~21節
19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。(5) 44章1~4節
1 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける【主】はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。
3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
4 彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。
●上記の聖句はすべてメシア王国の到来と関係する預言ですが、そこには決まって「水」に関する語彙が登場しています。「水」(マイム:מַיִם)、「川」(ネハーロート:נְהָרוֹת)、「泉」(マヤーノート:מַעְיָנוֹת)、「流れ」(イヴレー・マイム:יִבְלֵי־מַיִם)、それらはみな複数形で表わされる名詞であり、「水の豊かさ」を表わしています。なぜなら、水こそすべての生き物を(人も動物も植物も)生かすいのちの源だからです。またその「水」は神のことば、あるいは、聖霊の象徴でもあります。
●やがて訪れるメシア王国(千年王国)では「渇き」がありません。なぜなら、生ける「水」と「その流れ」が豊かにあるからです。新天新地における「聖なる都」「新しいエルサレム」にも、神と小羊との御座から流れ出る「水晶のように光るいのちの水の川」があるのです(黙示録22:1)。その「いのちの水の川」とは御霊ご自身とも言えます。
●その「水」を飲むことのできる人は幸いです。それゆえ、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(イザヤ55:1)と呼びかけられているのです。「水」はヨハネの福音書の重要なテーマとなっています。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)とイェシュアは言われました。「聖書が言っているとおりに」とあるように、この祝福はすでに旧約で何度も繰り返して語られていたことなのです。
2. 不誠実なイスラエルの罪を赦す者だとする自己宣言
●歴史において、主をあがめようとしなかったイスラエルの民に対する、主の一方的な罪の赦しの宣言が25節になされています。イザヤ書の中でも、ここはきわめて重要な箇所です。
【新改訳2017】イザヤ書43章25節
25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
●ここにはイスラエルの罪にもかかわらず、一方的な罪の赦しの宣言があります。「あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」、その基盤は、イスラエルのなにかではなく、あくまでも「わたし自身のために」ということにあることが明示されます。イスラエルの中に罪を赦される根拠は何一つありません。
●イザヤ書1章18節「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と言われた罪の赦しの根拠が、全く神のうちにあることが宣言されます。神の民がバビロンの捕囚から解放されることは、神に背いた罪が赦されたことを意味しました。このことはやがてメシアが再臨される時に、罪で神を悩まし、咎で神を煩わせたイスラエルの民に対して、神が「恵みと嘆願の霊」を注ぐことで彼らをご自身に立ち返らせます。こうした恩寵はすべて「わたし自身のために」、「ご自身の名誉にかけて、民を選んだご自身の名が辱しめられることのない者とする」ためでした。その宣言がイザヤ書43章25節に語られているのです。
2014.10.10
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