****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「覚えていよ」、「シェマー」

5. 「覚えていよ」

聖書箇所 4:27~6:25

はじめに

  • モーセは第二世代の者たちに神の戒め(十戒)を教えようとしています。出エジプト記には見られない特徴がいくつかあります。その一つは「顔と顔とを合わせて語られた」というフレーズです。十戒は単なる冷たい法律文ではなく、父が子に対してねんごろにさとす、あるいは人が友に語るような、いわば人格的関係によるものです。すでに主はモーセに対して「顔と顔とを合わせて」脚注(1)語っています(出33;11)。その背後に父が子に対するのと同様に、神のイスラエルの民に対する熱愛があることは言うまでもありません。
  • 十戒の序文である「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」という神の恩寵はきわめて重要な部分です。それゆえ、神から見るならば、「わたしのほかに、神があることなど、あなたにとってあり得ない(「ロー・イフイェ・レハー」לֹא יִהְיֶה לְךָ)のです。これが「神の当為」(必然的状態)であるならば、どんなことをしても、神はご自身の当為を神自ら実現・完成させなければなりません。この実現は不可抗力的な神のみこころです。

1. 神の恩寵の行為を忘れるな

(1)ザーハル

「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。」(5:15)脚注(2)

  • 申命記において、初めて登場することば(動詞)、「覚えていなければならない。」〔「覚える」ザーハル(זָכַר) 〕をキーワードとしたいと思います。この動詞は旧約で235回、申命記では13回、詩篇で54回使われています。ちなみに、詩篇119篇では3回(119:49, 52, 55)です。英語ではほとんどremember と訳されますが、「覚える」「忘れない」「思い出す」「思い起こす」「想起する」「心に据える」「心に留める」という意味です。また、名詞の「ジッカーローン」(זִכָּרוֹן)は、旧約で24回、主に、出エジプト記、民数記の特愛用語で、「メモリアル」「記念日」「記念とすべき日」の意味です。
  • 申命記で13回も使われているこの「ザーハル」が最初に登場するのが5章15節です。「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えて(זָכַר)いなければならない。」とあり、「安息日を守る」という命令はそのことを覚えるためであることが明記されています。それは、新約時代のキリストの教会が聖餐式をするその目的が、私たちの主イエス・キリストが私たちの贖いとして(つまり、罪の身代わりとして)十字架に死なれたことを記念することであるのと同様です。
  • キーワードの「覚えていなければならない」ということばは、神がなされた恩寵を決して忘れてはならないという意味において使われています。申命記では以下の箇所に記されています。5:15/7:18/8:2, 18/9:7/15:15/16:3, 12/24:9, 18, 22/25:17/32:7 ・・その神の恩寵とは何でしょうか。

①「彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。」(7:18)
②「あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」(8:2)
③「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」(8:18)
④「あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。」(9:7)
⑤「あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。」(15:15)
⑥「(アビブの月を守り、・・主に過越のいけにえをささげなさい。)・・パン種を入れたものを食べてはならない。・・それは、あなたがたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。」(16:3)
⑦「あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行いなさい。」(16:12)
⑧「あなたがたがエジプトから出て来たとき、その道中で、あなたの神、主がミリヤムにされたことを思い出しなさい。」(24:9)
⑨⑩「思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。」(24:18, 22)
⑪「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。」(25:17)
⑫「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。」(32:7)


  • 以上の、「ザーハル」(זָכַר) の引照箇所から見えて来るものをまとめると、神の民が「覚えていなければならないこと」は、自分たちがエジプトにおいて奴隷であったこと、そこから贖い出されたこと、神がエジプトにされたこと、主が制定された過越の祭り、エジプトから出てからの40年の全行程―すなわち、主に逆らいどおしで、主を怒らせたこと、主がミリヤムにされたこと、アマレクにされたことーなどです。特に、繰り返して言われているのは、かつてはエジプトで奴隷であったが、主はそこから救い出されたという出来事です。この出来事が、神と神の民とのかかわり、あるいは神の民同士のかかわりを規定するすべての土台となるものでした。

(2) 「過越の祭り」に対する歴史的鳥瞰

  • ところが、この大切な出エジプトの出来事を思い起こすための「過越の祭り」が、果たして主の命じられたように、毎年、行われたのかと言えば、決してそうではなかったことが分かります。
  • 聖書の中で「過越」ということばを調べてみると、それがどこに出ているかで、イスラエルの歴史において、神が制定した「過越の祭り」がどのように扱われたかが見えてきます。
    • 名詞 「過越」ペサハ(פֶּסַח )
      Passover, Passover lamb, Passover offering 「過越のいけにえ」
      出12:11,11,21,27,43,48/34:25/レビ23:5/民9:2, 4, 5,6,10,12,13,14,14,16/28:16/33:3/
      申16:1,2,5,6 ヨシュア5:10, 11 
      Ⅱ歴代30:1,2,5,15,17,18/35:1,1,6,7,8,9,11,13,16,17,18,18,19
      エズ6:19,20 エゼ45:21
    • 動詞 「過ぎ越す」パーサハ(פָּסַח) pass over, passed over,
      出12:13, 23, 27/イザヤ31:5
    • 「過越」ということばがなくても、その後に続く7日間の「種を入れないパンの祭り」という表現があれば、過越の祭りを行ったことが分かります。その「種を入れないパンの祭り」の記述は、上記の箇所以外にあるものとしては、歴代誌第二8:13にあります。その箇所はソロモンが神殿を建設した後のことですから、ソロモンの治世の後半(少なくとも、40年の治世中の20年)においては、過越の祭りがなされたことになります。

①エジプトを出た民たちは、一年後にシナイの荒野で過越のいけにえをささげました。(民9:2~5 )
②40年後にイスラエルの民はヨシュアを指導者としてカナンの地へ入国したあと、ギルガルに宿営しているとき、(割礼を施した後)、民たちは過越のいけにえをささげました。(ヨシュア5:10)
ソロモンの治世の後半(神殿が建設されたあとの20年間)、過越の祭りがなされました。(Ⅱ歴代誌8:12~13)
ヒゼキヤの宗教改革の時(Ⅱ歴代誌29:1~36)BC720
ヒゼキヤが取り組んだ宗教改革の幕開きは宮きよめでしたが、はからずも、その月は第1の月、つまり「ニサンの月」脚注(3) であり,過越の祭りを行うべき月(出エジプト12章)でした。しかし、宮きよめが終わっていなかったため実施出来ず、ヒゼキヤは人々に諮って翌月の第2の月にずらして行うことを決めました。ヒゼキヤの呼びかけによって、おびただしい大集団がエルサレムに集い、過越と種を入れないパンの祭りが挙行されました。
ヨシヤの改革の時(Ⅱ歴代誌35章)BC637
ヨシヤの治世の過越の祭りは,ヒゼキヤの時の盛大さを超えるものであったようです。
エズラの時代の過越の祭り(エズラ6:19~22)
バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民たちは、イスラエルに戻り、神殿を完成したあと、指導者エズラによって再び過越の祭リを守るようになりました。

  • 実に、過越の祭りを行うということは、神の民としての存在のルーツ、その目的、アイデンティティが確立されることなのです
  • そして、中間時代からイェシュアの時代に至るまで、過越の祭りは毎年続けられていきますが形骸化の一途をたどります。その間、イスラエルはたえず敵国の支配下の中にあり、神殿の働きを担ったサドカイ派の祭司長たちは敵国と手を組み、宗教によってもたらされる膨大な富を手にする仕組みをつくりあげていきました。彼らは真の信仰からは遠い状態で、宗教を食い物にする者たちだったのです。イェシュアの登場はそれまであぐらをかいていた彼らの権威の座を脅かすものとなりました。その結果、イェシュアは殺されることになるのですが、その前の晩、つまり過越の祭りの前に、イェシュアは弟子たちと共に「過越の食事」をしながら、これが「最後の過越となること」、つまり自らが過越のいけにえの羊となることによって、過越の祭りの本当の目的を成就することを教え、そしてやがて神の国が完成して食卓を共にするとき(但し、これは婚姻の食卓)まで、「パンとぶどう酒」によって自分の贖いの死を思い起こすように、主の晩餐(聖餐)を制定されたのでした。

2. 「主はただひとり」

  • 空知太栄光キリスト教会の主日礼拝では、主への賛美を20~30分間ほどささげます。その賛美の時に最初に歌うのが「シェマ」(שְׁמַע)です。しかも、申命記6章4節にあることばをヘブル語で歌います。

    シェマ イスラエル アドナーイ エロヘーヌ アドナーイ エハーッド
    ―聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである。―

    バルーッフ シェム ケボード マルフート レ・オラーム ヴァ・エッド
    ―ほめたたえよ。栄光の御名。 その支配はとこしえからとこしえまで。―

    (但し、後半の部分は申命記にはありません。)

  • 申命記6章においてきわめて重要な真理は、神である主は、ただひとり、唯一であるということです。この真理こそ、イスラエルの民のおきての根本です。この真理こそ、彼らが聖なる民としてこの世のすべての国々と区別されるものでした。この真理から離れたときどうなるのか、それを証ししているのがイスラエルの歴史です。旧約聖書の歴史書は、「聞きなさい」と言われた唯一の神の真理から離れてしまって、すべての神の祝福を失った民の悲しむべき歴史が記されています。
  • イスラエルの父アブラハムが異教的偶像の中から召し出されたのは、唯一の真の生ける神をあかしするためです。イスラエルの枝として選ばれた異邦人の私たちが、主によって召し出されたのも、同じく唯一の神をあかしし、その方とともに歩むためです。このことから離れるとき、神のすべての祝福を失います。私たちはイスラエルの歴史から神聖な教訓を学ばなければなりません。使徒パウロはこう述べています。

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

  • 私たち人間にとって最も基本的なニーズは「生存の保障」と「防衛の保障」という二つです。人間のすべての営みはこの基本のニーズが満たされるためのものと言ってもよいかもしれません。それほどに深刻なニーズです。神によって選ばれた神の民は、その人間の基本的なニーズが唯一の神である主によって、与えられ、保障されるという信仰によって生きることが求められているのです。ところが、約束の地に入った神の民たちは、次第に、信仰というリスクを負った生き方より、周囲の国々と同じように生きることを求めるようになっていきます。また、神に頼ることをせず、神よりも周辺の強大国に依存していきました。
  • このように、シナイ山の麓で金の子牛を造った日から、ネブカデネザルによってエルサレムが廃墟にされるまでのイスラエルの全歴史は、まさに偶像礼拝によって特色づけられています。神は尽きることのないあわれみと忍耐をもって彼らを助けようとしましたが、神が愛想を尽かしてしまうほどにその偶像礼拝の罪は彼らにからみついていたのです。
  • この偶像礼拝の罪は、今日のキリスト者に対してもからみつく罪です。特に、私たちの生存と防衛(あらゆる守り)の保障を唯一の神である主以外に求めるなら、それは自動的に偶像礼拝となるのです。「神である主は唯一である」という真理、あるいは、世界中で「主イエス・キリストの他には救われるべき名はない」(使徒4:12)とする排他的宣言は、悪魔が最も嫌う真理です。

3. 詩篇119篇との関係

  • バビロン捕囚の経験は、神の聖をあかしすべく選ばれた民が、捕囚の地バビロンにおいて、自分たちが今置かれている「辱しめ」の経験を招いてしまった原因は何であったのか、そのことを深く反省し、悔い改める時でした。そこでの三世代にわたる深い真剣な問いから見出した神の恋い慕う愛、それに再び気づかされたとき、彼らは神の教えに従う新しい神の民として整えられ、備えられていったのです。神を信頼し、神を待ち望み、神を愛するという彼らの信仰の内面の姿を映し出しているのが、まさに詩篇119篇なのだといえます。

脚注(1)
●「顔と顔とを合わせて」というフレーズには、二つの表現の仕方があります。
①出エジプト記33章11節の場合は「パーニーム・エル・パーニーム」
(פָּנִים אֶל־פָּנים)、
②申命記5章4節の場合は「パーニーム・ベファーニーム」(פּנים בְּפָנִים)となっています。
意味としては同じですが、表記の仕方が異なっています。前者は「顔に向かって顔が」というニュアンス、後者は「顔をもって顔を」というニュアンスです。

脚注(2)

申命記5章15節は、十戒の前半と後半の間にあり、安息日を守るその理由としてかかげられていることばです。出エジプト記20章にある十戒の記述にはありません。そのかわり、神が創造の7日目に休まれたということが安息日を守る理由としてあげられています。

申命記5章15節は、十戒の序文「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(5:6)を再度、強調したものと言えます。この序文は十戒の記述の中で最も重要な部分です。なぜなら、その序文がなければ、十戒は「・・シテハナラナイ」、「・・シナケレバナラナイ」という強制的、束縛的、いわば人を殺しかねない戒めとなります。十戒の序文が正しく理解されてはじめて、それに続く戒めは神の恩寵に基づく合意の上の生きた戒めとなります。もし、序文がなければ、戒めは人を束縛し、人を殺すものとなります。5章15節があることで、申命記がいかに神の恩寵を土台として語っているかが理解できます。

脚注(3)
●モーセ五書(出、申命記)では「アビブの月」となっていますが、捕囚以後は「ニサンの月」と言い変えられます。明らかに、歴代誌が捕囚以後に書かれたものであることが分かります。



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