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「誓う」

詩119篇(12)「誓う」  שָׁבַע シャーヴァー 

(カテゴリー:従順 )

106節「私は誓い、そして果たしてきました。」(新改訳)
106節「わたしは誓ったことを果たします。」(新共同訳)

Keyword; 「誓う」 take an oath, take oaths, sworn, 15;4, 24:4, 119:106, 132:2

  • 「誓う」と訳されたシャーヴァーשָׁבַע(shava`)は、旧約で186回、詩篇では12回使われています。本来は、神が人に誓われる恩寵用語ですが、人の礼拝用語にも使われます。しかし前者のほうが圧倒的に多く使われています。この動詞は申命記においての特愛用語で、33回使われますが、そのうちの31回はすべて恩寵用語です。「神である主が先祖たちに誓われた」という表現で使われます。モーセが約束の地に入る者たちに対して、そこは神が誓われた地であるゆえに、必ず、与えられることを繰り返し強調しているのです。ひとたび神が誓われたことは必ず実現することを信じる者は幸いです。
  • 詩篇の場合、12回中5回はすべて神がダビデに対して誓われたことに言及しています。5回(15:4/24:4/63:11/119:106/132:2)は礼拝用語として使われています。神の幕屋、聖なる山に住む者の条件としてあげられているのが、「立てた誓いを変えない人」(15:4)、「欺き誓わなかった人」(24:4)です。「誓ったことをこれまで果たしてきたし、これからも果たしていく」という強い意志が、詩119篇の作者にも感じられます。契約において求められるのはこのことです。神が自分の誓ったことに真実であるとすれば、当然、神の民にもそれを求めるのは当然です。契約は契約を結ぶ双方が合意の上で約束をするわけですから。
  • 詩119篇の作者は自分たちの歴史を振り返りながら、自分たち(神の民)が神に対して不真実であったことを認め、悔い改めに立った上で、106節のことばを表明しています。107節の「私はひどく悩んでいます」とは、新共同訳が訳しているように「甚だしく卑しめられている」という意味です。神の真実な約束に心を傾けることなく、偶像礼拝に陥ってしまい神に背いた結果しての「卑しめ」が今の自分に降りかかっていることを知って悔い改めているのです。ですから、「主よ。みことばのとおりーつまり神の約束のとおりにー私を生かしてください。」(107節)と祈っています。この「私」は個人としての「私」だけでなく、集合人格として神の民を代表している「私」です。
  • やがて、バビロンから解放された神の民は、一切、偶像礼拝をしなくなりました。他の国のような繁栄を求めようとはしなくなったのです。そしてむしろ神のトーラーに心を傾けて行きました。特に、祭司であり、律法学者であったエズラを中心として新しい神の民が回復します。
    ちなみに、ユダヤ教はこのエズラから始まったとも言われています。
  • 今日、キリスト者はキリストを信じて洗礼を受けた時に神と誓いをしています。聖餐にも与る者とされ、キリストの新しい契約の中に生かされています。今一度、自分が主の前に立てた誓いを思い起こし、それを果たすことが問われています。

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