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「都上りの歌」の神学

「都上りの歌」(「シール・ハマアロート」שִׁיר הַמַּעֲלֹות)の神学


  • 以下、「都上りの歌」全体(120~134篇)にある特徴的な語彙に注目することを通して、なにが見えてくるかを探ってみたいと思います。つまり、「都上りの歌」全体を貫いている思想はなにかを思い巡らします。

A. 「都上り」という巡礼の旅の出発点

●都(天の都)へ向けた巡礼の旅の出発点は、最初の詩篇120篇1節にある「苦しみのうち」からです。あるいは、130篇1節にある「深い淵」からです。そこから作者は主に呼ばわっています。120篇1節は「都上りの歌」の結論です。「主に呼ばわると、主は私に答えられた。」とあります。しかし、なにが答えられたのか、どのように答えられたのか、「都上りの歌」全体を通してでないと見えてこない構造になっています。

●神と出会う契機として、多くの人がなんらかの「苦しみ」や「深き淵」を経験します。それは人の悪意によってもたらされることもあれば、自分の罪によってもたらされたりもします。しかし大切なことは、そこから主を呼び求め、一縷の望みとして主を待ち望むことが引き出されていることです。主を信頼する巡礼の旅はそこからはじまっているのです。

●ヘブル人の時間の概念は、常に、「夕があり、朝があった」というリズムに基づいています。


B. 祝福の発信地を表わす語彙

(1)「シオン」(8回)・・121:1/126:1/128:5/129:5/132:13, 15/133:3/134:3
(2)「エルサレム」(5回) ・・122:2, 3, 6/125:2/128:5
(3)「主の家」(4回)・・122:1, 9/127:1/134:1
(4)「御住まい」(132:6)、「主の住まい」(132:7)、「主の住みか」(132:13) 

●(1)の「シオン」、(2)の「エルサレム」、(3)の「主の家」、(4)の「御住まい、主の住まい、主の住みか」は、すべて同義語と考えることができます。とすれば、総計20回となります。

●これらは、主がご自分の住まいとして選ばれた聖所であり、安息の場所、シャーローム(平和)に満ちた場所です。そこは「よくまとめられた町」であり、主にあるすべての人々が一つに集まる所です。これらは神の臨在の場所であり、祝福の発信地であり、神の支配(統治)、神の国(天の御国、天国)の中心地とも言えます。

●ちなみに、詩篇119篇を代表とする「みことば詩篇」が祝福の源泉的賜物としての「神のトーラー」に目を向けさせようとする意図が見られるように、「都上りの歌」にも祝福の発信地であるエルサレム、シオン(あるいは神ご自身)に、すべての者の関心を向けさせようとする意図が見えます。


C. 表題にある「ダビデによる」が意味するもの

●「ダビデによる」(4回)・・122:/124:/131:/133:/
132篇も表題には「ダビデによる」とはありませんが、ダビデの主に対する誓いと、神のダビデに対する誓いについて言及されています。

●なぜ「ダビデによる」という表題がついているのか。これは大きな問いです。思うにその問いの答えとして、ダビデはその生涯をかけて、ひとつのこと、すなわち「主の家に住むこと」を願い、自ら求めた人です。このダビデの求道性こそ「都上りの歌」の中に流れているきわめて重要な「霊性」と言えます。そうしたダビデの霊性が色濃く出ているのが、「ダビデによる」としているのかもしれません。必ずしも、ダビデによって書かれた詩篇という意味ではありません。


D. 神の祝福の総称としての「平和」

●「平和」(7回)・・120:6, 7/122:6, 7, 8/125:5/128:6/
「平和」と訳されたシャーローム(שָׁלוֹם)は、単に戦争がない状態という意味ではなく、神の祝福(天の都にある霊的祝福)の総称と言えます。詩篇では18回使われていますが、「都上りの歌」では7回も登場しています。特に120篇の「平和を憎む者」(6節)の「平和」は、「神」と同義と考えることができます。神を憎む者たちとともに久しく住むことは、ある意味で不幸と言えます。それゆえ、作者は「ああ、哀れな私よ。」と嘆いています。なぜなら、本来、自分がいるべき場所にはいないからです。そこは「苦しみ」(120:1)の場所であり、「深き淵」(130:1)です。そのところから、主を呼び求め、平和を希求する旅、平和の都をめざす巡礼の旅が始まっています。天の都をめざす巡礼者にとっては、この世では「寄留者」、「旅人」でしかないのです。

●ちなみに、122:6では「エルサレムの平和のために祈れ」と訳されています。ここでは、祝福の発信地である「エルサレム」が「平和(シャーローム)」であることを求めるように促されています。また、125:5では「イスラエルの上に平和があるように」と記されています。

●「エルサレム」は神によって建てられる町(都)です。人間の力によってそこに平和をもたらすことは決してできません。それゆえ、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなけれは、守る者の見張りはむなしいのです。」(127:1)


E. 天と地を造られた主に向けられた信頼の「目」(121:1/123:1, 2)

●「目」とは、ヘブル人たちにとっては単なる身体の一部ではなく、「存在」全体を表わす言葉です。つまり、「目を上げる」とは、全存在をもって主を仰ぎ、主を待ち望むことを意味します。なぜなら主は、巡礼の旅において、生存と防衛を保障してくれる唯一の方だからです。主だけを信頼して、主を第一にして歩むことは、大きなリスクが要求されます。神を第一にして歩むとき、そのことで失われたり、損なったりするものがあることを私たちは心配します。そしてその心配は神の国と神の義を第一にさせなくしてしまいます。しかし、天の都への巡礼をめざす作者は、「私は山(原文では「山々」)に向かって目を上げる」と告白しています。

●ちなみに、イスラエルの神は、当時の周辺諸国では「山の神」と言われていました。ちなみに、エジプトの神は「太陽の神」、バビロンの神は「月の神」でした。「私の助けはどこからくるのか、私の助けは、(山の神ではなく)天と地を造られた主から来る。」としています。そして、昼も、日が、打つことがなく、夜も、月が、打つこともない」とあります。神を第一にして巡礼の旅を続けることはリスクがあります。しかしここでは、エジプトもバビロン(ペルシャも)からも守られることが断言されています。天と地を造られた主は、生存と防衛の保障を与える唯一の「助け」の神です。主イエスが「神の国とその義とを第一に求めなさい。」と言われた所以がここにあります。

●助けを与える「天と地を造られた主」は、「都上りの歌」に出てくる特徴的な表現です。詩篇では4回(「都上りの歌」では3回)使われています。121:2/124:8/134:3 それと115:15に1回出てきます。すべて「助け」ということばと結びついて使われています。

●主の生存と防衛を表わす用語としては、121篇の「助け」「守り」、124篇の「味方」、125篇の「取り囲み」。信頼を表わす表現としては、125篇の「シオンの山のようだ」、127篇の「眠っている間に」、「乳離れした子のように」などのたとえがあります。


F. とこしえのいのちの祝福

●「祝福」(7回)・・128:4, 5, 8, 8/132:15/133:3/123:3/

(1) 祝福の射程

●特に128篇には、祝福の射程が、主を恐れる「個人」(1, 2, 5節)、「家族」(3節)、「共同体(イスラエル)」(6節)に及んでいるのがわかります。

(2)「一致の祝福」

①「よくまとめられた町」(121:3)・・「まとめる」という動詞は「結び合う、和合する」という意味。
②「家庭の祝福」・・あなたの妻は、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。」(128:3)
③「兄弟がともに住む」(133:1)

(3) 「祝福の交換」(134:)

①「ほめたたえる」
②「祝福する」

●「ほめたたえる」ことも「祝福する」も、同じ動詞バーラフבָּרַךְが使われています。ここに「都上りの歌」の終局があります。神の支配(天の御国)の究極の光景は、キリスト(勝利の小羊)によって与えられた神の祝福に対して、造られたものすべてが永遠に神を賛美しています。「都上りの歌」最後の134篇はまさにその光景を垣間見せてくれます。



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