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「隠されたこと、現われたこと」

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18. 「隠されたこと、現わされたこと」

聖書箇所 29:2~29

はじめに

  • 申命記における29章~30章をモーセの第三説教とする立場と、第四説教とする立場があります。どちらの立場を取ろうとも、大切なことは、モーセは同じテーマの説教を繰り返して語っているという事実です。何度も、繰り返して語ることは重要なことです。繰り返され、反復されることで、聞く者の心のうちに神の律法を書き記そうとしているからです。これが当時の神の民に対してなされた、神の方法でした。
  • しかし、この「繰り返して、聞かせる」という方法は、信仰によって民の心に結び付けられなかったために、ほとんど効果はありませんでした。その結果、その歴史に「のろい」がもたらされてしまいます。そうした流れの中でも、神は預言者エレミヤを通して、神との契約を破って失敗した民に対して新しい神の方法について語ります。それは何度も繰り返して聞かせるという方法ではありません。神ご自身が、律法を神の民の思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(エレミヤ31:33、ヘブル8:10)というものです。そのことによって、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という新しい契約です。それがどのようにして実現されるのかは、エレミヤには具体的に示されず、それゆえ語っていません。ただ神ご自身によってなされることだけが語られています。

1. 隠されていること、現わされていること

  • 申命記29章の最後の節(29)には不思議なことが記されています。ここでの瞑想のキーワードを「隠されていること、現わされていること」としたいと思います。29節をいくつかの訳でみてみましょう。

    ①【新改訳】
    「隠されていることは、私たちの神のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてを行なうためである。」
    ②【新共同訳】
    「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。」
    ③【口語訳】
    「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」
    ④【リビングバイブル】
    「神様はすべてのことをお示しになったわけではありません。 確かに、神様だけがご存じの秘密もあります。 しかし、はっきり示されたことには、私たちも子孫も永遠に従わなければなりません。」

  • これらの訳を見てわかることは、神はすべて事柄を示されているのではなく、隠されている事柄があること。目に見えるものと見えないものがあること。しかし今日という日には、すでに啓示され、明らかにされた事柄について、常に、従順であるべきだということです。イスラエルの民には、神の計画の将来を読むことはできませんでした。昔の預言者でさえ、将来のすべてを見通しているわけではありませんでした。それは現代の私たちに言えることです。しかし、今、明らかにされていることを信じて従っていくことが求められています。
  • ヘブル人への手紙1章1節を見ると分かるように、「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分にわけ、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの日には、御子によって、私たちに語られました。」。私たちは、「この終わりの日」に、御子によって、語られています」が、申命記における神の民たちと同様に、まだ知らされていない事柄、隠された事柄、理解できない事柄が多々あるのです。
  • 私たちの限界を率直に認める謙遜が求められます。しかし、同時に安心(安息)することが求められます。なぜなら、隠された事柄は主の御手の中にあり、主に属する事柄だからです。それゆえ、主を信頼することが求められます。明日は、私たちの神の確かな御手の中にあるのです。イエスも言われました。「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。」(マタイ6:34)と。ヘブライ特有のパラレリズムです。これはいつも心配することはないという意味です。これは主イエスの約束です。御父の子どもとされた私たちたちに対する配慮(統治支配)に対して信頼することが求められます。これが「神の国」と「その義」(正しいかかわり) を第一に求めることなのです。
  • この申命記29章29節の箇所があることで、モアブ契約は歴史的に限定された、一時的な契約であることを私たちに示そうとしているように思えます。神が民とモアブ契約を結んだ真意が、神のうちにあるということです。私たちは神の民が、シナイ契約においても、モアブ契約においてもことごとく失敗したことを知っています。その結果、彼らは約束の地から追放され、地の面に離散させられたのです。
  • 詩篇119篇の作者は、こうした失敗の経験を潜り抜けて、神のトーラーをあらためて受け取りなおしています。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」(119:18)

2. 奇蹟を土台とした信仰を信用されない神

  • 申命記29章2~4節も、実に不思議なことばが語られています。

    モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、【主】があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。3 あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。4 しかし、【主】は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。

  • 特に、4節のことばは不可思議です。「【主】は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」とはどういうことでしょうか。おそらく、これはモアブ契約の限界を示唆することばと思われます。というのも、シナイ契約にしても、モアブ契約にしても、その背景には超自然的な奇蹟と不思議がなされています。それは29:5~9に記されています。「40年間、着物はすり切れず、くつもすり切れなかった」とは、神の恵みと真実を表わしています。また、「ヘシュボンの王とバシャンの王を打ち破った」とは、最も強力な敵に勝利したことを意味しています。「それは大きなしるしと不思議であった」のです。
  • ところが、「【主】は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」とは、こうした出来事では、神の民の心は変わらないことを主は知っておられたということだと思います。イスラエルの教師であったニコデモがイエスのもとを訪れたのは、彼がイエスの奇蹟を見たからでした。そのニコデモに対して、イエスはやおら「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたのでした(ヨハネ3:3)。奇蹟を土台とする信仰は、神への応答を引き出すかもしれません。しかし、真の意味で人を悔い改めさせません。ヨハネの福音書2:23~25にはこうあります。イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、イエスを信じました。しかし、イエスは「ご自身を彼らにお任せにならなかった」とあります。なぜなら、イエスはすべての人のうちにあるものを知っておられたからでした。
  • 奇蹟を土台とした信仰ではなく、神の御子を信じる人格的な信仰が必要でした。それは神の律法やその支配の下にあっては、決して得られるものではなかったのです。「神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」です(ローマ6:23) この賜物を信仰によって受け取ることなしに、新しい神とのかかわりのいのちー永遠のいのちーは、私たちの心にはないのです。しかし、今や「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(コリント第二、9:15)



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