****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

【主】は私の羊飼い。

瞑想(1)  「主はわたしの羊飼い」(v.1a)

画像の説明

  • 「主は私の羊飼い」、The Lord is my shepherdと訳されます。これは主が羊飼いで、私がその世話を受ける羊だということです。「ローイー」(רֹעִי)は、名詞「ローエ」(רֹעֶה)の連語形「ロー」(רֹע)に、1人称接尾辞(私の)が付いたものです。
  • 主は「私の羊飼い」「わが牧者」「my shepherd」と訳すことが多いのですが、以下のように訳す人もいます。

「主が羊飼いとしてわたしを導いてくださる」 (聖パウロ 和田幹男訳)
The Lord shepherds me.〔Har〕―(The Psalms for Today, by R. K. Harrison)―「主は、私を牧してくださる」―
The Lord takes care of me as his sheep.〔Bas〕―(The Bible in Basic English)―「主は、ご自分の羊として私を世話してくださる」―

  • 動詞の「ラーアー」(רָעָה)は、「牧する」 shepherd―「食物を与える、必要なものを与える、飼う、育てる、供給する、羊を飼う、羊の番をする、羊の世話をする、治める」ーといった意味があります。羊は暑さに弱く、水を与えずに夏の日に歩かせ過ぎると死んでしまうようです。それゆえ、羊に水を与えるのは羊飼いの大切な仕事でした。羊は石で積んで造った囲い(おり)に入れられ、羊飼いはその入り口に番小屋を作って羊の数を調べ、羊の番をするのです(ヨハネ10:2~5)。
  • 「羊の習性」を調べてみると、第一に、羊は臆病で脆弱です。群れをはぐれてしまった羊を捕まえようとすると,不安と恐怖心で逃げてばかりで捕まらないそうです。第二に、迷いやすい。目が悪いということもありますが、実際,羊は羊飼いに連れられて毎日行き来している道を自分では行きも帰りもできず,すぐ迷ってしまうそうです。こんな方向感覚の悪い動物は他にいません。そして第三は、とても頑固です。羊は従順な反面、頑固で,羊飼いに逆らって自分勝手に進んで行き,群から離れて危険なところに行って自滅するという習性をもっています。ですから羊飼いが必要なのです。
  • 聖書の最初の人間であるアダムの弟息子のアベルは羊を飼っていたとありますから、かなり昔から人間と羊の関係は深いものがあるようです。「羊」は、まさに人間そのものの特性をたとえる家畜として聖書にしばしば登場します。

    イザヤ書53章6節
    「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。しかし、主は、私たちのすべのて咎を彼に負わせた。」

    ペテロ第一2章25節
    「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

  • エジプトから脱出したイスラエルの民を「神は、ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。」(詩篇78:52)とあります。羊はその存在のすべてを羊飼いに負っています。ですから、羊飼いから離れた羊には生存と防衛の保障がありません。また羊飼いは羊の存在なしにはあり得ません。両者は密接なかかわりをもっています。一方が欠けても成立し得ない関係なのです。「主は私の羊飼い」だと告白することは、自分がまさに弱い羊であること、羊飼いなしには決して生きられないことを十分に認めている驚くべき告白なのです。
  • ちなみに、旧約のエゼキエル書34章には真の牧者とはいかなるものであるかが記されています。

    11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする
    12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする
    13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う
    14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
    15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。─神である主の御告げ─
    16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」


    紫色の太字で示した動詞はすべて、羊に対する羊飼いの恩寵用語です。ここでの「羊」とはイスラエルの民を示し、羊飼いは主を示しています。

  • ここにみられる神の恩寵動詞は、やがて大牧者イェシュア・ハマシアッハ(イエス・キリスト)によって実現します。私たちはこの羊飼いよって牧される羊なのです。
  • イェシュアはヨハネの福音書10章14, 15節で、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのもの(羊)は、わたしを知っています。それは。父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」と述べています。羊飼いと羊の関係は、父と子の永遠のゆるぎないかかわりを類比するたとえです。互いに、互いのことを「知っている」という愛のかかわりこそ、ヨハネが言わんとする「永遠のいのち」です。
  • イェシュアは自分自身をについて、以下のように述べています。
    ①「わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」(マタイ15:24)。
    ②「わたしは失われたもの(羊)を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)。
    ③「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(マタイ9:36)。
    ④「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネの福音書10:11,10)。
  • 事実、イェシュアはそのとおりにして下さいました。この羊飼い(牧者)を知ることこそ、羊の第一の関心事とならなければなりません。私たちは、牧者イェシュアの語られた「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)ということばの真意を悟らなければなりません。このことが、「主は私の羊飼い」という告白の意味するところだと信じます。


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