****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

あなたがたのうちから悪を取り除き去るため

【補完14】 あなたがたのうちから悪を除き去るため


【聖書箇所】申命記 21章1~23節

ベレーシート

  • 約束の地で生きるイスラエルの民が聖なる民として生きるために、主の目に正しいとされる視点から五つの項目について記されています。一見、厳しいように見える面もありますが、これらの共通項は、「あなたがたのうちから悪を除き去るため」、あるいは「相続地を汚さないため」のものとして語られています。

1. 犯人の分からない殺人事件に対する連帯責任(1~9節)

  • 人里はなれた場所でだれかが刺し殺されるという殺人の罪をイスラエルから除き去るために、その事件が起こった場所から最も近い町の長老たちが、「まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取って、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷に連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折ること(代償的死、身代わりの死)」が命じられています。身代わりとなる「雌の子牛」とその首を折る場所の条件は、いずれも人の手がまだかかわっていない子牛とその子牛を殺す神聖な場所が指定されています。さらには、レビ族の祭司たちも動員され、長老たちの証言を聞いて、罪の赦しの宣言をしなければなりませんでした。このことは、誰かの犯した血の罪に対する連帯責任が、イスラエルの民に求められていることを意味しています。
  • 「雌の子牛」(「エグラー」עֶגְלָה)は、イスラエルの民全体の幸いと繁栄にかかわる重要な機会にのみ、いけにえとしてささげられる価値あるものです(Ⅰサムエル16:2参照)。また「雌の子牛」は、イスラエルの民の実際的価値(乳製品、耕作、脱穀の労働力、神へのいけにえ)や「豊かさ」(豊穣)、生命力と結びついた象徴的意味を持っています。

2. 美しい捕虜を妻として迎える場合の人権の保障(10~14節)

  • 戦争で捕虜となった女性を妻として迎える場合の規定が記されています。非常に具体的です。つまり、生活の変化に備えて準備期間を与えるということです。なんと人格的な、思いやりのある取り扱いです。たとえ捕虜だとしても、人間として扱われなければならないという規定です。もし、彼女を好まなくなった場合は、奴隷として扱ってはならず、自由の身としなければならないことが語られています。
  • ちなみに、11節にある「姿の美しい女性」の「姿の美しい」と訳されたヘブル語の「ヤーフェ」(יָפֶה)は、アブラハムの妻サラ、ヤコブの妻ラケル、ダビデの妻となったアビガイル、ダビデの息子の一人アブシャロムの妹のタマル、老年のダビデの世話役とされたアビシャグ、そしてペルシアの王妃となったエステルに使われているだけではなく、ヤコブの子のひとりヨセフ、紅顔の美少年と言われたダビデ、その息子のアブシャロムにも使われています。

3. 長子の権利を自分のものさしで勝手に変えてはならない(15~17節)

  • 「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合」、財産相続の時に、「そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。」というものです。これは「長子の権利」の秩序を自分勝手な好き嫌いで自由に変えてはならないというものです。
  • そもそも、長子は「その人の力の初めである」という前提に基づくものです。神にとって、イスラエルの民は諸国の民の中では長子的存在です。また、御子イェシュアも神にとっては長子なのです。それゆえ、長子や初子は神にとっては価値があり、二倍の祝福が神から約束されているのです。

4. 親子の情よりも、民の一員であることの優先性(18~21節)

  • 神の民イスラエルにおいては、個人よりも集団が優先され、重要です。したがって、子が父や母の言うことを聞かず、父母に懲らしめられても従わなくなった場合、町の門にいる長老たちのところに引き出されなければなりません。「町の門」には、公的な裁判所があったからです。そこで町の人は彼を石で打ち、彼は死ななければなりませんでした。その目的は、イスラエルの民の中から「悪を除き去る」ためのものです。
  • ただし、このようなことが実際になされたのかどうか、その記録は聖書の中にはありません。親に対する従順さを印象づける規定であったことは確かです。なぜなら、聖書においては、神への従順は、親の教育によってなされることが基本であったからです。

5. 木につるされた者への扱い(22~23節)

  • 死刑に当たる罪によってさばきを受けて殺された者を、さらしものにするために「木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない」と規定されています。それは、主が相続地として与えた地を汚してはならないためです。しかし、この箇所から使徒パウロは以下のように述べています。

【新改訳改訂第3版】ガラテヤ書3章13節
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。


  • つまり、パウロは申命記21章23節のことばを通して、キリストの十字架の死を、私たちに代わって神ののろいを受けてくださったこと、のろわれた者となってくださったこととして理解しています。そしてアリマタヤのヨセフは、十字架に掛けられたイェシュアをその日のうちに取り降ろして、自分のためにすでに用意してあった墓に納めました。それはモーセの律法に従った行為だったのです。

2017.11.1


a:2206 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional