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あなたがたは、わたしをだれと言うか

31. あなたがたは、わたしをだれと言うか

【聖書箇所】 9章1節~21節

はじめに

  • 今回の聖書箇所では、12使徒(弟子)たちに、悪霊を追い出し、病気を直すための権威と力を与えて遣わされたこと(1~6節)と、国王(ガリラヤの領主)であるヘロデの当惑、そして5千人(男子だけで)もの人々に給食の奇蹟を行い、人々がみな満腹した出来事、そして最後に、ヘロデがイエスのことを「この人はいったいだれか」と問うたように、弟子たちも「あなたがたは、わたしのことをだれだと言うか」と尋ねています。
  • この問いに対して、ペテロが語った「神のキリスト(メシア)」という答えにすべてがフォーカスされています。イエスこそ神から遣われたキリスト(メシア)であるという視点から、イエスの語られたすべてのこと、また、なされた働き(奇蹟も含む)のすべてが正しく解釈できるからです。しかしキリストがこれまでの語ったこと、なされたことだけではイエスがキリストとして正しく理解することはできません。イエスがなんのために遣わされたのかという点に光が当てられて初めてイエスがキリストとして正しく理解されるのです。
  • 共観福音書はイエスがだれであるかという部分(前半)とイエスがなんのために来られたかという部分(後半)が合わさって、はじめて正しく理解することができるのです。

1. 領主ヘロデの戸惑いとメシアの秘密

  • イエスが12使徒たちを呼び集めて福音を宣べ伝えるように命じました。そしてそのための権威と力を与えました。使徒たちはイエスから与えられた力と権威を行使することで多くの人々を癒しました。しかしこうした力と権威はかつてのイスラエルの時代においても見ることができました。ですから、人々はイエスのことをバプテスマのヨハネや旧約の預言者エリヤだと言い、ある者たちは昔の預言者の生き返りだと言っていたのです。やがて復活のイエスから遣わされる聖霊によって、初代教会はイエスの力と権威を行使するようになります。いわばその先取りとしての働きでした。
  • ヘロデはガリラヤの領主としてこうしたイエスの存在が放つ大きな影響力をとても恐れました。すでに自分の罪を告発するバプテスマのヨハネを捕えただけでなく、彼を殺しもしました。そのヨハネが死人の中からよみがえったと言う者がいたことで、ヘロデはイエスに会ってみたいと思ったのです。しかしそれは単なる興味本位として会ってみたいという思いもありました。イエスの行う奇蹟を見たいと思っていたのです(ルカ23:8)。しかし同時に、イエスを殺そうとも思っていたようです(13:31)。
  • イエスは宣教の働きから帰って来た弟子たちを連れてベツサイダの荒野に退きます。ここの「退く」と訳されたギリシャ語は「ヒュポコーレオー」ὑποχωρέωは、ルカの5:16と9:10にしか使われていない動詞ですが、「祈りための、あるいは、瞑想のためのリトリート」の必要性を記す重要な箇所です。そのリトリートは、すべての働きの力の源泉からインプットする静かな時でもあるのです。これなしに大きな力をアウトプットできません。
  • しかし、そうとは知らずに群衆がそこにも追いかけて来ます。そんな群衆に対しても、イエスは「喜んで彼らを迎え、神の国のことについて話し、いやしの必要な者をいやした」とあります。イエスは自分の所に来る者をだれひとりとして退けることはありませんでした。「来る者は拒まず、去る者は追わず」です。
  • また、五千人もの群衆に対して、必要な食べ物を与えるという奇蹟をなさいました(脚注)。そして人々は「みな、食べて満足した」のです。これはやがてイエスの権威と力によって与えられる霊的な祝福が弟子たちによって与えられ、人々の飢え渇きを満たすことを示唆する奇蹟でした。神の国とその義を第一に求める者には神がその必要を与えてくれます。しかし、霊的な飢え渇きを満たし、満足される働きはやがて使徒(弟子)たちが担うことになるのです。事実、使徒の働き6章では、教会が様々な問題に対処していく上で、きわめて優先度の高い働きとして、使徒たちは「もっぱらみことばと祈りの奉仕に専心する」ようになります(使徒6:4)。それは、みことばと祈りが教会の存在にとって死活問題になることを使徒たちはよく知っていたからと言えます。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい」という弟子たちに対するイエスのチャレンジはいつの時代においても変わることのないものと言えます。
  • イエスは単なる実際的な日々のパンを与えるだけでなく、霊的な、上からのパン、世にいのちを与えるパンを与えて、心の(たましいの)飢えを満たすことができる方であることを示されたのですが、そのことを正しく理解できた者はそう多くはおりませんでした。群衆の多くは物質的な必要を満たしてくれるメシアを望んでいたからです。ですから、より深い真理はどうでもよかったのです。そうした誤ったメシア待望を助長しないように、つまり、神の国についての誤った理解をしないように、イエスは自分のしたことをだれにも話さないようにと警告する必要があったのです。特に、「わたしはだれと言うか」との問いに正しい答えをしたペテロとその周囲にいた弟子たちに対して、「このことをだれにも話さないように、厳しく戒められたのでした。」

2. イエスの生涯を二つに分ける「問い」

二つの問い

  • 第一の問いの答えは、「あなたは神のキリストです。」というペテロかした信仰告白でした。マタイの福音書にわれば、これは御父の啓示によるものであることをイエスはペテロに語りました。この信仰告白こそニ千年のキリスト教会で告白され、戦ってきた告白です。この告白こそ教会の土台であり、クリスチャンはこの信仰告白なしには立つことばできません。この告白の上に教会は建てられています。この告白なしにはどんなに立派な会堂(建物)があったとしても真の神の国、あるいは教会とは言えません。この告白のあるところには、たとえ小さな群れであっても真の神の国があり、教会があるのです。
  • この告白の直後に、イエスは自分がエルサレムにおいて、「多くの苦しみ」を受けることを予告します。弟子たちはこのことを理解することができませんでした。「捨てられ、殺され、よみがえられねばならない。」と。この「ねばならい」という表現は、「捨てられねばならない、殺されねばならない、そして、よみがえられねばならない」という意味です。神のしもべとしての職務が全うされるためには、このように多くの苦しみを受けるということが定まっているということなのです。このことのためにイエスが来られました。このことのゆえにイエスがキリストであることを裏付けるのです。後者のことはルカの福音書9章22節以降で扱われるので、ここでは差し控えたいと思います。

脚注

ちなみに、9章16節の原文の直訳はこうです。
「さて、イエスは5つのパンと二匹の魚を取り上げてから、天を見上げ、それらを祝福された。そして、イエスは細かく砕いて、群衆に差し出すようにと次々と弟子たちに与えた」。「次々と与えた」と訳したのは、「与える」という動詞が未完了だからです。細かく砕かれたパンや魚が、イエスの手から弟子たちに渡される段階で次々と増えていったイメージが伝わってきます。弟子たちに手渡す前に、イエスが五つのパンと二匹の魚を「祝福した」ということが重要なポイントです。神の国においてはすへべての人々の必要が不足なく完全に与えられるのです。

2011.11.17


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