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あなたがたは、世界の光

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16. あなたがたは、世界の光

ベレーシート

  • 前回は、「あなたがたは、地の塩」というタブレットを取り上げました。タブレットとは、神の隠された事柄についての一枚の板に書かれた表題(タイトル)のようなものです。したがってその内実は聖書の中から解釈されなければなりません。「あなたがたは、地の塩」とは、神とのかかわりにおける「親密さ」「専心性」をあらわす契約用語であることを学びました。今回はそのことと関連するもう一つのタブレット、つまり、「あなたがたは、世界の光」を取り上げます。聖書が意味している「光」の概念とは何なのでしょうか。

1. 「わたしは、世の光」と自己宣言されたイェシュア

  • 「あなたがたは、世界の光です。」とイェシュアは弟子たちに言われました。「世界の光」とは何でしょう。「世界」と訳されたことばはギリシア語で「コスモス」(κόσμος)です(脚注)。「世界」も「世」も同じく「コスモス」というギリシア語が使われています。「コスモス」とは、神から離れ、神を知らずに生きている人の住む世界を意味します。換言すれば、「この世の神」が支配する世界です。ですから、「あなたがたは、世界の光です」という意味は、「この世の神」が支配する世界に対して、あなたがたは神の「光」をあかしする者だという意味なのです。

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  • ここで注目したい点は、「コスモス」(κόσμος)の部分が、ヘブル語では冠詞のついた「ハー・オーラーム」(הָעוֹלָם)となっていることです。「世」を表わすヘブル語は「テーベール」(תֵּבֵל)や「ヘレッド」(חֶלֶד)がありますが、メシアニック・ジューの聖書ではなぜかこぞって「オーラーム」(עוֹלָם)という語彙で訳しています。そもそも「オーラーム」は「永続、永遠、昔、いにしえ」を意味します。とすれば、「アッテム・オール・ハー・オーラーム」で「あなたがたは、永遠の光」という意味になります。「世」と「永遠」の微妙な相違、ここにギリシア語とヘブル語との相容れない概念の相違があるのかもしれません。
  • さて、「あなたがたは、世界の光です」とイェシュアが弟子たちに言われました。「世界の光」とは何でしょうか。このことを考える前に、イェシュア自身が「わたしは、世の光です。」(ヨハネ8:12)と宣言しています。「光」(「オール」אוֹר)の反対は、「やみ」(「「ホーシェフ」חֹשֶׁךְ)です。本来、やみの中にいる者は、自分がやみの中にいることを知る事ができません。しかしひとたびこの「光」に照らされると、自分がやみの中にいることを知るのです。その時が問題です。「光」に出会った者は、その光を受け入れるか、それともやみを愛して光を拒絶するのか、そのいずれかで自分の永遠の歩みを決定してしまうからです。ですから、「光」について心を閉ざすことなく、むしろそれを受け入れて永遠のいのちを手に入れなければなりません。
  • イェシュアは言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)―「光」と「いのち」は密接な関係をもっています。ヨハネの福音書にはこのことが扱われています。前半は「いのち」について、そして後半は「光」についてです。第一章のプロローグには「いのち」と「光」が同義語として提示されています。

    【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書1:1~5, 9節
    1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
    2 この方は、初めに神とともにおられた。
    3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、
    この方によらずにできたものは一つもない。
    4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
    5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
    9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。


  • ここにはヘブル的表現である同義的パラレリズムが見られます。

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2.「かかわりの概念」としての塩と「御国の概念」としての「光」

  • ちなみにもう一つの突っ込みです。それは、「わたしは、世の光です」というイェシュアの自己宣言があるにもかかわらず、なぜ「わたしは、地の塩です」という自己宣言がないのか、ということです。「塩」とは神と人との契約における「かかわりの概念」を表わす象徴です。それゆえ、「契約の塩」とか「塩の契約」ということばが存在します。しかし聖書には「契約の光」とか「光の契約」というフレーズがありません。それはおそらく、イェシュアの場合には「わたしは、世の塩です」という自己宣言がなくとも、「塩」という象徴を用いなくとも、神とのかかわりにおける「親密さ」「専心性」というかかわりを持っていたからではないかと思います。そのかかわりの内実は、イェシュアの言う「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)ということばに集約できます。つまり、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」(ヨハネ6:38)という言葉の中に「塩」の概念が十分に表されているからだと信じます。つまり、イェシュアこそ完全な「地の塩」であったにもかかわらず、契約用語としての「塩」という表現をしなかったのは、御父と御子との関係が永遠の信頼(愛のいのち)の絆で結ばれており、契約関係によって結ばれているわけではないからです。それゆえ、「わたしは、地の塩です」という表現をなされなかったのではと考えます。
  • ではなぜ、イェシュアは「わたしは、世の光です」と言われたのでしょうか。それは「光」が、「塩」に象徴されるかかわりの概念ではなく、御子イェシュアによって(~を通して、~のために)、神がなそうとあらかじめ定めておられる御国の概念だからです。すなわち、「光」とは、「あらかじめ定められた神の永遠のご計画、みこころ、みむね、目的」を表わす概念なのです。換言するならば、神があらかじめ定めていた「神の隠された奥義」である「御国の福音」が「光」という概念で表されているということです。

3.「天からの光」によって「光」の概念を悟る

  • イェシュアが「わたしは、世の光です」(ヨハネ8:12)と宣言された後で、盲目に生まれついたひとりの人と出会います。その盲人について、弟子たちがイェシュアに尋ねます。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と。この質問に対して、イェシュアの答えは、「この人が罪を犯したのでも、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:3)でした。「神のわざがこの人に現れるため」とはどういうことでしょうか。道で出会ったひとりの盲人だけでなく、すべての人が生まれつき「盲目」なのです。そのことに私たちは気づいていません。天からの光に照らされて、はじめて自分がやみの中にいたことを知るのです。
  • 「この道」と呼ばれていたキリスト者たちを迫害していたサウロ(後の使徒パウロ)が、ダマスコ途上で「天からの光」であるイェシュアと出会いました。そのことで、見えていた目が見えなくなってしまいました。三日後に彼の目から「うろこのようなもの」が落ちて、再び彼の目が開かれたとき、イェシュアこそ真のメシアであり、神の御子であることを理解し、そして御子イェシュアが語り、デモンストレーションされた「御国の福音」を理解することができたのです。事実、使徒パウロは他の使徒たちにまさって「御国の福音の奥義」が啓示された人です(エペソ1: 5~14、3:5~6、5:30~33)。そのパウロが、キリスト者に対して「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8~9)と勧め、また「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」とも命じています。つまり、「光」に対する開眼こそが、「光の子」とされた者がどのように歩むべきかが決定づけられるということです。ですから、「光」について目が開かれることが優先される必要があるのです。
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  • 「天からの光」を受けた使徒パウロは、「光」が「やみの中から輝き出た」ものだと悟りました。さらに、この光の概念を、神が「あらかじめ定められていたこと」「みこころの奥義」「みむね」「ご計画」「目的」という語彙で表現しています。これについてはエペソ人への手紙1章5~11節に記されています。「光」という語彙を一切用いずに、「光」の概念を説明しています。これについては、すでに「「光」についての神学的瞑想」でまとめていますので、「牧師の書斎」で学んでください。
  • 光の概念を構成する語彙について学びたい方のために、参考までに原語情報を以下に記しておきます。

①「みこころ」・・「セレーマ」(θέλημα)―「ラーツォーン」(רָצוֹן)
②「みむね」・・「ユードキア」(εὐδοκία)―「ヘーフェツ」(חֵפֶץ)
③「ご計画」・・「プロセシス」(πρόθεσις)―「マハシャーヴァー」(מַחֲשָׁבָה)
④「目的」・・・「ブーレー」(βουλή)―「トフニート」(תָּכְנִית)
※但し、このヘブル語は「設計」の意。
⑤「あらかじ定めておられた」・・「プロオリゾー」(προορίζω)―「バーハル」(בָּחַר)


4. 盲人の開眼こそ「神のわざ」(単数) であり、それを告げ知らせることが「良い行い」

  • 「わたしは、世の光です」と言われたイェシュアは、以下のように語られました。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書9章4~5節
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。


  • ここで重要なことは、「わたしたちは」と複数形で語られているということです。つまり、ここの「わたしたち」とは「イェシュアと弟子たち」のことです。そして、「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」(9:5)と言われたイェシュアは、生まれつきの盲人の目を開かれたのでした。この「目が開かせる働き」をイェシュアは「神のわざ」、あるいは「わたしを遣わした方のわざ」と語っています。そしてこのわざをイェシュアはご自分の弟子たちに託されることになるのですが、このことが、今回のマタイ5章14節にある「あなたがたは、世界の光です」ということばが意味していることです。
  • 光の概念を正しく理解して、その「光」(御国の福音、永遠の昔から定められていた神のご計画と神のみこころ)を人々の前で輝かすこと(つまり、伝え語ること)こそ、マタイの言う「良い行い」(マタイ5:16)なのです。そして、私たちはその「良い行ない」をする「神の作品」として造られたのです(エペソ2.10)。また、その「良い行ない」を通して神のわざが現わされることを見た人々が、天におられる父をあがめるようになることも「世の光」である弟子たちの務めでもあるのです。ですから、時が良くても、悪くても、「光」である「神のご計画とみこころ、御旨と目的」を正しく理解して、そのことを伝えなければなりません。
  • ここでいう「世の光」とは、この世のボランティアがするように、何か人々に親切を施し、良いこと(善行)をして助けてあげるとか、人々に喜ばれる何かをしてあげたりするということではありません。もちろんこれをすること自体、悪いということではありません。しかし「世の光」となって、その光を輝かせるということは、イェシュアを通して神がなそうとしておられる御国の福音の事柄を輝かすことだということです。そもそもこの光は私たち人間の内にあるものではありません。私たちが見る月の輝きは太陽からの反射した光であるように、弟子たちの光の輝きもイェシュアの光が反射した輝きでしかありませんが、その光を輝かすことが、イェシュアの弟子としての最も重要な務めなのです。



脚注

●ギリシア語には「世」を表わす語彙として二つあります。一つは「アイオーン」(αἰών)で、もう一つは「コスモス」(κόσμος)です。

●前者の例としては、Ⅱコリント4章4節がそうです。
前者の例としては、Ⅱコリント4章4節がそうです。
「その場合、この世(αἰών)の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(新改訳改訂第3版)
後者の例としては、Ⅰヨハネ5章19節がそうです。
後者の例としては、Ⅰヨハネ5章19節がそうです。
「私たちは神からの者であり、世(κόσμος)全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」(新改訳改訂第3版)

●しかし、前者も後者もヘブル語にすると、いずれも「ハー・オーラーム」(הָעוֹלָם)で表記されます。つまり、「ハー・オーラーム」は、世の時間的・空間的領域のすべてを包含しいる概念だと言えます。


2017.4.1


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