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あなたがた自身に、十分気をつけて

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49. あなたがた自身に、十分気をつけて

【聖書箇所】 ヨシュア記23章11節

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【読み】
ヴェニシェルテム メオード レナフショーテーヘム レアハヴァー エット アドーイ エローーヘン

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、【主】を愛しなさい。
【口語訳】
それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない。
【新共同訳】
だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。
【岩波訳】
あなたがたは、あなたがた自身のために、心して、あたながたの神ヤーウェを愛するように注意しなければならない。
【NKJV】
"Therefore take careful heed to yourselves, that you love the Lord your God.

【瞑想】

11節をいろいろな翻訳で比較してみると、この短いフレーズは決してやさしいものではないことが分かります。つまり、訳文を見ると、いったい主動詞はどれなのか混乱します。原文では 最初に「シャーマル」שָׁמַרの二ファル形があります。本来、「守る、見張る、気をつける」という意味ですか、受動の二ファル2人称複数で「あなたがたは気をつけて、注意して」という意味です。「シャーマル」の頭に接続詞がついているので、新共同訳とフランシスコ会訳は「だから」と訳しています。その次に「十分に」と訳される「メオッド」מְאֹדという副詞が来ます。「メオッド」מְאֹדは「非常に、大いに」という意味。そしてその次には前置詞「レ」לְ付きで、「あなたがたのネフェシュのために」という言葉が来ます。

「ネフェシュ」נֶפֶשׁは旧約ではきわめて重要なことばです。人の(その本質を含めた)存在そのものを意味します。ですから、岩波訳はこの「ネフェシュ」נֶפֶשׁを「あなたがた自身のために」と訳しています。注意をうながす理由は「あなたがたの神、主を愛するため」です。そのために「あなたがたのネフェシュに十分な注意を払わなければならない」とヨシュアは語っているのです。私たちが「ネフェシュ」の実体というものを良く知り、それに対して十分な注意を払うことによって、はじめて主を愛することができるからです。

「ネフェシュ」とは、神によって創造された「生き物、息のあるもの」を意味します(創世記1:20, 21, 24, 30)。人間も土のちりで形造られ、その鼻にいのちの息を吹きこまれたことによって、生きる者となったとありますが(創世記2:7)、それは「すべての必要を神から与えられることによって生きる存在」という意味です。

まさに、人間は生まれてから死ぬまで必要の塊(かたまり)です。人間の必要を求めるすべての心の衝動(神を求めるという良い欲望も自分中心的な悪い欲望も含めて)は、神によって与えられたものです。人の心にある衝動、あるいは心の渇きが神によって満たされるとき、それは健全であり、真の意味で「いのち」を持った存在といえます。ところが、私たちは「いのち」を神以外のほかのもので満たそうとするとき混同するのです。

このことをイエスがルカの福音書12章で教えています。
ルカ12章15節に、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのち(「ゾーエー」ζωη)は財産にあるのではないからです。」と言われました。ところが、そのあとのたとえ話に出て来る「たましい」「いのち」ということばは「プシュケー」ψυχηということばが使われています。「いのち(ψυχη)のことで何を食べようかと心配したりするのはやめなさい。」この「プシュケー」の元になっているヘブル語が「たましい」とも「いのち」とも訳される「ネフェシュ」נֶפֶשׁなのです。

「ネフェシュ」は常に渇きを満たすために常にうごめき、じっとしていない実体です。そしてこのネフェシュが満たされるとき安心するのですが、確実に満たされる保証を求めつづけるために「思い煩い」が生じるのです。神は私たちのいのちがそのような本質をもっていることを十分ご存じで、その必要を満たしたいと願っているのですが、ネフェシュはそのことになかなか気づかず、その渇きの不安のゆえに、自分の力でネフェシュを満たそうとして、ますます「思い煩う」ようになるのです。もし自分のネフェシュを満たしてくれるものであれば、なんでも神としてしまう弱さをまとっているのです。その解決策をイエスはすでに与えています。つまり、私たちのネフェシュ(たましい、いのち)を神は満たしてくださる方であることを理解するだけでなく、積極的に自ら「神の国の支配を求め続けること」によって「思い煩い」から解放されるだけでなく、神が与えてくださる賜物によってネフェシュが満たされ、真の「いのち」(「ゾーエー」ζωη)を持つ存在となり得ることを。

ヨシュアが民に、ないしは、次の世代の者たちに、主を愛する上で(ために)、「あなたがたのネフェシュに十分な注意を払う」必要を教えたのには深い意味があったのです。

「ネフェシュ」の特徴は、目に見えないもの(精神的なもの、内なるもの)です。ですから、使徒パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と述べています(Ⅱコリント4:18)。


2013.4.4


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