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あなたのパンを水の上に投げよ

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伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。

11. あなたのパンを水の上に投げよ

【聖書箇所】11章1~10節

ベレーシート

  • 伝道者の書11章1~6節は、たとえや箴言を意味する「マーシャール」(מָשָׁל)と言えます。この世の目に見える事象を用いて、神の隠された深い秘密を表わそうとするものです。この世で最も知恵の持ち主であった伝道者の書の作者は、「日の下」(伝道者の書にのみ使われている独自の用語です)における営みも、「空の空。すべては空。」と明言し、「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」と語っています。その作者が、11章1節では、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」と語っています。つまり、ここでは空しく終わらない行為について言及しているはずです。「マーシャール」(מָשָׁל)は、その真意を尋ね求める者にのみ真意が開かれるものです。したがって、今回この有名な11章1節のみことばを、御国の福音の視点から味わってみたいと思います。その視点から見るならば、そこには神のご計画、みこころ、御旨、目的が隠されており、大いなる希望を与えるものでなければならないはずです。

1. この節のこれまでの諸解釈

(1) 大胆な投資が成功をもたらす

  • チェーン式バイブルを見ると、1節は次のように解説されています。「港町における穀物貿易で用いられていた比喩的表現で、危険をも恐れずに大胆に投資することによって、成功を収める時が来ることを意味している。」と。ただし、投資する場合には、分けて投資をしなさい。世界情勢がどのようになるか先の事は私たち人間には分からないから、とする解釈。
  • 果たして、1節が「港町における穀物貿易で用いられていた比喩的表現」なのかどうか本当のところは分かりません。また確かめるすべもありません。しかしたとえそうだとしても、大胆な「投資」がやがて成功をもたらすという程度の意味であるなら、あまりにもこの世的な知恵であり、この伝道者の書の著者が追求しようとしているものとマッチしているようには思えません。

(2) 一見無駄と思える信仰の行為に思えても、必ず、益となる

  • あれこれと心配せずに、朝から晩までたゆまず福音の種を蒔いて、その結果としての収穫は神様に任せよう。因があれば必ず果があることを信じようと、善行を勧める解釈。これは伝道至上主義的解釈として用いられることも多々あります。
  • また、伝統的なラビ(ユダヤ教の)解釈で「不確かな将来の中で今できる善を為せ、そして報いを楽しみに待て」というのも、同じ部類の解釈です。

2. 御国の福音の視点からの解釈

  • この節が言わんとしていることは、「あなたが真に生きるための必要(糧)を神から得ようとしなさい。」ということだと私は解釈します。「あなたのパン」とは「あなたの生きる上で必要な糧」を意味します。それは、必ずしも食べるパンを意味しません。ここでのパンとは、人が生きるために絶対に必要なものを象徴しています。アダムはエデンの園においてすべての必要を神から与えられていましたが、サタンにだまされたことによって食べてはならない「善悪の知識の木の実」を食べてしまい、その罪によって地は呪われ、その結果、人は顔に汗を流して「糧」(原語は「レヘム」לֶחֶם)を得なければならなくなりました。しかもそれは、やがて土に帰るときまで続くものです。
  • しかし、伝道者の書の「あなたのパン(糧)」は自分の力によって得るのではなく、「水の上に投げよ」とあります。ここで厄介なのは多くの聖書が「シャーラハ」(שָׁלַח)の命令形を「投げよ」と訳していることです。「あなたのパンを・・・に投げよ」とあれば、「あなたのパン」はすでに自分の手の中にあることが前提となっており、それを「投げる」とすれば、「投資する」と解釈されても致し方ありません。「投げよ」と訳された「シャーラハ」には他にも多くの意味があり、神のご計画とみこころ、御旨と目的の秘密が隠されている語彙のように思うのです。
  • その前に、「水の上に」というフレーズの解釈です。原文ではこの箇所を「アル・ペネー・ハンマーイム」(עַל־פְּנֵי הַמָּיִם)とあり、これと同じフレーズが創世記1章2節にあります。ただそこでは、「神の霊が水の上を動いていた」となっています。もし伝道者の書11章1節を「水の上を動いていた」と解釈するとすれば、「シャーラハ」(שָׁלַח)の意味するところが、自分の必要をその方に拠り頼むことを命じる意味となります。つまり、投資ではなく、依存への命令なのです。なぜなら、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)のであり、天の父が、求める者たちに与えてくださる良い賜物は「聖霊」です。その方のおられるところには「神のことば」があります。聖霊は神の口から出ることば(天からのマナ)を私たちの生きる糧としてくださる方です。水を意味するヘブル語の「マイム」(מַיִם)は、神の真理の象徴ですが、その真理と深くかかわっている神の霊に、「あなたの糧」を得るよう向かせることこそ、「投げよ」と訳されている「シャーラハ」の命令形が意味していることなのだと考えます。ここに、「日の下」の空しさから救われる道があることをコーへレット(伝道者)は知らされているのです。それゆえ、「あなたのパン」を「日の下に」ではなく、「水の上に」求めるようにと諭しているのです。

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  • 「あなたの糧を水の上に投げよ」ということばのニュアンスを正しく捉えて理解するために、ヘブル動詞の「シャーラハ」(שָׁלַח)の秘密を探る必要があります。

3. 「シャーラハ」(שָׁלַח)の秘密

  • 聖書において、「シャーラハ」(שָׁלַח)の用法を調べてみることにしたいと思います。初出箇所は創世記3章から、少なくともアブラハムの生涯が記されている創世記25章までの範囲を検証してみたいと思います。

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  • 神は、エデンの園からアダムとエバを「追い出し」ました。しかしそれは彼らを再び回復して、「救い出す」ために神の使いを「遣わされる」方なのです。
  • ちなみに、イェシュアが生まれつきの盲人と出会ったとき、彼に「行って、シロアムהַשִׁלֹחַ(訳して言えば、遣わされた者שָׁלוּחַ)の池で洗いなさい。」と言われました。盲人はイェシュアが言われたように、行って、洗うと、見えるようになって帰って行ったとあります(ヨハネ9:1~7)。ここで「シロアム」とは「遣わされた者」のことであり、イェシュア・ハマシアッハ(イエス・キリスト)のことを示唆しています。生まれつき盲人であった者はこの方によって目が開かれたのです。彼の目が開かれることは、彼にとっての「必要」(「糧」)であったはずです。
  • また、人が主体となる場合には、神の命令に従ってそれを「行使する(手を伸ばす)」「送り出す」、神のご計画を実現するための配慮として他の義兄弟を「遠ざける」という意味にも使われています。これらはすべて、神のご計画とみこころ、御旨、目的を実現させることと密接に関係しています。
  • 伝道者の書11章1節の「あなたのパンを水の上に投げよ」という命令も、神のご計画とみこころ、御旨、目的を実現させることにかかわる事柄です。「投げよ」に代わる適訳が見つかりませんが、ここでは一応「向けよ」としておきます。11章1節は、まさに私たちの永遠の必要(糧、パン)を、水の上に羽ばたいて(舞いかけて)いる神の霊に向かってより頼めという命令だとすれば、「ずっと後の日になってあなたはそれ(糧・必要)を見い出す」ようになるという約束なのです。しかもそれは、神のご計画のカイロス(神の最善の時)において、神の絶妙なタイミングによって実現すると信じます。あるいは、御国の福音の視点から見て、「後の日」を「御国の完成」と捉えるならば、「御国において真に見出す(与えられる)」という、御国への希望につながるのではないかと思います。


2016.3.29


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