****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

あなたの兄弟を得るために

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81. あなたの兄弟を得るために

【聖書箇所】マタイの福音書18章15~20節

ベレーシート

教会とは建物のことではなく、「神によって選び出された者(召し出された者)」たちのことです。ギリシア語では「エックレーシア」(ἐκκλησία)と言い、それに相当するヘブル語は「集まり、集会、集団」を意味する「カーハール」(קָהָל)です。教会の最初の殉教者となったステパノは、イスラエルの民のことを「荒野の集会」(使徒7:38)と言っています。イスラエルにしても、教会にしても、神の共同体であることは言うまでもありません。今回は、その共同体の交わりにおいて大切なことが扱われているのです。今回のテキストを見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書18章15~20節
15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

●15節の冒頭にある「また」は、その前に語られたことと関連づけている接続詞です。その前に語られていたこととは何かと言えば、14節の「小さい者たち(=イェシュアの弟子たち)の一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」ということばです。そして15節は、「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります」と続いています。特に14節の「滅びる」ということばと、15節の「得た」ということばは一見対極的な語彙に見えますが、14節の「滅びる」ことは神のみこころではないと否定されていますから、内容的には全く同じだということが分かります。

●「得た」と訳された「ケルダイノー」(κερδαίνω)は「手に入れる、獲得する」とも訳されます。すでに、そのことばは、16章26節の「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」にある「手に入れても」で使われています。この節の言わんとしている本意は、いのちを「得る」ことが、全世界を得ることよりも大切だという教えです。今回のマタイの福音書18章は、「兄弟のいのちを得ることの大切さ」を教えています。いのちを与える方はイェシュアだけであることは言うまでもありませんが、敵意をもって、そのいのちを奪おうとする存在、交わりを破壊しようとする存在がいます。それはサタンです。サタンはこの交わりを弱体化させ、教会を教会でなくしてしまおうと虎視眈々(こしたんたん)と狙っているのです。

●ちなみに、今回のテキストには「もし~なら」を意味する「エアン」(ἐάν)という接続詞がなんと7回も使われています(15節に2回、16節に1回、17節に2回、18節に2回)。共同体といえども、私たちは罪人の集まりですから、罪のゆえに様々な問題が起こってくることが予想されます。ですから、「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」なのです。ここでの「罪」が一体何なのか、具体的には何も説明されていません。しかし、それを放置しておくことはできないのです。罪が何であるか、すでに与えられている御霊によって教えられるはずですが、主にある共同体の中の一人として、あなたがしなければならないことがここで言及されているのです。それは「あなたの兄弟のいのちを得る」という責任ある行為なのです。

1. もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら

(1) 第一段階「行って二人だけのところで指摘しなさい」

●15~17節では「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯した」場合についてです。18節以降からは、「あなた」個人ではなく、「あなたがた」(複数)に対して語られています。いずれも、自分の兄弟が何かの過ちに陥っていることが分かった場合、その兄弟たちに対してなすべき責任があるのです。その責任とは、「行って二人だけのところで指摘しなさい」ということです。

●「指摘しなさい」と訳された原語は「エレンコー」(ἐλέγχω)のアオリスト命令形で、これは「相手に自ら自分の誤りを認めさせる」ことを意味します。そして二人の関係を正すことを忠告するのです。そのための方法が「二人だけのところで」、つまり1対1です。それで相手が聞き入れるなら、相手にとっても、また教会にとっても、これが最善の方法であることを知恵あるイェシュアが教えているのです。旧約と新約からそれぞれ一つずつ挙げておきたいと思います。

【新改訳2017】レビ記 19章17節
心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。

●ここでは、心の中で自分の兄弟を憎んではならないことが指摘されています。しかも「心の中で」とあります。「憎む」ことは何ら解決にはならず、自分の「心の中で」問題を深化させてしまいます。これはサタンの罠です。その罠に陥らないために、あなたの方から同胞(=兄弟)に対して「よく戒めなければならない」のです。ここの「よく戒めなければならない」は「戒める」を意味する「ヤーハハ」(יָכַח)という動詞が2回重ねて使われていることから、「必ず戒めなければならない」という意味です。決してかかわりを避けてはならないのです。同胞を「憎む」のではなく、むしろ、「愛する」ために「必ず戒めなければならない」のです。心の中で憎むことはやさしいですが、愛することは決してやさしくないのです。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙 6章1節
兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
※ここにも「もし・・なら」の接続詞「エアン」(ἐάν)があります。

●ここでの問題は、自分に対しての罪というよりも、ある人の罪がたまたま見つかってしまった場合です。その場合の対処が「柔和な心でその人を正してあげなさい」という方法です。何かの過ちに陥ってしまった人を「心の中で憎む」のではなく、また、「非難し、攻撃し、さばく」のではなく、むしろ「柔和な心でその人を正す」ことなのです。「正してあげなさい」(「カタルティゾー」καταρτίζω)とは、「元の位置に完全に戻す、回復させる」ことを意味します。これは、整骨医が脱臼した骨を元に戻すときに用いる語彙です。ここでは現在命令形が使われていますから、継続的な命令です。どのような方法によって元に戻すかと言えば、「柔和な心」です。原語は「柔和な霊」(πνεύμα πραΰτης)となっています。ですから、「柔和な霊」とは御霊の実の一つなのです(ガラ5:22~23)。それは、特に自分に対する実であり、「忍耐深さ」を意味します。イェシュアも自分のことを「わたしは心が柔和で」と語っていますが、「忍耐深さ」を表わす語彙として使っています。

【新改訳2017】マタイの福音書11章28~29節
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

●脱臼した関節をそのままにしておくと、痛みはなくなり、固定化して元に戻すことができなくなるようです。そのように、何かの過ちに陥っている人をそのままにしておくなら、悔い改めることができなくなり、救いを失うことはなくても、役に立たないクリスチャンとなってしまうのです。ですから、「柔和な霊」を持った人の助けが必要なのです。そのような人は、御霊によって成長した「霊の人」でなければならないのです。私たちが戦わなければならないのは、人ではなく、サタンの策略に対してなのです。「柔和」であることは決して弱いことを意味しません。むしろ強い力をもっていることのあかしなのです。それは忍耐をもった、落ち着いた優しい心(精神)なのです。

(2) 第二段階「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」

●人から罪を指摘されて自分の罪を素直に認める人であれば、何ら問題はありません。ところが悲しいことに、そうならないことが往々にしてあるのです。その場合には、第二段階の処置が取られます。それがマタイ18章16節です。

【新改訳2017】マタイの福音書18章16節
もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。

●ここで、第一段階の1対1から、第二の段階である「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と命じられています。その目的は、二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。「証言」と訳されている原語は「口」(「ストマ」στόμα)です。二人、三人連れで行くのでから、口も複数になるわけですが、ここでの「口」は単数になっています。つまり、証言の内容が一つであるということです。それは力を持ちます。それは以下の聖句に基づいています。

①【新改訳2017】申命記19章15節
いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。(※ちなみに、ここでの「証言」ということばも、原文では「口」(פֶּה)となっています。)
②【新改訳2017】ヨハネの福音書8章17~18節
17 あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。
18 わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。
③【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙 13章1節
私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。
④【新改訳2017】Ⅰテモテへの手紙5章19節
長老に対する訴えは、二人か三人の証人がいなければ、受理してはいけません。
⑤【新改訳2017】ヘブル人への手紙 10章28節
モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。

(3) 第三段階「教会に伝えなさい」

【新改訳2017】マタイの福音書18章17~18節
17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。

●第一段階で聞き入れず、第二段階でも聞き入れないなら、第三段階として「教会に伝えなさい」とあります。3段階を経るというのは、事柄の確実性を明確にする神の原則のようです。聖書でしばしば出て来る「三度」「三回」は、事柄の確実性を立証するためです。

●ところで、17~18節に記される第三段階にある「教会に告げる」のは最後の段階です。それでも、聞き入れないなら、「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」としています。教会には、「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」という権威を与えられています。教会にこのような権威が与えられているのは、キリストの花嫁であるからです。

2. 「エハード」(一つ)の力

【新改訳2017】マタイの福音書18章19~20節
19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

(1) 主の臨在の約束

●この箇所は、私たちが礼拝や祈祷会に当てはめて、わずかな人数の集まりの中にも、主が共にいてくださるという励ましの約束として読んでいます。それは決して間違いではありませんが、この箇所の文脈の中で考えるならば、19~20節は罪を犯した人に対してその罪を指摘し、悔い改めを求める者が二人でも、三人でも「心を一つにして」祈り、また「イェシュアの御名によって集まるところには、イェシュアもその中にいる」ことを述べています。これが狡猾なサタンの敵意に対処する神の知恵なのです。

(2) 「心を一つにする」

●聖書に結婚について語られている箇所があります。二か所取り上げてみたいと思います。

①【新改訳2017】創世記2章18節、22~24節
18神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
22 神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。
23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」
24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

●パウロはこの創世記2章24節を引用して、「この奥義(「ミュステーリオン」μυστήριον)は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(エペソ5:32)と述べています。

②【新改訳2017】伝道者の書4章9~12節
9 二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。
10 どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。
倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
11 また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。
12 一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

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●上記の聖句も、一見、夫婦の関係を教えているように見えます。しかし、そこにはもっと深い事柄が隠されているのです。人としての「二人」が、もう一つの糸によって結ばれるとき、すなわち「三つ撚りの糸」になるとき、それは「簡単には切れない」最強の力となるのです。

●男はヘブル語で「イーシュ」(אִישׁ)。女はヘブル語で「イッシャー」(אִשָּׁה)です(右上図)。男と⼥を表わすヘブル語の中で、相⼿にあって⾃分にはない⽂字といえば、⼥の場合は「ヨッド」(י)で、男の場合は「へー」(ה)という⽂字です。二人を結び付けているのは「ヤーハ」(יָהּ)です。

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●「ヤーハ」とは神聖四⽂字(יהוה)の略した形で、「主」という神の固有名詞です(右図)。そのことを、マタイ18章では「心を一つにし」、「主の御名によって集まる」と表現しているのです。

●「男と女」「夫と妻」という「二人」の関係は、本体である「神と人」「神とイスラエル」「キリストと教会」という関わりを表わす「型」となっており、それが「一体となる」とき、神に敵意をもつサタンに対して、最強の力を持つのです。これは奥義なのです。敵意を打ち砕かれる方は、神であり、メシアであるイェシュアです。サタンである蛇が女を惑わして以来、サタンの子孫と女の子孫との間には敵意が置かれています。敵意がないのは、実に、創世記1~2章とヨハネの黙示録21~22章だけです。

画像の説明

●私たちは今、サタンの敵意のただ中に置かれているのです。聖書はそのような枠で解釈され、読まれるべきです。マタイの18章20節の「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、私もその中にいるのです」というみことばは、神のご計画にある御国の視点から読まれるべきです。「集まっている」(「スナゴー」συνάγω)とありますが、私たちが主体的に「集まっている」という意味ではありません。正しくは、イェシュアの名において「集められている」(受動態)という意味です。前にも学んだように、へブル的視点における「名」とは、その実体を表します。すなわち、イェシュアの名とは「イェシュアの支配と権威、働きとご性質のすべて」を表します。そのために「集まっている」「その中にイェシュアがいる」という約束です。私たちが集まっていろいろな問題を祈るところに、わたしはいる」とは言っていません。主によってある目的のために集められているところに(たとえそれが二人、三人であったとしても)、イェシュアにある特別な力が現わされることを約束しているのが20節の約束なのです。その例が、ヨハネの黙示録に預言されている「二人の証人」です。

(3) ヨハネの黙示録に見る「二人の証人」

●彼らが登場するときには、すでに教会は携挙されていますから、患難時代におけるサタンの敵意に対処する機会を教会は持っていません。この「二人の証人」は、地上にいる同胞イスラエル(ユダヤ人)の罪を指摘して、彼らを悔い改めさせるために、神であるイェシュアから特別に遣わされた者たちなのです。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録11章3~12節
3 わたしがそれを許すので、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。」
4 彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
5 もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。
6 この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。
7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。
10 地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
12 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。

●ここに登場する「二人の証人」が誰であるかについて、聖書は明確にしていません。しかし、超自然的な力と明確なメッセージをもった人物であることが分かります。彼らはどこに遣わされるのでしょうか。それは神殿が建つ場所であるエルサレムです。現在、エルサレムに神殿はありませんが、将来、そこに神殿(第三神殿)の建設が許される時が来るからです。その時は、ダニエルが預言しているように、反キリストとユダヤ人が七年間の平和条約を結ぶ時です。ユダヤ人たちはこの反キリストを真のメシアと思い込まされるのです。しかしその中間時点(三年半)で彼は神殿でのささげものをやめさせます。なぜなら、神から遣わされた「二人の証人」が、エルサレムにおいて、ユダヤ人たちに彼らの罪ーすなわち、「あなたがたがそこで行っていることは間違っている。これはわたしのものでも、わたしから出たものでもない。わたしはこの神殿、祭壇は要らない」という神の怒りを指摘し、彼らに悔い改めを迫るからです。すでに反キリストをメシアとして信じて契約を結んだユダヤ人は、この「二人の証人」を迷惑千万な存在として拒絶します。

画像の説明

●この「二人の証⼈」の働きの期間は1260 ⽇、これは42ヶ⽉(ひと⽉を 30 ⽇で計算)、三年半に相当します。彼らの働きの期間は、ダニエルの最後の⼀週(7 ⽇を7 年に計算)における前半の期間です(上の図参照)。彼らの働きを阻⽌しようとする者があれば、その者は神の超⾃然的な⼒によって容赦なく焼き殺されます。また彼らは、その働きの期間、⾬が降らないように天を閉じる⼒も持っています。さらに、あらゆる災害をもって、地を打つ⼒が与えられています。それはひとえに神の⺠であるイスラエルの⺠に誤りを指摘して、彼らを救いに導くためなのです。

●7 節「二人の証人」は定められた三年半の間、神の完全な保護の下で、証しの働きを全うしますが、そのあとに敵が彼らに打ち勝つことになります。「底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう」からです。この獣こそ、⻯(=サタン)から権威を授けられた「反キリスト」です。そして彼らの死体はエルサレムの大通りにさらされるのです。9〜10 節には、「もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである」とあります。おそらく、全世界の人々がテレビの衛星中継によって(あるいは、ネットによって)、彼らが死んだことを知り、そのことを喜び祝って互いに贈り物を贈り合うということが起こります。というのも、この「二人の証人」が数々の災いをもって地に住む者たちを苦しめたからです。彼らは「二人の証⼈」が死んだことで⼤喜びすると同時に、彼らを殺した反キリストのことをあたかも⾃分たちの救い主(メシア)かのようにますます歓迎するようになるのです。それほどに、「ふたりの証⼈」の存在は、罪の⽣活を楽しんでいる者たちにとって迷惑千万、うざい存在なのです。

●11~12節では、「しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。」とあり、「二人の証人」に与えられた使命が全うされるのです。これらのことは、まだ歴史上には起こっていない将来の出来事です。しかし、このような想像もできないような神のドラマが展開し、そして確実に実現するのです。

ベアハリート

●今回、マタイ18章20節において、イスラエルに対する神から遣わされた「二人の証人」について取り上げましたが、彼らの働きはメシア再臨直前にその真価が現わされます。ユダヤ人たちは彼らの証言が正しいと認めるに至るのです。教会もイスラエルも、いずれも今のところ、サタンの敵意にさらされています。だれが罪を犯し、だれがその罪を指摘して自分の兄弟を得るのかは分かりません。しかし、それに対処する原則は変わらないのです。サタンの策略に対していかに神の知恵をもって対処すべきかを、イェシュアはここで教えているのです。今もなお私たちは、サタンの敵意のまっただ中にいることを決して忘れないようにしなければなりません。なぜなら、「終わりの時」が近づけば近づくほど、敵の力は増し加わって来るからです。私たちは、神のご計画をしっかりと見据えながら、主にある者たちが神によって守られるように祈り続けなければなりません。

2020.7.19
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