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あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ

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伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。

12. あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ

【聖書箇所】12章1~14節

ベレーシート

  • 「コーヘレット」(伝道者)は知恵を深めるにつれ、多くの人々に「知恵」を教えました。彼は多くの格言を吟味し(良く考え、思索して)、尋ねきわめ(探求し、研究して)、多くの格言(箴言)をまとめ(編集し)ました(12:9)。その彼が最終的な結論を出しているのが「伝道者の書」の最終章(12章)です。それゆえ、私たちはその結論に耳を傾けるべきです。

1. あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ

【新改訳改訂第3版】伝道者の書 12章1節
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

【新共同訳】
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。

(1) 冒頭の接続詞が意味すること

  • 12章1節は「ヴェ」(וְ)という接続詞で始まっています。ということは、その前に書かれていることと関係していることを意味しています。多くの聖書がこの接続詞を訳していないのは不思議です。すでに11章9節に「若い男」「若い日」(青春時代)という言葉があります。「若い男(若い者)」は「バーフール」(בָּחוּר)、「若い日」は「ベフーロート」(בְּחוּרוֹת)で、伝道者は若い者に向かって、若さを喜び、青春時代を心の赴くままに謳歌せよと語っています。しかし同時に「すべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」と釘を刺しているのです。もし、神を認めない人生を送るならば、「若さも、青春も、むなしいからだ」(11:10)としています。そしてこの後に12章1節が続いているのです。1節の冒頭の接続詞「ヴェ」(וְ)の訳は、「したがって」が適当かと思います。「したがって、あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」となります。

(2) 「覚えよ」という訳語について

  • 「覚えよ」と訳されているヘブル語は「ザーハル」(זָכַר)の命令形「ゼホール」(זְכֹר)です。この動詞を新共同訳は「心に留めよ」と訳し、岩波訳は「思い起こせ」と訳しています。私は「心に据えよ」と訳したいと思います。

(3) 「創造者」という原語について

  • あなたの心に据えるのは誰なのか、それは「あなたの創造者」だとあります。最近、創造主訳聖書が出版されました。その聖書では「神」(「エローヒーム」אֱלֹהִים)をすべて「創造主」と訳しています。では12章の「創造者」をどのように訳しているかといえば、それは「造り主」です。しかもその「造り主」は複数形で、動詞「バーラー」(בָּרָא)の分詞複数形「ボールエ」(בּוֹרְאֶי)です。なぜ複数形になっているのかと言えば、「神」を意味する「エローヒーム」が畏敬の複数形であるのにならってそうしていると考えられますし、あるいは三位一体論的神という意味からそうしていめとも考えられます。いずれにしても、「あなたの造り主(創造者)を心に据えよ」。これが伝道者コーヘレットが次世代の者たちに訴えているメッセージなのです。
  • しかも、このメッセージをさらに強めるために、「わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」とあります。「わざわいの日が来ないうちに。」と「『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」は、同義的パラレリズムです。つまり、老年になる前に、「あなたの造り主(創造者)を心に据えなければならない」というのです。おそらくそれは、神を心に据えるということを学ぶためには多くの時が必要だからだと考えます。それは伝道者自身が身をもって経験したからではないでしょうか。老年期において「何の喜びもない」というのは、若い時に自分の創造者を心に据え、神を尋ね求めることをしてこなかった帰結なのです。神を求めることは生涯の探求です。それゆえ、伝道者は若い者に、青春時代に神を心に据えて、神を尋ね求めるようにと諭しているのです。

2. 老年の描写

  • 2節から6節までは、「老年の描写」がなされている箇所です。ここでは、老人の肉体の各部分の描写と他の比較を交えて、老年期を描写しています。 「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に」(2節)。老年になると歯は少なります。「粉をひく」とは臼歯(奥歯)の働きを言っており、食べたものを消化されやすいものにひきこなされます。しかし、老人になるとその歯が少なくなり、生きていくことができなくなるのです。その他にも、目はかすみ、光を楽しむことが少なくなっていくし、元気な若い時には、雨のあとに必ず晴天が訪れ、太陽が昇ると考えていたのに、老年になるとそうはいかなくなるというのです。
  • このように、伝道者の書12章1節にある「わざわいの日」とは老年の日々を意味しています。老年そのものは、厳しく冷たい現実であり、その先に必ず訪れる死もまた悲しい現実です。この二つをまともに見据えるならば、人生はまことにむなしいものとならざるを得ません。老人のみじめな姿は、伝道者の書のテーマである「空しさ」の象徴です。そして、それは人となられたイェシュア・メシアの姿でもあります。

    【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~8節
    6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
    7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
    8 人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

  • これは創世記の1章2節にある「地は茫漠として何もなく」(トーフー・ヴァヴォーフー)のように、闇という死の世界です。しかしそこから神は光を造られて回復のわざをされたのです。まさに、それは「夕があり、朝があった」という創造のわざです。
  • 伝道者の書の「空の空」は「ハヴ―ル・ハヴァ―リーム」で、カインによって殺された「アベル」のヘブル語の綴りと全く同じです。アベルはユダヤ人によって殺されたイェシュアの型です。アベルは殺されましたが、彼の血は「大地からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4:10)のです。それは、つまりイェシュアの受肉から十字架の死の姿です。しかし、神はキリストを死とよみからよみがえらせ、天に昇らせ、神の右に着座され、いのちを与える御霊となりました(Ⅰコリント15:45)。この出来事によって、私たちは「空の空」という死の苦しみから救われることができることことを、伝道者の書は「神を恐れよ」ということばで預言しています。
  • 創世記6章3節に「120歳の奥義」があります。

    【新改訳2017】創世記6章1~3節
    1 さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、
    2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。
    3 そこで、【主】は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」

  • これは地上に悪が増大したために、神が創造した人を洪水によって地の面から消し去ろうとする時に語ったことばです。単に、人の齢を120歳にしようと言ったのではありません。なぜなら、この後に登場するアブラハムは175歳、サラは127歳、イサクは180歳、ヤコブは147歳と、みな120歳を越えてなくなっています。聖書の中で120歳で死んだのはモーセただ一人です。モーセの死についての記述を見ると実に不思議なことが記されています。

①【新改訳2017】申命記31章2節
彼らに向かって言った。「私(モーセ)は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。【主】は私に『あなたはこのヨルダン川を渡ることはできない』と言われた。

②【新改訳2017】申命記34章5~7節
5 こうしてその場所で、【主】のしもべモーセは【主】の命によりモアブの地で死んだ。
6 主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない
7 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった

  • モーセは確実に120歳で死んだのです。しかし、主が彼を葬りましたが、彼の墓を知る者はだれいないのです。しかし、「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」のです。これは復活を予表しています。神はモーセの生涯を通して、死と復活によって「人を新しく造ろう」とする神の決意を語っているのです。これが「120歳の奥義」です。聖書は実に不思議な書です。ですから、イェシュアはユダヤ人にこう言われました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章39~40節、46~47節
39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。
47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。


3. 伝道者の結論的メッセージ

  • 人はやがて老いて死んでいきます。しかし復活があることを聖書は隠されたかたちで繰り返し繰り返し語っています。このことを知って、「若いうちに、神を恐れることを心に留めよ」というのが、伝道者の書が言おうとするものです。
  • コーへレットが探求して来たその結果として行き着いた究極の結論、それはキリストの必要性を暗に示唆しているのです。

    【新改訳改訂第3版】伝道者の書 12章11節
    知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、
    編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。
    これらはひとりの羊飼いによって与えられた。

    ●「知恵ある者のことば」は「ひとりの羊飼いによって与えられた」とあります。この「知恵ある者」と「ひとりの羊飼い」とは、イェシュア・メシアを指し示していることは明白です。彼のことばは「突き棒」たとえられています。それは羊を正しい道に導くための道具であり、それは神の権威を象徴しています。クリスチャンたちを迫害しているサウロ(パウロ)に対して、主は「『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あたにとって痛いことだ。』」と言いました。このことばは、主が彼の良心に訴えかけ、神の権威に従うように促されたことばでした。

  • 伝道者の書の最後には、「結局のところ」(「ソーフ・ダーヴァール」סוֹף דָּבָר)ということばでコーへレットの結論を示しています。それは二つの事柄です。ひとつは「神を恐れること」であり、もうひとつは「神の命令を守ること」です。これがすべての人間(「ハ・アーダーム」הַאָדָם)としての本分なのだとしています。「神を恐れる」と「神の命令を守る」という二つの結論が完全に実現する世界は、神のご計画におけるメシア王国であり、さらなる先の永遠の御国においてです。そこにおいて人は神のみこころに完全に従う新しい心(心の割礼、みたまのからだ)が与えられます。それはすでに始まっていますが、それは信じる私たちの心の中においてであり、それはいまだ種のようなものです。「種」といえどもそれは神のいのちの種であり、その種が心の中にあるのとないのとでは雲泥の差です。
  • 使徒パウロはコロサイ書で次のように記しています。

    【新改訳改訂第3版】コロサイ人への手紙3章2~4節
    2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
    3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
    4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

  • もし、コーヘレットにこの神のご計画における光がなかったとしたなら、彼が行き着いた結論は絶望でしかありません。しかし彼が、これがすべての人間の本分だとしたのは、「日の下」にあって、永遠の希望の光の種を見出したからに他なりません。ここに「空の空」を越えた慰めと希望の道があるのです。

2016.3.31


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