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あなたの隣人をあなたのように愛すること

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

17. あなたの隣人をあなたのように愛すること

ベレーシート

  • レビ記19章には、イェシュアが律法を二つの戒めに要約したその後者の戒めが記されています(18節と34節)。その戒めとは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という隣人愛の戒めです。ただし、この戒めの中にある「あなた自身のように」という部分が、原文では「あなたのように」(「カーモーハー」כָּמוֹךָ)となっています。「あなた自身を愛するように」と「あなたのように」とはどのように違うのでしょうか。それは、前者が隣人を「自分自身を愛するのと同じ程度に」愛するというのに対して、後者は「あなたと同じ(立場にある)人間として」愛するというニュアンスの違いです。18節を直訳すると、「あなたは愛しなさい。あなたの隣人に対して、あなたのように」となります。
  • 19章から、神の民の日常生活の原理として「聖なる者となる」ことがどういうことか、その具体的な戒めが示されています。

1. 「古い契約」の命令は、「新しい契約」では必然的成就となる

  • 旧約律法におけるすべての命令は、「古い契約」では「死の務め」として私たちを断罪し、「新しい契約」では「御霊の務め」として私たちを生かす必然的成就となります。この原則をもって聖書を読む必要があります。
  • たとえば、19章2節の「あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(新改訳)を取り上げてみましょう。原文は「ケドーシーム・ティフユー」で、形容詞の複数形の「ケドーシーム」(קְדֹשִׁים)に、動詞「ハーヤー」(חָיָה)の未完了2人称男性複数の「ティフユー」(תִּהְיוּ)が続いています。この部分を口語訳は「あなたがたも聖なるものでなければならない。」と訳し、新共同訳は「あなたたちは聖なる者となりなさい。」と訳しています。NKJVでは“You shall be holy.”です。
    いずれも「・・であれ」「・・であるべきである」という要求・命令的な意味になっています。しかし、この命令は私たちの力で実現することのできないものであり、結果的には「私たちの死」を突き付けるのです。ところが、イェシュアの「新しい契約」の視点から見るならば、その主の要求・命令は、すべて主によって(御霊の助けによって)、将来的に「必ず、・・・となる」と解釈されなければなりません。なぜなら、主によって贖われた者たちは、将来、必ず、そのようになることが約束されているからです。そのように考えるならば、ヘブル語原文の動詞がなぜ「あなたがたは聖なる者となるであろう」という意味の2人称未完了男性複数となっているかが理解できるのです。もしこれが未完了形ではなく、完了形であったとしても、それは「預言的完了形」として確実にそのようになるという意味を隠し持つのです。旧約律法における神の要求・命令は、神の鳥瞰的なご計画とそのみこころ、およびその御旨と目的から解釈される必要があります。
  • 同様に、レビ記19章18節にある「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」にある「愛しなさい(You shall love)」が、なぜ完了形(2人称単数男性)で書かれているのかも理解することができます。それは、神のご計画における「新しい契約」の視点が含まれているからです。つまりその文法情報には、やがて「~のように愛するようになる」(You shall love)ということが啓示されていると考えます。
  • イェシュアの十字架の死と復活のみわざによって、すでに「新しい契約」が実現していますが、それはいまだ完全には実現していません。やがて、キリストの再臨のときに、私たちのからだが朽ちるからだから朽ちないからだに変えられることによって、はじめて神の律法を完全に実現できるようになるからです。
  • 「あなたがたも聖なる者とならなければならない」とする律法の命令が、やがて新しい契約によって、「あなたがたは聖なる者となる」に変わるのです。また「あなたはあなたの隣人を自分のように愛しなさい」という命令が、「あなたの隣人をあなた自身のように愛するようになる」のです。これが「新しい契約」を土台とする「御国の福音」です。しかもその福音は、すべて神によってのみ完全に実現されるという良きおとずれなのです。

2. 愛は律法を全うする

  • レビ記19章は日常生活における原則と倫理が記されています。しかもその内容は、単なる倫理の寄せ集めではなく、十戒とのかかわりに基づいています。そしてその中核は「神が聖であるように、聖なる者である(となる)」ことについての教えなのです。
  • イェシュアは律法を二つのことばに要約されました。ひとつは神に対する律法の要約であり、もうひとつは隣人に対する律法の要約です。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書22章35~40節
35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
38 これがたいせつな第一の戒めです。
39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


●並行箇所として、マルコ12章28~33節、ルカ10章25~28節を参照。イェシュアの語られた「よきサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:29~37)は、神への愛と隣人への愛の実際的な現われを記しています。


  • 使徒パウロは、むしろ、隣人への愛の現われのあるところに律法の全体を見ているようです。

【新改訳改訂第3版】ローマ書13章8~10節
8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。
10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします

【新改訳改訂第3版】ガラテヤ書 5章14節
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。


3. 二種類の異なるものを混合してはならない

  • 19節に目を留めたいと思います。

    【新改訳改訂第3版】レビ記19章19節
    あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。

  • 神は地の植物、および地の生き物を「種類にしたがって」創造されました。そして、神はそれを良しとされました。それは別の種類をかけ合わせてはならないことを意味しています。二種類の異なったものを混合する(ドレッシングする)ことは、神の「聖」と相容れないのです。
  • 申命記22章9~11節にも似たようなことが記されています。

    【新改訳改訂第3版】申命記22章9~11節
    9 ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。
    10 牛とろばとを組にして耕してはならない。
    11 羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。

  • レビ記19章と異なる点は、「牛とろばとを組にして耕してはならない」ということが加わっていることです。それは牛とろばのそれぞれの力を削ぐことになり、有効に田を耕すことにはならないからです。羊毛と亜麻糸という性質の異なるものを混ぜることによって、その品質を損なうことになる懸念があります。つまり、性質の異なるものを同時に使うことは、神の前にふさわしいことではなかったのです。それは神が「聖なる神」であり、区別される神だからです。
  • 聖さは純粋であることを求めます。純粋とは混じりけのないことを意味します。主のみことばは混じりけのないものであり、神の幕屋の器具も混じりけのない純金で作られていました。使徒パウロは、「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から・・・語る」と述べています(Ⅱコリント2:17)。イェシュアも「だれも、ふたりの主人に仕えるとはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)。これらはレビ記が教えている「聖さ」と深い関係があります。
  • 使徒パウロは聖と俗の区別を厳しく意識して生きることを勧めています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント書6章13~18節
13 私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。
14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」


2016.6.8


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