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あなたは初めの愛から離れてしまった

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23. あなたは初めの愛から離れてしまった

【聖書箇所】 2章4節

【新改訳改訂第3版】
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

【新共同訳】
しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。

【エマオ訳】
しかし、わたしはあなたを非難しなければなりません。なぜならば、あなたはあなたの初めの愛から離れたからです。

  • 賞賛されたあとで、叱責を受けています。
    「あなたには非難すべきことがある」「あなたに言うべきことがある」「あなたを非難しなければなりません」などと訳されていますが、原文の直訳は「わたしはあなたに反対の(態度)を持っている」です。KJV訳は、I have somewhat against thee.
  • 主は自分の愛する教会に面と向かって語っています。この叱責は重要です。なぜなら、花婿であるキリストがやがて自分の花嫁となるべき教会に対して、花嫁としてふさわしく整えようとして語られた愛の叱責だからです。ですから、正しく理解し、受け留める必要があります。
  • 真理を擁護するために、道から離れそうになっている者たちに対する厳しい指導や戒規の適用がなされます。真理の戦いは必要ですが、人に対して律法的にしていく懸念があります。批判的精神をもった正統的教理の擁護への熱心は、しばしば神との親しい愛の交わりにとっては致命的ともなりうるのです。エペソの教会がそうだったのです。教理が正しく、正統的な信仰であったとしても、心は冷えて、愛のいのちを失っている場合もあるのです。それゆえ、主イエスは叱責しています。

1. 「初めの愛」とは何か

  • 「初めの愛」ということばは、聖書でこの箇所(2:5)にしか使われていない表現です。「初め」と訳されているギリシア語は「プロートス」(πρωτος)という形容詞です。この言葉は、「まず、はじめの、最初の」という時間的な意味だけでなく、「第一の、最高の、主要な、何よりも優先すべきこととしての」という質的な意味もあります。
  • 真理の擁護のゆえに、神とのかかわりにおいて最も大切な「愛」から「離れた」ということがここで指摘されているのです。「離れた」と訳された「アフィエーミ」(άϕίημι)は、「~から去らせる」「放任する」「見過ごしにする」「免除する」「赦す」といった意味がありますが、ここでは、「離れる、見捨てる、捨て去る、無視する」といった意味です。花婿からすれば大変な事態になっていると見なされたのです。しかも、ここでの「アフィエーミ」はアオリストという時制が使われています。つまり、過去のある時点において、初めの愛から「離れた」のです。山岸登師は「このようなアオリストは、総括的アオリストと言って、ある時点で離れたという事実を強調し、その結果今も離れているということを意味しています」と述べています。それゆえ、次節の5節では、どの時点から離れてしまったのかを思い出して、悔い改めるようにと命じられているのです。

2. 「初めの愛」が意味するもの

  • この「初めの愛」についての理解がきわめて重要です。ところが、ここには「初めの愛」についてのなんの説明も記されていません。ということは、すでに主イエスがこれまでなんどもそのことについて教えて来られたからだと理解できます。それは神と人とのかかわりにおける「いのち」(「ゾーエー」ζωη)と言えるものです。ヨハネ文書(ヨハネの福音書、ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録)では、この「いのち」は特愛用語です。新約聖書ではこの「ゾーエー」が135回使われていますが、そのうち、ヨハネ文書では福音書が36回、手紙(第一)が13回、黙示録が17回で、合わせると66回。およそ全体のおよそ半分を占めています。
  • ここでいう「いのち」とは、永遠のいのち、すなわち、神のいのちという意味であり、神とのかかわり、神との関係性、神との交わりを通して与えられる「いのち」です。
  • 「いのちを得る」とは、神と人とが親しい、豊かなかかわりを持つことを意味しています。また、その「いのちのしるし」とは、かかわりにおける「親しさ」であり、「豊かさ」と「喜び」です。それが「いのちのしるし」と言えるものです。
  • 「いのちを得る」ための重要なキーワードは、「主との友情」です。ヨハネの福音書15章15節には、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」とあります。これは、ヨハネの福音書独自の思想です。新約聖書では「友」という言葉はまれにしか使われません。ヨハネの福音書ではキリストと私たちのかかわりを表わす場合に「友」ということばを使っています。主なる神を「友」と呼ぶにはあまりにもおこがましいという思いがあるかもしれませんが、驚くべきことに、私たちは「主との友情を育むことを許され、そこへ招かれています。」―これこそが、ヨハネのいう「いのちを得る」という意味なのです。
  • 私たちの主イエスは、「神(御父)のふところにおられた方」であり、御父を解き明かされる方です。私たちがその主の友となるということは、神とのより親しい深い交わりができることを意味します。そして聖霊なる方も、友としてのイエスの語られたことばの意味をより深いレヴェルにおいて私たちに悟らせ、理解できるようにサポートをして下さるのです。
  • 「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
    とあるように、「しもべ」と「友」との違いはあきらかです。「しもべ」は主人のすることを知らないが、「友」は知らされるという違いです。また、「しもべ」は主人のためにいつも何かをしなければならないというDoingが強調されるのに対して、「友」は相手のシークレットを知っているというかかわり、つまりBeingが強調されています。
  • イエス・キリストが、なぜ、父から聞いたこと(神の秘密も含めて)を知らせたのかと言えば、「あなたがたは私の友だから」という点です。この「友」としてのかかわりこそが、ヨハネの福音書においてはとても顕著なのです。友として、神の秘密を知る者とされる。そのために、友の特権として神のふところ―secret place―に入ることが許されているのです。そのような「主との友情」は、私たちの信仰をゆるぎないものとし、希望はより広げられ、神への愛はさらに深まり、喜びと平安と確信は、私たちを豊かにしていくと信じます。その結果、私たちの祈りの生活は本質的に変わります。自由を感じるようになります。さらには断固とした姿勢でイエスについて行く者となるはずです。日々を「イエスとともに過ごす」ことで、私たちのアイデンティティは、私たちの中にあるのではなく、キリストのうちにあることを見出します。それが私たちをしてブレない信仰を形作っていきます。
  • ヨハネの福音書の17章は有名なイエスの弟子たちのための御父に対するとりなしの祈りがしるされています。そしてその内容は、弟子たちが「キリストと一つとされる深い交わり」が与えられることです。つまり、ヨハネの福音書の一番伝えたいことが、このイエスのとりなしの祈りの中に言い表わされています。それは、御父と御子とのゆるぎない愛の交わりの中に、主を信じて従う者たちが入ることをイエスは切望しておられるのです。私たちが「イエスの友となる」ということは、神ご自身のふところ深く入るということに他なりません。これが、黙示録2章4節にいう「初めの愛」の内実だと信じます。

2013.12.25


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