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あなたは律法をどう読んでいますか?

36. あなたは律法をどう読んでいますか?

【聖書箇所】 10章25節~37節

はじめに

  • この箇所には有名な「サマリヤ人のたとえ」話があります。この話がどういうコンテキストで語られたかを理解せず、この話だけを取り出してしまうならば、おそらく教会学校で教えているように「私たちはこのサマリヤ人のように隣人に対して愛を実践する者となりましょう」という話になってしまうと思います。果たして、イエスはそのような教えを語るためにこのたとえを話されたのでしょうか。
  • このたとえ話が語られた背景は、ひとりの律法学者がイエスを試そうとしてやってきたその問答の枠のなかに設定されている話です。ですから、その枠内の設定をよく理解しなければ道徳的な勧めに終始してしまいかねません。

1. 律法学者とイエスの問答のコンテキスト(25~29節)

  • 原文では「すると、見よ。ある律法の専門家がイエスを試ようとして、立ち上がった。」となっています。「立ち上がった」(アオリスト)という表現のなかに鼻息の荒さを感じます。ルカはここで「すると」καιという接続詞と「見よ(ほら、さあ)」ίδούということばによって、それ以前に扱われた事柄と意図的に関連させるようにしているのです。とすれば、コンテキストを無視することはできません。
  • イエスが70人の弟子たちを遣わし、その弟子たちが帰ってきて喜んで報告したことは、「イエスの御名を使うと悪霊たちが服従した」ということでした。それに対してイエスはそんなことで「喜んではならない。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言いました。換言するならば、「名が天に書き記されている」とは、父が子を知り、子が父を知っているというその愛のかかわりに招かれている現実(リアリティ)を意味します。しかもこの現実を啓示され、かつ招かれている者とは、この世の賢い者や知恵ある者ではなく、「幼子たち」、つまり「弟子たち」であることをイエスは聖霊による喜びをもって語っています。そしてそれが神の喜びであり、みこころなのだとしています。このかかわりのいのちは秘儀であり、これまでだれにも明かされることはなかったのです。弟子たちに明らかにされた「愛のかかわりのいのちの現実」を、多くの預言者や王たちが見たいと願っても見ることが出来ず、聞きたいと願っても聞くことのできない事柄だったのです。それが今やイエスの弟子たちに明らかにされている現実であり、むしろこのことを喜びつづけなさい(現在形)と言われたのです。
  • ですから、このあとに「すると」、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言ったのです。ここにはイエスに対抗する自信に溢れる姿があります。「先生、何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」というこの質問は、真摯な求道者としての質問ではなく、「すでに私としては永遠のいのちを相続できる確信があるのですが、何をしたからそれを受ける(相続する)ことができると思いますか」というニュアンスで質問しているのです。この質問が「試みること」であることを常に念頭に置く必要があります。最初からイエスがどう答えるのか誘導尋問しているのです。
  • 当時の律法の専門家にとって、律法を守ることによって得られる(相続される)ものは「永遠のいのち」だと信じていたのです。ただし、この「永遠のいのち」はイエスが言うところの「永遠のいのち」とは意味合いが異なっています。その証拠に、ヨハネの福音書5:39~40でイエスはこう言っています。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいちのがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」と。
  • さて、律法の専門家の誘導質問に対してイエスがどう答えているかに注目すべきです。「律法には、なんと書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」とてもいい質問です。「あなたはどう律法を読んでいますか。」というのは、どのように理解しているのかという問いかけです。イエスのこの問いかけに対して、律法の専門家は27節にあるような模範解答をします。ですからイエスは「そのとおりです」と言いました。原文では「あなたは正確に(正しく)答えてくれました」となっています。そして続いてイエスは「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と言われました(10:28)。
  • ここまでの流れでは「律法を行うことで、永遠のいのちを自分のものとして受ける」という律法の専門家たちの考え方にイエスは一見、同意しているように見えます。「なにをすれば永遠のいのちを自分のものとすることができるか」というパラダイム(ものごとの捉え方、見方を表わす語彙)の中にイエスを誘い込むことに成功したかに見えます。
  • 続く29節では、「しかし彼は」とあります。イエスの示した反応では自分の考えの正しさが受け止められたということに自信がなかったのかもしれません。そこで、彼はより「自分の正しさを示そうとして」(新共同訳では「自分を正当化しようとして」、柳生訳「自分の専門の知識をひけらかそうとして」、岩波訳「自らを義としたいと望んでいたので」)、イエスに「では(ところで)、隣人とは、だれのことですか」と尋ねました。その質問は、前のイエスの反応に気を良くした彼がより完璧に自分を義としたいという思いから、あるいは自分の考えに太鼓判を押してもらいたいという思いから言ったものだと言えます。

2. サマリヤ人のたとえ話の真意(30~37節)

  • ところが、彼の考えている「隣人」に対する考え方が根底からひっくり返されてしまうようなたとえ話がイエスによって語られたのです。この話によって会話の主導権がイエスに移りました。イエスを試みて自分の正しさを立証しようとした律法の専門家のもくろみは見事にはずれ、結局のところ、墓穴を自ら掘ってしまうことになったのです。
  • 律法の専門家が考えている「隣人」とは、あくまでも「ユダヤ人の同胞」という範疇においてでした。ところが、イエスのたとえ話に登場する強盗に襲われたユダヤ人に対して、同胞である祭司が彼を見て彼とのかかわりを避けました。次も、同胞のレビ人が彼を見て同じくかかわりを避けました。ところが、ユダヤ人とは犬猿の仲と言われる「あるサマリヤ人」は、彼を見てかわいそうに思い、近寄って自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱をしました。さらに、介抱に要する費用を全額払うことを宿屋の主人に言い残してそこを去ります。「隣人とはだれか」ではなく、だれが「隣人になったと思うか」というイエスの質問に、律法の専門家は「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えざるを得ません。するとイエスは「あなたも行って同じようにしなさい」とチャレンジしたにです。
  • 実は、ここからが重要です。イエスの「あなたも行って同じようにしなさい」ということばの中に、「律法をどのように読んでいますか」というイエスの鋭い問いかけの真意があったのです。イエスは律法を廃棄するために来られたのではなく、成就するために来たのです。ですから、イエスは人の考えている理解、あるいは伝統的な解釈をことごとく矯正されます。
  • たとえの中に登場する「あるサマリヤ人」とはイエス自身のことです。なぜなら、「かわいそうに思って」(33節)という感情はイエスにのみ使われている語彙で、神の「深いあわれみ」をあらわす動詞「スプランクニゾマイ」σπλγχvίζομαιだからです。
    他の箇所では、マタイ9:36/14:14/15:32/18:27/20:34、マルコ1:41/6:34/8:2/9:22、
    ルカ7:13/15:20.に見ることができます。
  • まさに律法の専門家が求めるべきことは、「何をすれば・・」ではなく、その「何か」をなす力の源泉が何かを知ることであったのです。「あるサマリヤ人が示した行為」の源泉がいったいどこから来ているのか、行動を内側から促すところのいのち、あわれみの心がいったいどこから来るのか、まさに律法の専門家が求めるべきことはこの「かかわりのいのちの秘儀」だったといえます。イエスはそのことに気づかせるために、あえて「行って同じようにしなさい」という遠まわしの言い方で暗に示されたのだと思います。

2011.12.22


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