あらしの中から語られる神(2)
27. あらしの中から語られる神 (2)
【聖書箇所】40章1節~41章34節
ベレーシート
- ヨブ記40~41章には、第一回目の「主の語りかけ」に対してヨブが答える場面と、さらにそのヨブに対して第二回目の「主の語りかけ」が記されています(タイトルは「神の語りかけ」としていますが、聖書では「主」(יהוה)となっていますので、ここでは「主の語りかけ」とします)。ところで、なぜ主は、二度も「あらしの中から」語りかける必要があったのでしょうか。 第一回目の「主の語りかけ」に対して、ヨブは40章3~5節で以下のように答えています。
【新改訳改訂第3版】
3 ヨブは【主】に答えて言った。
4 ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。
5 一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。【新共同訳】
3 ヨブは主に答えて言った。
4 わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。
5 ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。
- 本来ならば、これで十分なように思えるのですが、40章6節に「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。」とあるのです。この節以降で主が語ろうとしたことは何なのかを瞑想したいと思います。
1. テキスト(40:1~14)における「置換」と訳文について
- 主とヨブとのやり取りの流れをめぐって、テキストの順序の置き換えをしている訳があります。中澤洽樹訳では、3~5節(ヨブの応答)を1~2節の前に持ってきています。そして1~2節の後に6節以降をつなげています。中澤氏は1~2節を次のように訳しています。
【中澤訳】
1. そこでヤハウェがヨブに答えて言った。
2. 「全能者と争おうという者がもう降参か。神と対決する者らしく反駁せよ」。
- 特に注目したいのは、2節に「全能者と争おうという者がもう降参か。」にある「もう降参か」という訳です。この訳は新共同訳の「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか」と酷似しています。これは新改訳の「非難する者」という訳とは随分とニュアンスが異なります。原語の「イッソール」(יִסּוֹר)は名詞で、ここ40章2節の箇所にしか使われていません。「イッソール」の動詞は「ヤーサル」(יָסַר)で、本来、「懲らしめる」「訓練する」という意味ですが、「矯正する」という意味もあるので、そこから「譲歩する、譲る」というニュアンスで中澤訳と新共同訳は訳しているようです。たとえそうであるにしても、中澤訳の場合はヨブが主の語りかけに応答した後で「もう降参か」と主が語りかけているのに対し、新共同訳の場合はヨブが応答する前に「引き下がるのか」と訳しているのは全体の流れからすると不自然のように思われます。
- ちなみに、40章2節を3~5節のヨブの反応を見た主が語ったことばとして考え、パラレリズム的に訳すならば、以下のようになります。
全能者と言い争う者よ、(自分の言い分をここで)矯正するのか。
神と論じ合う者よ、答えて見よ。【私訳】
- 関根訳の場合は1~2節はそのままの位置ですが、その後に6~14節が繋がり、その後にヨブの応答である3~4節が来ています。これも主とヨブとのやり取りを自然に理解するための処置だとしていますが、主が取り扱おうとしている内容から見ると、少々、不自然さを感じます。
2. 主のヨブに対する第二回目の問いかけの主要点
- 38~39章に見られる第一回目の主の「あらしの中から」の問いかけの鍵語は「知」です。「・・を知っているか」という表現が繰り返されているのが特徴です。自然の営み、いろいろな動物、天体が登場していますが、その主眼点はそれらの不思議な営み、生態、そして運行などを知っているかというものでした。神の創造の世界には人間の知らないことが多くあることを主はヨブに問いかけたのです。
- ところが、40~41章に見られる第二回目の、同じく主の「あらしの中から」の問いかけの鍵語は「力」です。それを聖書では「さばき」と訳していますが、原語では「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)です。つまり、「統治力」「支配力」「制御力」を意味します。主は、二つの海獣〔「かば」ベヘーモート, בְּחֵמוֹת〕と〔「レビヤタン」リヴヤーターン,לִוְיָתָן〕を例にあげて、それらを捕獲することは決して容易ではないこと、ましてや、それらを思うように飼ったり支配したりすることが困難であることを語っています。人間のどんな武器をも軽くはねのけてしまうそれらに立ち向かうことはまさに狂気の沙汰であることを示しています。
- これらの例の意図は、二つの海獣を正しく治めることのできる力があるならば、その力を行使してみよ、と主はヨブに反問的に挑戦しているのです。つまり、それが不可能であるように、どんなに正義を訴えたとしても、現実の人間社会におけるさまざまな不義や不条理を制することは難しいことを暗に示しているように思います。
- 人間的な視点から出発する問題(苦難や悪の問題)は、ヨブが三人の友人やエリフと対論して経験したように、真の解決を得ることは難しいこと。人間の正しさや力によっては、制することのできない領域、支配することも、自由にすることもできない領域があることを教えているように思います。神の登場は、常に、神の視点から問題を考えようとしない限り、常に、地的現実の問題に引きずり回されてしまうということを悟らなければならないのだと思います。
2014. 7.12
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